傘が運んでくれた
「えっと、じゃあ…こうしませんか?」
美人の困惑顔に思わず私は笑顔を返す。
「お貸ししますので、貴女と同じように急な雨で困っている方に差し上げてください」
「これを、ですか?」
「はい。それでしたらお譲りする訳ではありませんから、受け取ってくださいますよね?」
うん、咄嗟の思い付きにしては我ながら素敵なアイデア。それなら心苦しくないだろうし、人助けも出来て一石二鳥だと思うんだ。私の突飛な提案に綺麗な顔が驚きで固まった。でもすぐにふわりと綻び、力強く頷いてくれる。
「わかりました。その約束、必ず守らせていただきます」
◇◆◇
事の発端は突然降り出した雨だった。
定時で仕事を切り上げた私は自宅の最寄り駅へと降り立った。結構な強さで地面を叩く雨粒を『今日は曇り』という天気予報を信じた面々が恨めしそうに見上げている。
私鉄の各駅停車しか止まらない小さな駅だから改札前の売店は既に閉まっていた。一番近くのコンビニまで行くとしても、辿り着くまでにずぶ濡れになってしまうだろう。私は前日に持ち帰るのを忘れただけなのに、腕に引っ掛けていた傘をちょっと見せびらかしながら出口に向かっていた。
覚悟を決めて雨の中に飛び出す人や迎えを待つ人、止むまで時間を潰すことにしたのか、奥に引っ込んでスマホを取り出す人。対応を決めて動き出す人混みの中にその女性はいた。
改札前の時計と出口に視線をせわしなく往復させている手には薄そうな紙袋が握られている。時間が迫っているのに外は雨。タクシー乗り場まで走ろうにも荷物が心配だ、という心の声がその様子からはっきり伝わってきた。
そうだ、『アレ』をあげちゃおう。
私は逡巡の後、ゆっくりと綺麗な女性へと歩みを進める。鞄の奥底をまさぐりながら焦りの見える横顔にすみません、と声を掛けた。
「これ、よろしければお使い下さい」
「えっ…?」
「私にはこっちがありますから」
腕をひょいと持ち上げて見せると、私は折り畳み傘を差し出した。彼女の視線が今度は私の手と顔を往復する。
それは多分、千円もしなかったどこにでもある安物で、いつから持っていたかすら覚えていない。こういうモノって意外と長持ちするから不思議だと思わない?すごく気に入って買った傘の方が盗まれたり、うっかりどこかに忘れたりするんだよね。
軽さ重視で作られているから骨組みも貧弱で、強い風だとべろんってなっちゃうけど、今日は幸いにも風はないから大丈夫。私はまだよく事態を飲み込めていない女性の手にそれを乗せると、軽く会釈をして踵を返した。
「待って下さい!」
傘を開こうとしたその時、背後から肘を掴まれた。振り返るとさっきの女性が鞄から財布を取り出そうとしている。
「これはいただけません。おいくら払えばいいでしょう」
「いえっ、本当に安物ですし、どうか気になさらないで下さい」
「そういう訳には…。ごめんなさい、相場が分からないから教えていただけると助かるんですけど」
お金を渡そうとする美人とそれを止める私の攻防戦を行き交う人が不思議そうに眺めている。このままだと駅員さんを呼ばれかねないと焦った私は、その場の思い付きである提案をしたのだった。
何度もお礼を言って去っていく華奢な背を見送ってから私も家路についた。どんよりした雨空だというのに気分は晴れ晴れとしている。
あの傘は──これからどんな旅をするのだろう?
そう考えるだけでずっと暗く、塞いだままだった心に一筋の光が差し込んできた気がした。
◇◆◇
あの日から私の生活がほんの少しだけ変わった。
まず、憂鬱だった雨の日が待ち遠しくなった。あの傘がどこかで誰かを助け、笑顔にしているかもしれない。今日こそあの人が約束を果たしてくれているかも、って考えるだけで自然と笑顔が零れてしまう。
それから、似た模様の傘を自然と探すようになった。無地の、しかも紺色だと男性が多いのでじろじろと見ないように気を付けるのも、それはそれで楽しく思えてしまうから不思議。
最近よく利用するカフェは少し高い位置にあるので傘の模様がよく見える。今日も窓際で傘探しをしていると、待ち合わせ相手の美樹子が視界にひょいと写り込んできた。
「何見てんのかなー?」
「ん?別に何も…」
事情を話しても良いけど『なにそのファンタジー!』って笑われそうだし、この事は私だけの密かな楽しみにしたいのです。向かいの席に座る顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「な、何…」
「雨を眺めながらうっとりしてるなんて、まるで恋する乙女ですなぁ」
「だからー、そんなんじゃないってば!」
氷が溶けて薄まったアイスティーをストローで乱暴にかき混ぜる。私がわざと不機嫌顔を作っても美樹子は気にせずニヤニヤ顔のまま、運ばれてきたばかりのカフェオレを一口飲んだ。
「だって文が最近楽しそうだって、みんな言ってるよ?」
「そんな事、ないけど…」
えっ、私ってそんなに判りやすい?上手く誤魔化せていると思っていただけにちょっとショックだった。美樹子は急におどけ顔を引っ込めて真剣な表情になった。少し目を伏せ、カフェオレボウルを両手で包んだままゆっくり口を開く。
「半年くらい前かな?なんかこう、無理してるのかなーって思ってた。でも、文から言い出すまで、無理に聞き出すのは止めようって決めてたんだ」
「……え?」
「最近は飲み会にもよく顔出すようになってさ、すごく雰囲気も柔らかくなったから…吹っ切れたのかなぁって。あ!でも、これは私の勝手な想像だからねっ!違ったらゴメン!!……って、なんで笑ってんのよおっ!!!」
私にめいっぱい気を遣って喋る美樹子があまりにも新鮮で、我慢できずに吹き出してしまった。いつも強気で、自分の意見を通そうとする彼女が、私を刺激しないよう一生懸命言葉を選ぶ姿に笑いながら──少しだけ泣いた。
「……ありがとう」
「な、何よ…急に!」
「何でもなーい」
はぁ、私って本当にバカだなぁ。
すぐ近くにこんなにも心配してくれている友達がいたのに全然頼ろうともしなかった。世界で不幸なのは私だけ、みたいに悲劇のヒロインぶってて本当に恥ずかしい。
凄く嬉しくて、でも照れくさくておどけてしまった私に、美樹子は口を尖らせながらも安心したように笑ってくれた。
◇◆◇
「あ、ちゃあ…」
梅雨明け宣言の翌日が雨って…何の嫌がらせ?すっかり油断していた私はビルの入口で立ち尽くした。
あの日から2ヶ月が経つというのにすっかりスペアの傘を買い忘れていた事に今更ながら気が付く。夏になったらゲリラ豪雨もあるだろうから、少し頑丈なやつにしようかな。…って、それよりも今の心配をしなきゃ。
「稲倉さん?」
「あ、お帰りなさい」
とりあえず会社に戻ろうと反転した背に声を掛けられた。振り返った先にある人懐っこい笑顔につられて私まで笑顔になる。外回りから戻ってきた茅野君は素早く傘を閉じると足早に追いかけてきた。
「忘れ物ですか?」
「ううん、油断して傘を持ってこなかったんだよね。だからビニール傘でもこっそり拝借しようかなーって」
「えっ?盗みはダメですよ!」
以前なら『ちょっとね』とか言って誤魔化していたけど、今は素直に自分のミスを口にできる。3つ年下で、しかも普段は書類の提出が遅い!と叱りつけている相手に冗談を言うなんて、少し前の私には絶対に考えられなかった。
「というのは冗談。誰かに傘が余ってないか聞くつもり」
「あっ、それなら俺…いいもの持ってますよ」
茅野君がビジネスバッグの脇ポケットから取り出したものに私は息を飲んだ。
木目調の握り部分が記憶にあるより少し黒ずんでいるけど、白い水玉に縁取られた紺色のカバーに見覚えがあり過ぎる。
「実はこれ……」
「誰から、もらったの?」
「えっ?」
差し出された傘を震える手で受け取る。外袋を留めるボタンの色が白に変わっていた。もしかして、別物?でも驚きで固まった茅野君が、この手にあるものが間違いなくあの傘だと証明している。
まさか再会できるなんて夢にも思わなかった。あの人は、ちゃんと約束を守ってくれた……。
「稲倉さんっ、大丈夫ですか?」
「ご、めん……」
「とっ、とりあえず!移動しましょう。ね?」
「……ん」
あぁ、親切心で傘を貸そうとしただけなのに申し訳ないなぁ。
いきなりぼろぼろと涙を流し始めた私の手を引いて、茅野君は会社の裏手にある喫茶店へと連れて行ってくれた。
◇◆◇
「それ…すごい確率ですね」
「ホントだよね。…宝くじでも買って帰ろうかな」
ロイヤルミルクティーを飲んでようやく落ち着きを取り戻すと、茅野君にこの傘の持ち主が実は私で、茅野君の手に渡った経緯について話をした。最初は半信半疑みたいだったけど、傘の骨が1本だけ内側に曲がっているでしょ?って言ったら信じてくれた。
年下の男の子の前で号泣した事とか、すっかり取れてしまったマスカラとか、繋いだ時の手の温もりとか、色んなものが一気に押し寄せてきて物凄く恥ずかしい。照れ隠しも兼ねておどけてみたけれど、茅野君は真面目な表情のままじっと私を見つめていた。
「一つ確認なのですが、稲倉さんはその方に『困っている人にあげて下さい』って言ったんですよね?」
「ん?んーと、一語一句まで覚えている訳じゃないけど、ニュアンス的にはそんな感じかな」
ほんの思い付きだったし、とにかく騒ぎになる前になんとかしなきゃって思っていたからはっきりとは覚えていない。私はただあの人に受け取ってもらえる口実にさえなれば何でも良かった。
茅野君は天井に視線を移して考えるような仕草をしてから私を真っ直ぐに見つめる。その真剣な眼差しに不覚にも胸がどきんと大きく鳴った。
「俺にこれをくれたのは、稲倉さんが傘を渡した人じゃありません」
「えっ……?」
茅野君は3日前、外回りの途中でうっかり傘を電車に置き忘れてしまったそうだ。そんな彼にこの傘を差し出したのは年配の女性だった。
言葉を失う私に茅野君が柔らかく微笑む。そしておもむろに鞄から取り出したものをテーブルにそっと乗せた。
「その方は『女物でごめんなさい』って言いながら…これを一緒に渡してくれました」
それは葉書サイズの封筒だった。端が少しよれていて、糊付けされていない封筒の中身は───。
「カード?」
茅野君に促されて2つ折りになったそれを恐る恐る開いた。紫陽花がプリントされた厚紙の内側にひと回り小さい水色の紙が貼られている。
私はそこに書かれた文章を息を詰めて、一文字一文字噛みしめるようにして読んだ。
『この傘を受け取った方へ。
私は突然の雨に降られ、途方に暮れていた時に見ず知らずの方からこの折り畳み傘をいただきました。その心優しい方は遠慮する私に「傘が無くて困っている人に差し上げて下さい」と、とても素敵な提案をして下さったのです。
どうかこの傘を私と同じ、雨に降られて困っている人を見掛けたら、カードと一緒に渡して下さい。
皆さんにも彼女の素晴らしい心遣いを知っていただき、善意のバトンを繋ぐお手伝いをしていただける事を願っています。』
文章の右下には私があの人に傘をあげた日付と『Mikoto』というサインが入っていた。
ブルーブラックのペンで書かれた綺麗な文字は礼儀正しいあの女性を連想させる。しかもカードに書かれていた文字はそれだけじゃなかった。涙が再びこみ上げてくるのを堪えながら、私は必死で文字を目で追う作業に集中した。
『○月×日 本当に助かりました! アヤ』
『○月□日 お陰で面接に間に合いました。本当にありがとうございます。 K』
その数は軽く20行を越えていた。次のページが白い紙に変わっているのは誰かが継ぎ足してくれたのだろう。インクの色も文字の大きさも違う、寄せ書きみたいなそれには英語のメッセージや男性らしき名前まである。
下から2行目には細い筆で丁寧に書かれたお礼の言葉。そして一番最後にあったのは──見覚えのある筆跡。
『×月△日 とても助かりました。このバトンに参加出来た事を嬉しく思います。 茅野』
最後まで読み終えた瞬間、涙腺が一気に崩壊してしまった。おしぼりで目元を押さえ、嗚咽を必死で噛み殺す私を茅野君は静かに見守ってくれている。
傍から見れば泣いている女と泣かせた男という素晴らしく居心地が悪い状況だというのに、ようやく落ち着いて見上げた先にはいつもと変わらない、相手を和ませてくれる人懐っこい笑顔があった。
「あー…ごめん。今日は泣いてばっかり」
「嬉し涙ですから、良いんじゃないですか?」
いつの間に用意してくれたのか、茅野君は新しいおしぼりを渡してくれた。火照った目元にきんと冷えた感触が気持ち良い。
その言葉に私は反射的に小さく首を振ってしまった。
「嬉しいって言うよりも、申し訳ない気持ちの方が強いんだ。実はね…ずっと、この傘を捨てたかったの」
テーブル越しに伝わってくる戸惑いの気配に構わず、おしぼりで目を隠したまま、私は勢いに任せて全てを吐き出す事にした。
◇◆◇
この傘には失恋の記憶が染み込んでいた。それでも捨てられなかったのは勿体ないという気持ちがあったから。物に罪は無いしね。
私には長年想いを寄せている人がいた。『一番親しい女友達』のポジションを失うのが怖くて勇気が出せなかったある日、彼から衝撃の事実を知らされた。
『文のお陰でカナちゃんと付き合える事になったよ!』
カナは学生時代の友達で、彼と引き合わせたのは勿論──私。
心臓が移動したような激しい鼓動が耳の奥で響き渡る。今更ながら私がピエロだった事に気が付いた。
私の学生時代を知りたがったのは、カナの情報を聞き出す為。
私のスケジュールを細かく尋ねてきたのは、またカナに会えるチャンスを伺う為。
自分の都合の良いように捉えた愚かな私は彼に乞われるがままベラベラと喋り、『近くにいるから、今から会えない?』という彼の誘いに浮かれ、同じ女子会に参加していたカナを連れて行った──少し自慢げな気持ちで。
これからも相談に乗って欲しい、という頼みに『もちろん』と笑って答えた私は本当にどうしようもない。
今からカナが泊まりに来るという彼はひと足早く軽い足取りで去っていった。2人でよく飲みに来ていた店を出ると、静かな雨。
心も身体も置き去りにされた私は1人、誰もいない部屋へ帰った。
───白い水玉で縁取られた紺色の傘を差して。
◇◆◇
「そんなの…酷いです。その男は絶対に稲倉さんの気持ちに気付いてましたよ…!」
「どうだろう?凄く鈍感な人だったから、むしろ付き合わなくて良かったのかも」
「仮にそうだったとしても酷すぎます……」
ずっと誰にも話せなかった恥ずかしい失恋話。いざ吐き出してみたら全然大した事じゃなかった。話している途中で思わず笑っちゃいそうなくらい、どこにでも転がっている陳腐な話だというのに、茅野君は悲しみと怒りが混ざった顔をしていた。テーブルの上で震える拳を不思議な気持ちで眺める。私の為に怒ってくれるなんて、茅野君は本当に優しいな。
あーあ、化粧は剥げ剥げ、目元なんて完全すっぴんだし、こんな情けない話を暴露しちゃって、これからどんな顔で接して行けば良いんだろう?
でも、不思議な事に彼にならどんな酷い姿を見られても平気な気がしてきた。
「……ありがとう」
化粧室で何とか見られる状態にまで顔を修復した私は改めて茅野君にお礼を言った。
ミコトさんから私に傘を、思いやりのリレーを繋いでくれてありがとう。
突然泣き出した私を外に連れ出してくれてありがとう。
私の恥ずかしい失恋話を聞いてくれてありがとう。
そして──彼の事を吹っ切るきっかけを作ってくれて、本当にありがとう。
沢山の意味を籠めた『ありがとう』に、彼はとてもとても優しい笑顔で応えてくれた。
「俺の方こそありがとうございます。この傘が無かったら、びしょ濡れでお客さんに会う所だったんですから」
「あははっ、そう言ってくれると助かるよ」
さて、この傘をこれからどうしようかな?今日は有難く使わせてもらう事にして……。
私より一瞬早く、大きな手がテーブルに置かれたままの傘をカードと共に奪っていった。
「それが無いと私、帰れないんだけど…」
「大丈夫です、俺が送りますから」
「いやいやいや…これ以上噂になったら困るでしょうに」
あぁ…明日からしばらくはこの恥ずかしい話を繰り返さなきゃいけないのか。でも、ちゃんと説明しないと茅野君が悪者になっちゃう。
ロビーですれ違った人が誰だったかを思い出そうとしていると、宙に浮いたままだった手が心地良い温もりに包まれた。
「俺としては願ったり叶ったりなんですけど」
「……へ?」
「あ、そーだ。どうせですから、もう付き合ってるって事にしちゃいませんか?」
失恋の象徴だった傘が、沢山の感謝と一緒に連れて来てくれたのは───新たな恋だった。
2015年 関東甲信越地方梅雨入り記念作品です。
世界のどこかでこんな小さな奇跡が起こっていたらステキだな、と思いながら書きました。
これからしばらく憂鬱な日が続きますが、この話を読んでほんの少しでも雨を楽しんでいただけるようになれば嬉しいです。