嵐の教師
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
今日は節分。また今年も食べる豆が、ひとつ増える時期が来ちゃったねえ。
本当、一人暮らしを始めると、自分が今まで色々とお膳立てされて生活してきたことが身に沁みるよ。
幸いなことに、こうしてお金をもらって日々を暮らすことができているけど、出費について意識しなかったことばっか。ガス代、電気代、水道代とか……。
自分の力で生きる一歩一歩。君はどんな時に実感している? 誰かの庇護から抜け出た時に広がる世界、意識できる子はどれだけいるのだろうか。
豆を食べながらでもいいからさ、自分の知らない世界について教えてくれる話、聞いてみないかい?
僕たちが吸っている空気。それに含まれる酸素って、何が作っているか覚えているかい?
――そう、植物の光合成によるものだよね。
植物は太陽の光を浴びることで養分を作り、自給自足ができている。その際に、二酸化炭素を取り込み、酸素を出しているわけだ。
これも知っていると思うが、植物は光合成をする裏で、しっかり呼吸もしている。酸素を取り込んで、二酸化炭素を出しているんだ。
その吸う酸素の量よりも、光合成によって出す酸素の量の方が多い。よって天気のいい時には、植物が盛んに酸素を出し、僕たちを含めた多くの生き物の生活を支えているんだ。
ずっと昔、光合成などの科学的な研究が進む、前のこと。
当時は戦と病、そして不十分な収入により都は荒れ果てて、道という道には、人の死体があちらこちらに転がっていたという。
腐敗が進んでしまうと、人々はその処理を嫌った。今でこそ衛生面の問題を科学的に説明できるが、この頃は死体などの穢れが持つという「瘴気」の考えが主流だった。
呪いや祟りから、具体的な方向へ一歩近づいたといえる、瘴気の概念。この悪い空気をどうにかして打ち払えないものか、と思案する人が、その時代も大勢いたらしい。
その少数派に、草花を植えることによって被害を軽減できるのでは、と考える者たちが存在した。
人がなかなか訪れない、高い山の上などは「空気がおいしい」と感じることが多い。それはきっと山々を覆う木々が、瘴気とは異なる神聖な気を作り出しているためである。
ならば、地上に住まう我らの土地も、積極的に緑を植えることによって、瘴気を防ぎ、病魔の歩みをさまたげることができるはずだ、と力説したとか。
そして論よりも証拠とばかりに、彼らは自分たちが住まう家の周りに、最低限の道幅だけを残して、草の苗や種を植えこみ始めたんだ。
その様子を見て、一部の老人たちが忠告をする。
「お前たちがいう聖なる気は、そう簡単に得られるものではない。
山々に生えた草たちはいずれも、自然の中で長い時間をかけて、気の作り方を学んだはずだ。それをいきなり、人の手で持って再現しようとしても、上手くいかないかもしれないぞ」と。
一応、話は受け取られたものの、それで取りやめてしまっては、やらないことと大差ない。
世代をまたぐことになろうとも、瘴気の問題を解決するさきがけとならんと、彼らの手による栽培は続いた。
数ヶ月もすると、芽吹いた種、育った苗たちに囲まれるようにして、緑が増し始める実施者の家々。ひとまず計画の第一段階は、文字通り、根を張ったとみて良かった。
これによって、家々に住む者たちが健康で過ごすことができれば、間接的に聖なる気が緑の周りに生まれることが証明できるはず。計画に賛同した人々は、そう強く信じていたんだ。
ところが、更に数ヶ月。ほとんど台風が訪れることなく、時季が秋へ差し掛かろうとしていた頃。いよいよ元は土の色をさらしていた地面が、葉の色で覆いつくされそうになるという矢先で。
少数派に属する一人で、最初期から大規模な栽培を行っていた男が、ある日の未明に、自宅裏の下生えの中で、うつぶせになって倒れているのを発見される。近くには木の杓が転がっていたことから、
彼はその時点で呼吸をしておらず、脈のみがかろうじて残っているという極めて危険な状態だった。数日間に渡る介抱の結果、ようやく意識を取り戻した彼だったが、そのしゃべりはろれつが回らなくなっていたという。
これは日を改めても治らず、その日に何が起こったかは主に文字に書き起こされ、知らされることになる。
彼は発見される前日の夕方。毎日の習慣通り、家の周りの草たちに水をあげようとしていたらしい。
杓に水を汲んでかけて回り、なくなってはまた家に引き返して、水を汲んでくる。この数ヶ月間、ずっと繰り返して来た仕事だったという。
それが家の裏手。最初に種を撒き、育ち始めた箇所まで来た時、下生えの一部の葉がひとりでに揺れたんだ。
何か虫でも通ったかなと思い、かがみこんだ彼は指でそっと葉をどけてみたのだが、そこで目にしたのは、何とも奇妙な光景だったらしい。
海で巨大な岩に張り付く、フジツボの集まりのようだったと、彼は記した。
指二本分にも満たない大きさの、葉の裏側。そこには普段見られるような葉脈の姿はなく、無数の口唇があったという。ひとつひとつは、小指の先よりも小さいものだったが、それらが数十個、すき間なく葉の裏を埋め尽くしていたんだ。
「あっ」とつい指を離し、葉が翻ろうとした瞬間。無数の口から一斉に紫色の吐息が立ち上り……今に至るというとのことだった。
葉の裏側の、無数の口唇。
彼の体調を診る者以外は、いったん家へ取って返すと、日中の間。自分たちの周囲に生えている草たちの葉を確かめ始めたんだ。
話に聞く限りでは、きっと「瘴気」持ちなのだろう、と彼らは判断した。もし事実ならば、すぐに刈り取ってしまえるように、めいめいで鎌を片手に携えながら、確認は続く。
ささいな見落としもないように、交代で各家を巡りつつ探ったものの、彼の話にあったような、口唇に満たされたという葉は見つからなかった。件の彼の家を探っても、だ。
だが、単なる見間違いで済ませるわけにもいかない。実際、今でも彼は滑らかに言葉を紡げる状態になかった。もしかすると、葉の裏にくっついていたのは口唇に見間違える形状をした、毒虫か何かという恐れがある。
もうじき日が暮れる時間に差し掛かり、一同は解散。気づいたことがあれば、即、連絡することを約束し合ったそうだ。
その日の夜中のこと。
植物栽培派のひとりである青年は、解散した直後から、この数ヶ月で自分が撒いた種たちの成長日誌をめくり直していた。ここには草や葉の状態はもちろん、与えた水の量や順番、天気や風量に関しても、一日も漏らすことなく記録がされている。
その日も彼は記録をつけていたのだが、今回の異常事態を受けて見返してみると、改めて気になる点がある。
この地域は、台風の被害を受けにくい場所。そのためか悪天候に遭うことも少なめで、嵐の日などはなかなか訪れない。
そのためか、風量もさほど強くない時が多いのだが、この数ヶ月に関しては彼がこれまで測量した、いずれの時期よりも勢いが弱い日が続いている。今日もまた、ほぼ無風と呼んでいい気候だったそうだ。
――今回の一件。もしや、これまでにないほどに吹きしぶる風と、何か関係があるのか?
彼がアタリをつけ始めたところで、家の戸がしめやかに叩かれる。
出てみると、隣の家の同士。普段から年若い者同士として話を弾ませている仲だったが、その顔はこわばっている。その手には、まだ火をつけていない松明が。
「おそらく、話に合った奴を見つけた。ちょっと確かめるのに付き合って欲しい」
青年も、くっと身体に緊張が走る。が、自分も身支度を整えると、彼の後に続いた。
案内されたのは彼の家の裏手だったが、そこには、松明を灯してたたずむ先客がいた。
数ヶ月前、「聖なる気は簡単に得ることができない」と話した、老人のうちのひとり。ここ数日、村を空けていて、今夜帰ってくる予定だった人物だ。
青年を誘った彼も、自分がいない間に老人が現れることは考えていなかったらしく、足が一瞬止まる。
老人の方はというと、彼ら二人の気配に振り返り、軽くあいさつをした。「珍しいものに出会うことになったな」とも。
老人が二人を手招きした先の下生え。そこには風が吹いていないにも関わらず、ひとりでに揺れている数枚の葉があった。
話で聞いていた、あの異変かと身構える二人だったが、老人は落ち着いている。
「こいつはな、『嵐』じゃ。我々が肌身に感じるような大きなものではない。葉の下を横切っていく『嵐』なのじゃよ」
葉を揺らされる風が、ほとんど吹かない時が続くと、まれに現れるんじゃ、と老人は語る。そして三人が見つめる前で、軌跡を残すように次々と葉の揺れが、列を成して伸びていく。
それをそっと追いかける彼らは、老人のいう「嵐」が、この家を取り巻く下生えたちをまんべんなくなでていく道筋を通るのを、見て取っていく。ただしなでるのは上からではなく、下からだが。
「先にも話したな。聖なる気の再現は、人の手ではすぐには再現できぬかもしれんと。あれは、お主らの技術や熱意を下に見た言葉ではない。
自然を知らない緑は、赤子も同じ。何が良くて、悪いのか。その区別がつかずに度を越したがゆえに、思わぬ被害をもたらしうる」
青年二人の脳裏に、ろれつが回らなくなった彼の姿が浮かぶ。
「その善悪を教えるのは、雨と風。いずれも季節と共に、その時に応じた寒さと温かさを運び、一緒に自然の情操すらも教え込む。
我らはものを教えるのに、往々にして言葉を扱うが、前の二者ほど教え上手になるのは容易ではない。何しろ、文字通り『身に沁みる』のじゃからな」
なおも歩み続ける「嵐」は、やがて草たちの原を通り抜けて去っていく。
その足跡を残すかのように、今度は土に混じった砂たちが、かすかに渦を巻きながら遠ざかっていくのを、三人は見届けたのだった。
それから、あの彼が見たような葉の口唇は、とうとう見つからずじまいだったという。