第四話 邂逅 巣立つ鳥と還る場所 春間近
朝起きて布団から出た私は、思わずその寒さにぶるっと身を震わせた。
もう三月だというのに、相変わらず息は白い。
窓から見える日は少し高かった。時計を見るともう十時。
「……ダメだなあ」
頭をぽりぽりかきながら、ひとり呟く。
とりあえず私は着替えて洗面所に向かい、鏡の前に立った。
長い黒髪の、自身では微妙にコンプレックスに思っている高い身長の少女がそこに映っている。私は目が悪くて、眼鏡がないとぼんやりとしか見えないのだが。
鳥飼アオイ。十八歳。私の名前だ。
顔を洗って髪を整え、私はダイニングに向かった。今日は家には誰もいない。私のほうも予定がなんにもないせいで、ちょっとご飯を食べようとするにもついついだらだらと時間がかかってしまう。コーヒーを入れて買い置きしてあったパンを一つ取り、テーブルに腰掛けてテレビをつける。
「今日もまだ寒いなあ……」
テレビのニュースを見ながら、いつのまにか独り言を呟いていた。
……ヒマだ。
私はこの春から、東京の大学に通うことになっている。ついこの間受験が終わったばかりで、入学手続きやなにやら用事はあるが四月までずっとお休みなのだ。
……ヒマだ!
あいにく今日は誰も遊んでくれないことが既にわかっていた。友達はまだ受験の真っ最中だったり、バイトに明け暮れていたり、彼氏と旅行に出掛けていたり……。
そのとき、ふと欲しい本があったのを思い出した。この間出たばかりの小説だ。入試が続いていたときだったので、後回しにしていて忘れていたのだ。
「よしっ」
そう思い立つと、私の行動は早かった。さっさとコーヒーを飲み干して部屋に戻る。私は手早く支度を整えて家を後にした。
私の家は不二町の駅から割と近くで、それは同時に駅前の商店街からも近いということになる。商店街の書店はよくある感じの小ぢんまりとしたやつだが意外と品揃えがいい。
結構人通りがあるアーケード街をてくてくと歩く。手にはゲットしたばかりの文庫本。
「うーん……」
早く読みたい。
家に着くのがなんとなくもどかしい感じだ。……休みでもあることだし。
途中差し掛かった公園にベンチを見かけた。……ちょっと寒いけど、日は出ているわけだし。
私は手の中にある包みとベンチをちらちらと見比べた。
「……ちょっとだけ」
ちょっとだけならさっさと家に帰ればいいものを。なんてことを考えながらも、私の足はすいすいと公園の中に入っていくのだった。
私は噴水前のベンチに向かっていた。手にした小説に視線を落としながら。つまり、あんまり周囲に対して注意を払っていなかった。
なので、足元に転がってきた何かにもまったく気がつかなかった。
まず第一に気付いたのは足裏のぐしゃ、というおかしな感触。
「ん?」
「おあーっ!」
横から響いた悲鳴に振り向くと、そこには私と同じくらいの年頃の娘が私の足元を指差しながら大きな口を開けて立っていた。黒いショートヘアに大きな眼をした背の低い少女。真っ白なコートを着ていて、何かを拾おうとしているように手を差し出していた。
「そ、それ……」
「え、あわ」
慌てて足をどけると、そこにはぺしゃんこに潰れたコロッケの残骸が。
「あ……ごめんなさい!」
反射的に頭を下げる。やってしまった。いや、これは私のせいなのだろうか?
その少女ははっとして、それから手をはたはたと振った。
「あ、いや。大丈夫! ほら、落としちゃったのはあたしだし」
そうだよね。なんて思いながら、口からは別な言葉が出ていた。
「その、弁償します!」
「え? いや、いいよ」
「します!」
……私は昔から、そういうところがあるのだ。自分で言うのもなんだが、お人よしというかなんというか。
「悪いよ。こんなのぐらいで」
少女は首を横に振ったが、
「このコロッケすごく美味しいんですよね。その、新田精肉店のコロッケ」
「知ってるんだ?」
「私近くに住んでますから」
自分でもなんでこんなことを口走っているのかさっぱりわからない。それぐらい、とっさのことに慌てていたのかもしれなかった。
「い、行きましょう! 買いに!」
ぎくしゃくとした動きで私は入ったばかりの公園を後にしていた。後ろ頭をぽりぽりとかきながら、その少女もあとに続く。
「はい、これ」
私は彼女に、買ったばかりの熱々コロッケを差し出す。なんだか申し訳なさそうな顔をした少女は、おずおずとそれを受け取った。
「なんか、ごめんなさい。わざわざ」
「いいんですよ。それに」
がさごそ。私の手の中にもコロッケの包みが一つ。
「おいしいんですよね。このコロッケ」
「……うん」
彼女はにこりと笑う。それから一緒に、ほくほくのコロッケにかぶりついた。
おいしい。
「んー。やっぱり旨いな。これは」
「ですね」
彼女は心底幸せそうに頬を緩ませた。こんなところに来るということはこのあたりの娘なのだろうか。でも知り合いでもないし、そもそも見たことのない顔だった。
その辺りを尋ねようとすると、それより早く彼女のほうが口を開いた。
「公園で何しようとしてたの?」
「え、えっと。これです。小説」
言いながら私は本の入った紙袋を掲げて見せた。
「ベンチで読もうかと思って」
「この寒いのに?」
ずばりな疑問。まったくだ。
「それは……あの、早く読みたかったから」
「本好きなんだね」
「それもありますけど、出たのが受験の最中だったからずっと読むの我慢してたんですよ」
にへら、と笑う私を見て、彼女はかくりと首をかしげた。
「受験……ひょっとしたらさ、高校、出たばっかりとか?」
「そうですよ」
すると彼女はぱっと表情を明るくして、ずいっと私に詰め寄ってくる。
「じゃあ同い年だ! あたしも十八!」
「そ、そうなんですか?」
それならやっぱり、この辺の人ではないのだろう。同い年の人なら大体知っているから。
「ひょっとして越してきたばかりとか?」
尋ねると彼女はこくりと頷いて不思議そうに私を見上げた。
「なんでわかったの?」
「内緒です」
「えー」
不満そうな顔を見て、私は思わず笑ってしまった。しばらく頬を膨らませていた彼女は急に何か思いついたように、こう言った。
「ねえ、今日ヒマなんでしょ? 良かったらこの辺、案内してもらえないかな?」
どうしてその言葉に頷いてしまったのか。これまたやっぱり、自分でもよくわからない。まあヒマだったし、本ならいつでも読めるわけだし。
とりあえず商店街を歩き始めて少し経ったころ、ふいに彼女が言った。
「あ、そうだ。あたし、霧島クロカ! よろしくね」
「よろしく、霧島さん。私は鳥飼アオイです」
「……名前」
彼女がなぜか不満そうに顔をしかめるので、私は思わず首を傾けてしまった。
「え?」
「なーまーえー。クロカ!」
「あ……えっと、クロカさん」
あわてて言い直すが、それでもまだ頬を膨らませている。
「よーびーすーて!」
「く……クロカ?」
「おう! よろしく、アオイ!」
霧島さん――もとい、クロカはそう言ってさっと手を上げて見せた。
「じゃ、じゃあ、どこ行く?」
「いや、あんまり分からないんで案内して欲しいんだけど」
「あ、そっか……」
そんな私を見て、クロカはあはは、と笑う。それから、
「どうせなら、なんか食べれる所とか。そろそろお昼だし」
それはなかなかいい提案かもしれない。時計を見ると十二時前。それに、お店に向かう途中でどこか案内することもできるだろうし。
「それにしても……」
「?」
「よく食べるんだね、クロカ」
手に持ったままのコロッケの包み紙を見ながら私が言うと、彼女は顔を赤くした。
「あんただってそうじゃん!」
……それもそうかもしれない。
向かった先は商店街から出て少し歩いたところにあるイタリアンレストラン。オープンテラスのある小洒落た店で、平日はランチもやっている。割と人気のある店だ。パスタのランチを注文して、私達は一息ついた。
「はー、意外と歩いたね」
「そうかな?」
基本的にどこへ行くにも歩きなので、思ったより私の足腰は強いのかもしれない。
「ね、アオイはどこの大学に行くの?」
お冷を一口飲んでクロカがそう尋ねてきた。私は答える。
「東京の大学だよ。文学部なの」
「ほえ! 頭いいんだ!」
「そ、そうでもないよ」
「さすがは眼鏡だ!」
「……」
褒めているのだろうか。
「そういうクロカは? 大学?」
そう尋ねると、彼女は首を横に振った。
「あたしは……就職、だよ。近くの居酒屋に、住み込みで働かせてもらってる。今日は定休日で」
「へえ。ひょっとしたらそうかもって、思ってたの」
「なんでさ?」
「このあたりに大学ってないし、でも引っ越してきたばっかりだって言うから」
「そっかー。やっぱ眼鏡は推理できるようになるんだ」
「どこに感心してるの!」
私が声を上げたのとほぼ同時に、パスタが運ばれてきた。店員さんと一瞬目が合って向こうから視線を外された。……恥ずかしい!
「カルボナーラのお客様?」
「はい……」
私が顔をうつむかせながら片手を上げる。クロカの方にはペペロンチーノ。それぞれにサラダがついて、これで六百円なのだ。お得!
「んー、うまいっ!」
パスタを一口、クロカは幸せそうに声を上げた。元気のいい娘だと思う。こんなに喜んでもらえたら作った人もきっと満足だろう。
「けど、すごいよね」
「なにが?」
口いっぱいにペペロンチーノを頬張りながらクロカが聞き返してくる。
「あ、うん。私と同じ年で、もう働いてるって。なんか、立派だなあって思って」
「そ、そっかな?」
なんとなく、照れたように彼女はうつむいて、サラダをぱりぱりと口に運んだ。
「仕事って楽しい?」
「うん、楽しいよ。接客って初めてだったんだけど、お客さんとしゃべったりできて」
「へえ……」
私はそのとき、クロカのことを正直、いや、素直にうらやましいと思った。自分のやりたいこと見つけて、私と同い年なのにもう仕事していて。
私の高校はいわゆる進学校で、レベルの差はいろいろあるものの大半の生徒は進学を進路として選択していた。私の仲のいい友達も皆どこかの大学を受けたし、なんとなくそれが常識のような感覚が生まれていたのだ。
けれどやっぱりそれは、数ある道の一つでしかない。
「どしたの? なんかぼーっとしてる」
「あ、ううん。クロカは好きな仕事ができてて、やっぱりすごいなって思ったの」
「……好きなこと、かあ」
クロカはそう呟いて、ふと手を止めた。すこししてまたパスタを口に運ぶ。それから一言だけ、
「あたしのは、偶然なんだよね」
「偶然?」
「あ、いや。なんでもないよ。それ、ちょっとちょーだいっ」
「あ!」
言うが早いか、クロカのフォークは私のカルボナーラを素早く奪い取っていく。
「私の! 私のパスタ!」
強奪が思いのほか悔しかったことに、私が一番びっくりしていた。
それから私達は、しばらくあちこちを歩き回った。不二町はJR東海道線、不二駅を中心に、線路によって南北の二つに分けられている。北には商店街と住宅街、南には国道が線路と並行して走り、その向こうをちょっと行けば田んぼや畑が広がっている。別に田舎というわけではなく、市の中心から外れているだけだ。買い物したいときは自転車で知立市の駅周辺まで行く。
そういうところなので、歩き回ってもたいしておもしろいものはあんまりないのだ。
「んー、昼過ぎると結構あったかいねえ」
……ないはずなのだが、なぜかクロカは楽しげだった。てっきり退屈してぐちぐち言い始めるかとも思ったのだが。
のんびりと、ぼんやりと、とくに何もない街を散歩する。私はそれが結構好きだ。案外クロカと私は波長が合うのかもしれない。
不二駅の周りを大きくぐるりと回って、私達は北の商店街まで戻ってきた。クロカと出会った公園もこちら側にある。
商店街に入る少し前で、足を止めて私は言った。
「ちょっと歩き疲れた?」
「そだね。ちょっと休憩しようか。どっか、喫茶店とかない?」
「あ、知ってるよ。結構良いところ」
「じゃ、そこお願いします!」
「はい、お客さん」
私の知っている喫茶店は商店街の真ん中辺りにある『ビーンズカフェ』というお店。
「おー、おしゃれな店!」
『ビーンズカフェ』を一目見て、クロカはそんな声を上げた。古い木でできたログハウスのような外観。どこか温かみがあって、例えば避暑地の湖畔辺りにあったら似合うかもしれない店構えなのだが、魚屋や理容室の間に挟まれて微妙に浮いていた。
「実はここ、私の友達の家なんだ。今日はいないんだけどね」
「へえ」
そんなことを言いながら扉を開く。コーヒーの匂いがした。
「いらっしゃい、って、アオイちゃん。どうしたの? 今日は百花いないわよ?」
出迎えてくれたのはその友達、蔵野百花のお姉さん、千鶴さんだった。
「知ってますよ。今日、静岡に部屋探しに行くって聞いてましたから」
「じゃあ、お客さんだね」
「はい。今日は友達を連れてきたんです」
私が後ろにいたクロカを紹介しようと身を引くと、顔を合わせた二人が、
「あ」
「あ」
なぜかお互いを指差して、目を丸くしていた。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
私がクロカに尋ねる。彼女ははっとして、へこりと頭を下げた。
「こ、こんちはーっ。えっと……」
「蔵野千鶴、です。クロカちゃん」
「あ、あはは。どうも」
なんだかよくわからないが知り合いだったらしい。どういうことだろう。それを尋ねると、答えてくれたのは千鶴さんだった。
「私のよく行く居酒屋の娘よ。友達だったんだ?」
「あ、いや。今日知り合ったばっかりなんですよ」
クロカが答えた。千鶴さんはとりあえず、と言って私達を席に案内してくれた。ゆったりしたソファが置かれた、柔らかな雰囲気の内装はいつ来てもなんだか落ち着く。
二人ともコーヒーを注文して、千鶴さんはカウンターの向こうに去っていった。
「けど、知り合いだったんだね。世界って狭い」
「だねえ……」
なんだか呆けたように、クロカが答えた。
千鶴さんのコーヒーはとてもおいしい。難しいことはよくわからないが、おいしい、ということだけは私にもわかる。
軽快なジャズの流れる店内には、私達のほかにお客さんはいない。貸し切りだ。
まったりとコーヒーを飲み終えたところに、千鶴さんがやってきた。やっぱりお客さんがいないと暇なようだ。
「二杯目どう? 割引きするよ」
「あ、じゃあお願いします」
「あたしも!」
「はいはい、どうぞー」
あらかじめ持ってきていたポットからコーヒーを注ぎいれてくれた千鶴さんは、自分のカップにもコーヒーを注いで私の隣のソファに腰を下ろした。
「けど、安心したな。意外と元気よくて」
千鶴さんはクロカにそう言って、自前のコーヒーを一口すすった。クロカは怪訝そうな顔をする。
「なにがですか?」
「いや、ヒカリがね。あなたが最近ちょっと元気ない、って言ってたから」
クロカはわずかに視線を下げて、黙ったままカップを置いた。私の目には、クロカに元気がないとは思えないのだが。
「仕事中はニコニコしてるのに、それ以外のご飯食べてるときとか、たまにため息ついたりしてるって」
「あー、いや。その……」
もじもじしながら、クロカは何も言わなかった。否定しないのは、それを自分でも認めているからなのだろうか。
「なにか、無理してない?」
身を乗り出して千鶴さんが尋ねるが、それにははっきりと首を振った。
「そういうんじゃ、ないんです。なんていうか……あの」
何かを言おうとして、口ごもる。クロカは言葉が出てこないようだった。
「あのっ……」
口を開いたそのとき、タイミング悪く店のドアベルが鳴る。千鶴さんはごめんね、と言い残して入ってきたお客さんの対応に行ってしまった。
「……」
残された私達の間に、沈黙が落ちる。私はクロカをちらりと覗き見た。その視線に気付いたのか、クロカは顔を上げてコーヒーを一口すすり、そして、
「実は、ね」
ぽつりぽつりと、話し始めた。
「あたし、家出してこの町に来たんだ」
「い、家出?」
思いがけない単語に、私は正直驚いた。クロカは淡々と続ける。
「二ヶ月前、親父とケンカして」
「そ、それだけで?」
「うん」
彼女はこくりと頷いて一口コーヒーを飲んだ。
ケンカして家出。この上なく単純な動機だが、そのままこの街に住み着いてしまうくらいだからきっと、よほどのことがあったのだろう。
「クロカ、家には戻らないの?」
尋ねると彼女は首を横に振った。
「あたしは帰らないよ。仕事も見つけたし、覚悟も出来たから」
「覚悟?」
「ここでやっていこうって覚悟」
言うクロカのその瞳は、まっすぐ前を向いていた。
「うちの店長がね、公園でぽつーんってしてたあたしを拾ってくれて。『行くとこ無いならうちで働いてみない?』って。仕事始めた動機もそれだけで、自分から選んだことなんて一つもなかった」
「そう、なんだ」
「でもさ。仕事を覚えてくうちにだんだん……なんていうのかな。あたしにも出来ることがあって嬉しいって言うか、なんていうか。――だからさ、全然、偉くもすごくもないんだよ」
そう言って彼女は自嘲気味に笑う。けれど、私にはクロカの口調が自分を卑下するようなものには思えなかった。自信や誇り。そういうものが言葉の端に見えているような。
「……ううん、クロカはすごいよ」
「え……いやいやぁ」
照れたように笑うクロカを見ながら、実は私も恥ずかしかった。こんな言葉を真顔で言ったことなんかなかったからだろうか。
でも、と私は思う。千鶴さんが言っていた、クロカが最近落ち込んでいるという言葉。
「あの、クロカ……?」
「ん、ああ」
私の疑問を察したのか、クロカはコーヒーをまた一口飲んで、続けた。
「家出した、って言ったよね」
クロカは静岡県浜松市の、とある小さな会社社長の娘なのだそうだ。
「社長っていっても、ちっちゃい部品メーカーでさ。どっちかって言うとあんまりお金ないほうだったよ」
父親はとにかく堅物で、随分前からあんまり口をきかなくなっていた。といっても別に仲が悪かったというわけでもなかったのだ。母親は幼い頃に亡くしてしまい、父娘二人はどうにかこうにか、それでもしっかりと二人でやってきたから。
つい、最近までは。
「高校三年になってね、進路のことあれこれ考えたりするような時期になって。結構、親とかとも話したりするじゃない」
「ああ、うん」
ぼんやりとした方向性ぐらいしか考えていなかった私だったが、そのときは随分と考え込んだものだった。それでも何とか決めた私の進路に、両親は特に何も言わず応援してくれた。けれど、クロカは。
「あのハゲときたら、『どこでもいいから大学に行け』って一点張りでさ。……あたしは、とにかく働こうってずっと思ってたんだ」
だから衝突した。
「どんな仕事、したかったの?」
私がそう尋ねると、彼女は窓の外に視線を向けて、呟くように答える。
「……なかった」
「そっか」
クロカの理由は、なんとなく想像がつく。たぶん、彼女は早く自立したかったのだ。それが一番いいと、父親と二人で生活しながらずっと思い続けてきたのだろう。
「親父の言い分は……正直ね、嬉しかったよ。でも、大学でしたいこともなかったから。……そんなこと、考えてもなかったからさ」
そして時期もいよいよ切羽詰ってきたころ。
「家飛び出してきて、ここに居ついて。本当に何にも考えてなかったなあ、あたし」
「お父さんのこと、やっぱり心配なの?」
「……うん。でも最近、もうちょっと別のことも考えてる」
クロカはコーヒーを飲み干して、視線を私のほうに戻した。窓からの光は少し傾いて、オレンジ色を宿し始めていた。
「もっと別の将来があったのかもしれないって。高校も卒業前にぶっちしてきちゃったし、親父説得するのも、放り出してきちゃったし」
何かを選ぶことは、他を棄てるということ。
それは当たり前のことだが、棄ててしまったものがクロカにはたくさんある。例えば私の学校では皆が当たり前のように感じていた、進学という未来。
皆がそれぞれの道に旅立っていくこの時期、たぶんクロカはそれを意識していたのだ。
ひょっとしたら、自分もそんな風になれたのかもしれない、と。
「……後悔、してるの?」
クロカは私の言葉に首を横に振った。少しだけ、本当に少しだけ寂しげな笑みを浮かべて、
「あたし、やっと『したいかも』ってこと、見つけた気がしてる。親父には悪いけど、自分の意思を通したいんだ」
そう言うクロカの表情に曇りはないように、私には見えた。迷いや、後悔も。
千鶴さんにごちそうさまを言って、私達は『ビーンズカフェ』を後にした。もうそろそろ日が落ちる時間になっていて、駅前は人通りがかなり多い。
「そろそろ、帰ろっか」
「うん」
商店街はオレンジ色に染まっていく。この風景を私が見られるのも、あと少し。
「クロカ、今はどこに住んでるの?」
「お店の屋根裏部屋だよ。なんと家賃、タダ! 寒いけどね」
そう言ってクロカはあはは、と笑う。つられて私も笑った。
「あ、そうだ!」
「ん?」
クロカはコートのポケットをごそごそと探って、一枚の紙切れを取り出した。
「これ、うちの店のチラシ。こないだ裏面を買い物メモにしたやつだけど。東京に行っちゃう前にさ、よかったら来てみてよ」
「でも私、まだ十八だし……」
「お酒飲まなきゃ大丈夫だって。サービスするからさ! それじゃっ」
私にそのチラシを渡して、クロカは公園の方に去っていった。私はチラシを見る。
筆ペンで手書きされた、キッチンバー『ダイニングしらなみ』の文字。美味しそうな料理の写真や店の地図に混じって、ついさっきまで私の前に立っていた少女の写真が載っていた。
『新しい看板娘が入りました。よろしくお願いします!』
……私だったら恥ずかしいな、こんなの。
けれど、そこに写っているクロカは満面の笑みを浮かべていた。
そんなことがあってから、二週間後。
正直な話、駅のホームに立った私は少し浮き足立っていた。大きなトランクケースを抱えてあっちこっちと駅を歩き回り、ホームを間違えてあわてて行ったり戻ったり。
母親が同行してくれる予定になっていたのだが、私は一人で行くことを選んだ。ちょっと尋常ではない自立をした彼女に張り合おうとしたのかも知れない。
とはいえ、初めからこれでは不安にもなる。大丈夫か、私は?
周りには私と同じように大きな荷物を担いだ若者が何人かいた。この人たちも今日、新しい生活に旅立っていくのだろうか。
しばらくして、線路の向こうから赤い車両が近づいてきた。時計を見ると、いよいよ発車の時刻。
列車が到着した。列の先頭にいた私は重いトランクをよいしょと持ち上げて、目の前に現れた扉が開くのを待った。
そのとき、ポケットの中で携帯が鳴いた。メールの着信音だ。
同時にその扉が開く。後ろに並ぶ人の視線を感じて、私はあわてて列車に乗り込んだ。ズカズカと車内を進み、切符に記された指定の席を見つけてトランクを置き、座る。
それからポケットに手を突っ込んで、携帯を取り出した。
文面を読んで、少しだけ、笑ってしまった。
件名 『あたしの大切な、お客様へ』
本文 『先日はご来店いただき、まことにありがとうございます。お料理はいかがでしたでしょうか? 美味しかったですよね? あたしは毎日、あんな料理を賄いで食べさせてもらっています。いいだろう!
この街に来て間もないあたしが言うのも変だけれど、帰ってきたときにはまたぜひご来店ください。いつ来てもいいように、楽しみにして待っています。
PS 大学生活頑張って、いっぱい楽しんでください。
PSのPS 二十歳になったら一緒に飲もう!
PSのPSのPS お互いガンバろ!』
私は窓から、見知った町の風景を見た。今度ここに戻ってくるのはいつになるだろうか。
そのときには地元の友達と一緒になって遊ぶのだ。もう車の免許を取った娘もいるからドライブとかに出掛けたりして。
そして夜になったら。
ついこの間出来たばかりの、妙な縁の、同い年の――
友達のところに行って、飲んだり食べたり、おしゃべりをしたりする。
還ってくる場所が、ひとつ、増えたような。そんな気がしていた。




