白アリの食べ残した青空
雲ひとつ無い青空、それを少年は虚ろな表情で見上げる。同じ表情のまま視線だけを動かして時計を見た
とたん、慌ただしく鞄に荷物を積み始める。その表情は焦っているというよりも何かの強迫観念にとらわれているような切迫した表情をしていた。
部屋を出て朝食も済ませず玄関に向かうまでのあいだ彼はずっと
「俺は悪くない」
そうつぶやいていた。
息が整いきらない状態のまま教室のドアを開ける。
自転車通学は良い。体を動かしている内はいやなことを考えなくてすむ。教室を見回すと男子はまだ一人しか来ていなかった。
「おはよう」
「お-、最近速いね。」
「まあね。」
明るく、間延びした声に返事を返す。
「あのさー、おまえ記者に声かけられた?校門の所にいるやつ。」
「ないよ。自転車だから」
記者というのは、先週この学校で起きた自殺未遂事件の取材に来ている人たちの事だ。学校の対応が遅れているので、生徒たちの、いわゆる『生の声』を集めようとしているようだ。学校側からは、安易に取材を受ける様なことはしないように、と指示が出ている。
「そのさ、数学のやつどこまで行った?」
珍しくのんびりしていない彼の問いかけに答える。
「問の34まで。ちょっと自信ないな。君のも見せ…」
「見せてください!!」
「まだそこまで行ってないの!?死ぬよ…?」
今日もいつも通りの苦行が始まりそうだ。
あまりのストレスに体感時間が滅茶苦茶になってしまった。悩み事からは解放されるのでありがたいのだが。チャイムを聞くところによると、お昼休みらしい。
「あー、やっと飯か。んん?」
「箸を忘れたなら貸すよ。」
「必要ない。弁当ごと忘れた。」
開いた口がふさがらない
「んー、学食行こうぜ。」
「俺はいいや。」
「なんでー?ああ、折り合いが悪いやつがいるって言ってたっけ。」
「ごめん」
謝った。嘘は言っていない。
「じゃー待ってろ。パンが売れ残ってるか見てくる!」
終業のベルが鳴った。
「いやー。やっとかよ」
「普通コースの人はこれから部活だよ。」
「ぞっとするぜ。まーでも、マラソン大会とかあるし、そーゆー時間はこの特進でもとっていいと思うけどな」
毎年この時期には恒例行事、マラソン大会が行われる。普通コース、部活AO入試や大会の実績入試をメインに進路を決定するいわゆる普通科と、放課後の時間を多く確保し学業に力をそそぐ特進科がごちゃ混ぜになってハンデ無しの真剣勝負をする。
「あー?もう帰るのか?」
「うん。」
学校に長くいたくない
「ふーん。じゃあな」
「またね」
朝の時間と比べて記者の人数はまばらになっていたが、それでも立ちこぎの全速力で学校の敷地内から抜け出す。
つかまったら自分の口から何を漏らしてしまうか、分かったもんじゃない。
吐き出せば、楽になれるのだろうか
家が近くなってスピードをやっと緩める。無意識に全力疾走を続けていたようだ。息を整えようとしたその時、
「よう。ひさしぶりだな。」
「シロアリさん?依頼ですか?」
暖かくなってきたにもかかわらず真っ黒で分厚いコートを着込んでいるところを見ると、寒がりなのは相変わらずらしい。近づいてくるその青年の頭を見た。彼のトレードマークの若白髪も変わっていない。
「法人と個人の依頼がたてこんでてな。少し話せるか?いくつか質問させてくれ」
シロアリさんというのは彼の若白髪の多さからつけられたあだ名である。自分が今通っている高校のOBで、おととしまで東京の大学に行っていた。卒業した後は地元の探偵事務所に就職。探偵と言っても地域の人々同士のつながりが強く、治安も良いこの町では犬探しなどの業務が大半なので今日のようなドラマ的な聞き込みをしてくることはほとんど無い。
子供によく懐かれるので『お守り探偵』なんて言われる始末だ。彼の所属する探偵事務所のモットー『老若男女犬猫問わず、我が事務所はあなた個人の見方です!!』が、余計にそのイメージを強くしているのだと思う。
ただ、いつまでたっても心に踏み込んでくる強い目とその姿勢は変わらないままのようだ。自分が見透かされるようでどきりとする。
シロアリさんが座れというので、自転車を止めて近くのベンチに腰を下ろした。彼はおもむろに切り出す。
「この前お前の学校で起こった自殺未遂…いや飛び降りか、どう思う?」
「別にどうにも。嫌な話ですよね」
「学校も対応にもたついてるしな。…なあ」
一呼吸置いて、
「いじめの主犯格、まだ分かってないらしいな。」
「…どうでもいいじゃないですか、そんなこと」
「確かにどうでもいいかもな。お前の今の状況に比べたら、だけどな。」
やっぱり苦手だ。人を食ったような態度をしながら、自分でも見たくないような心の中に踏み込んでくる。ただ、それが逆に自分と向き合わせてくれる所がある。気付けばいままで押さえていた物が堰を切ったように自分の口から溢れ出ていた。
僕は二年前の中学時代に、いじめを受けていた。一般的なものと比べると比較的軽い方だったのだろう。僕をいじめていたのはむしろいじめられるタイプのやつで、周りから受けていたストレスを反撃が出来ない性格の僕で発散しているようだった。自分のことを気にかけてくれるような友達もいなかったし、そいつが人前でははっきりそういう態度にでないので、クラスの仲間の認識はむしろ、「仲が悪い」くらいのものがほとんどだったと思う。
苦しい時間はいつまでも続かず、中学を卒業してからはいじめはなくなることとなった。しかし、悪夢はそこからだった。
入学先の高校にそいつがいたのだ。ただ、自分とはコースが違ったのでほとんど接点は無く、話をすることもない。なんとか忘れていられた。しかし長くは続かなかった。先日の自殺未遂だ。報道を見るたびに自分の心臓が無くなったような気がした。体の中に血では無いひんやりした何かが流れこんでくるように感じた。
それからそいつをなんとしても避けるようになった。そいつとすれ違うだけで、いじめの時と同じ、いやそれよりもひどい、惨めな気持ちにさせられるからだ。その惨めさは何時間たっても、というよりそいつの顔を少し思い出しただけで何度でも襲ってきた。
「だからそいつが学校に来る時間を避けて登校したり、教室から出るのをためらったりしたわけだ。」
ところが話はそこで終わらない。
「お前はマラソン大会の存在を知った。」
僕の通う高校のマラソン大会では、普通科と特進科に違いをもうけずに行う。田舎ではしっかり舗装したコースを確保出来ないので、男子は同じコースを何周かすることになる。つまり、体力の無い自分はそいつに確実に会うことになる。
追い越すことはまずないだろう。それができないからいじめられた訳だし。つまり一目見るのもいやなそいつの姿を見晴らしの良い場所でそこそこの時間見つづける事になる。たぶんそれを僕は耐えられない。
「だから脅迫状を送ったのか?」
学校の対応がもたついているのには理由がある。一つは被害者の意識が無いせいで事実関係がはっきりしないこと。そしてもう一つは、学校に「いじめの報道の取りやめ、そしてマラソン大会の中止、この二つが出来ないのならば今度は確実に人が死ぬ。」そういった筋の通らないあまりに理不尽な手紙が学校に送りつけられたからだ。
公表はされていない。
この質問にどう答えるべきか迷っている内に、別の質問が飛んできた。
「お前、今のままでいいのか?」
「…。」
「質問を変えよう。お前は『いじめはいじめられるやつが悪い』って考えをどう思う?」
「最低ですね。」
「そうかな?俺は否定しきれないんだよなあ。いじめを受けるには悪いところは無くても原因はあるわけだろ?普通はそこを反省して生きていくわけだ。
だけど、『いじめはいじめたやつが悪い』を心の支えにしてると次第にそいつのなかで『いじめたやつが悪い』が『いじめたやつ以外に悪は無い』に変わってくんだよ。そしたらそいつは次第にこう言うようになる『僕は悪くない』『俺は悪くない』ってな。そうしたらもうそいつは前進しなくなる。もう一回聞くぞ、お前、いまのままでいいのか?」
『勇気』とか出すのは今じゃ無いのか―
僕にはその問いかけに答える言葉が無い。ただ、どこかで聞いたような、言い訳だけが口をつく。
「僕のなにが分かるって言うんですか、自分は関係ないからそんなことがいえるんじゃないですか。無責任ですよ。」
「まず、お前の気持ちは良く理解している。おれの『シロアリ』ってあだ名もいじめのときにつけられたもんだしな。それに無責任ではない。言うとおりにすれば失敗しても責任を俺に押し付けられるからむしろ楽なはずだ。」
「でもそんなことできたら苦労しませんよ!」
「じゃあお前、今のままでいいのか?」
またも自分は黙り込んだ。でも、体から冷たい何かは抜けているような気がした。
「ごちそうさま。またなんか良くない物がたまったら言えよ?俺が食いつぶしてやるからな。」
そういってシロアリさんはベンチから立ち上がりさっさと立ち去ろうとする。
『人の不幸は蜜の味』そうとでも言いたげな満足感を表す背中に声をかける。
「…脅迫状のこと、学校に言うんですか」
「どうする?お前がもし克服したいなら大会はチャンスになるぞ」
「やります。脅迫状の事は自分で謝罪に行きます。」
もうやらない理由は思いつかなかった。
雲ひとつ無い青空、つまりは肌を焼く日差しの元凶を少年は朝と同じくはっきりと敵意をもってにらみつけていた。
マラソン大会当日、計二週のコースのまだ一週目も終わっていない。
そんな少年の耳に、聞くだけで嫌な気分にされられる特徴的な息づかいが聞こえてきた。
少年に追いつく二人組、その片方、背があまり高くない方が声を掛けてきた。
「よう、ひさしぶりじゃん。」
なんということもないあいさつ。少年の方もなんということもなく返した。
「別に、お前俺をいじめてただろ。なんなら殴らせてくれよ。」
それを聞いた片割れは面白くないというような顔をして、相方を連れて少年を追い抜かしていった。
「おーおー、周回遅れのくせに晴れやかな顔しちゃって。なんか良いことあったか?」
今度は落ち着ける声が後ろから掛けられた。
「いや別に。ただ、こうしてみるとただの背中だなって。」
前を見る。視線の先には大会が始まってからいままで自分を追い越してきた背中たちと全く変わらないただの背中が見えるだけだった。
「まー、よくわかんないけどお前が満足そうならいっか。」
「よく言うよ。シロアリさんけしかけたくせに」
「おー、なんでわかったんだ?」
「シロアリさん、俺と会った時、『個人と法人の依頼を受けてきた』って言ったんだよ。『法人』ってのが脅迫状に関する学校の事だとすると、『個人』ってのは君のことになるだろ。いくらなんでも僕の現状を知ってて依頼するのはお前だけだ。」
それほど友達がいないとも言える。
「んー。脅迫状ってのはよくわかんないけど、そうだな。うちの学校、来賓プレートに自己紹介欄ってあるだろ、『探偵』なんて書いてあるから物珍しくて声かけたんだよ。そしたらいつの間にか自分のことべらべら喋っちゃってて、依頼することになったんだよな。お前の話だって分かったときにはびっくりしてたよ。」
おそらく学校の依頼を受けに来た時の事だろう。
「どうする?俺このまま行くけど、付いてこれるか?」
「そうだね。」
どうせ上位入賞はもうねらえないのだ。それに
「別に嫌なことが待ち構えてるわけでも無い」
そうはいいつつもやはり少しうっとうしそうに少年は空を見上げるのだった。
白アリの食べ残した青空 =完=