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「ずいぶん、直球だね……」
湯川真子は、観念したように手で涙を拭った。
「さすがにバレバレか。さっき、会場で川下さんにもそれっぽいこと言われて、もちろん深い意味はなかったのかもしれないけど、内心すごく焦ったよ。もしかして、本当はみんなに知られてたんじゃないかって」
「たぶん、それはないと思う。湯川は、みんなの前ではあからさまな態度はとってなかったし。でも、俺は近くで見てたから、なんとなく……」
「そうだよね。秋山君には、さすがに気付かれちゃってたよね。私、文化祭の練習中は全然余裕がなくて、いつもみんなの足を引っ張っちゃって、たくさん泣いたし、特に斉藤君や秋山君には、みっともないとこばかり見せちゃってたからな……」
白状するしかないか、と湯川真子は困り顔で笑った。
「好きだよ。あのときは子どもだったけど……今もまだ子どもかな。でも、今よりもっと子どもだったあのときでも、すごく好きだった。好きになった経緯は自分でもよくわからないんだけど、とにかく好きで、こんなにも人を好きになることがあるんだなって、自分でもびっくりした。それまで、みんなが言う男女の恋愛とか、何が楽しいのかよくわからないって思う側だったのに。そういう人間ほど、当事者になったときの反動が大きいのかもしれないね」
だからね、と彼女は付け加えた。
「それだけ好きになった人だから、簡単に好きじゃなくなることなんて出来なかったよ。―――もちろん、斉藤君とどうにかなりたいとか、間違ってもそういう意味ではないよ? 好きだけど、そういうのとは違って。例えるなら、私にとって彼は雲の上の人というか、手の届かないところにいる人というか、そういう人がたまたま自分の近くに現れて、たまたま強い刺激を受ける機会があった。とにかく、私にとっては、非現実的な存在だと思っているの。何を言ってるのかわかってもらえないかもしれないけど。友達としては、今後も仲の良い関係でいたいけど、恋愛的な側面では、まったく別次元の人。だから、本当に変な風に思わないでほしいの。今までもこれからも、何も変わらない。……さすがに、月日が経てば気持ちも風化していくと思うけどね」
話を聞く限り、今でも本当はかなり好きなのではないのか? と思ったが、あえて口には出さないことにした。
湯川真子は、自分の気持ちがこのまま風化していくことを望んでいる。あえて蒸し返すこともないだろう、と。―――ただ。
何らかのわだかまりが残ったままでは、気持ちの風化を待つとしても、それが見えない障害になってしまうこともある。まさに、今の秀和のように。
「もっと、他にはないの?」
「他って……」
「斉藤と湯川のエピソード」
「え、何で? 私、今自分の話ばかりしてごめんって、言おうとしたところだよ。ちょっと喋りすぎて、反省してたのに」
「そんなの構わないよ。もうこの際だし、とことん吐き出しちゃえば? たぶん、その方がすっきりするだろ」
「ど、どうして……?」
湯川真子は、秀和の真意が読み取れずに、かなり戸惑っていた。
「せっかく久しぶりに会ったんだ。この際、細かいことは抜きにしてさ。吐き出した方が楽になると思うよ。そもそも、湯川から話をしようって振ってきたんじゃないか。本当は、誰かに聞いてほしいことがあるんじゃないのか。秘密は守るよ」
「秘密って、やましいことは、何も……」
「なら、いいじゃないか」
秀和がここで強気に出られたのは、確信を持っていたからだ。
湯川真子は、本当は、ずっと行き場のない気持ちを持て余していたはずなのだ。そのような感情には、秀和にも思い当たる節がある。だからこそ、彼女の心が手に取るようにわかる。
誰にも言えないからこそ、誰かに聞いてほしい。そして、その相手は、秀和ではなくても構わないのかもしれない。それでも良かった。
「……あはは。正直、こんなみっともないことになるとは思わなかった。少し昔の話をしたかっただけだったのに。本当だよ? でも、秋山君の言うとおりかもしれない。図星だ。本当は、どこかで吐き出せるところを探していたのかも。わかった。この際、とことん付き合ってもらっちゃおうかな」
湯川真子が、何かに吹っ切れたように笑った。
「一度だけ、斉藤君に抱きしめられたことがあるの」
「え」
「私が他のキャストの人たちと上手くいかなくて、精神的に参ってたときに、斉藤君が慰めてくれたの。斉藤君は、揉めた事情をある程度知ってくれていたし、そのときの私の一番の理解者が斉藤君だった。私が教室で一人で泣いていたときに、たまたま斉藤君と鉢合わせて、斉藤君が優しい言葉をかけてくれたから、私は余計に涙が止まらなくて、どうしようもない状況になっちゃってね。斉藤君も、本意じゃなかったかもしれない。大げさだろうけど、私はそのとき、死んでもいいって思えるくらい幸せだったよ」
ああ、だからか、と秀和は思った。
湯川真子が急に綺麗になったのは、やはり斉藤の影響なのだ。
「斉藤君は、私が橋倉さんに似てるって言ったの。言いたいことが言えなくて、全部我慢してしまうところがそっくりだって。だから、私を放っておけなかったみたい。私、そのとき感極まって言っちゃったの。斉藤君のことが好きだって。でも、勝手な話だけど、私は気持ちを伝えられただけで満足したの。後先のことなんて何も考えずに、斉藤君に丸投げしただけだったのね。……そしたら斉藤君がね、何て言ったと思う?」
湯川真子は、突然くすくすと笑い始めた。
「『湯川は俺の好みのタイプだから、本当はすごくもったいない。でも、ここで潔く断る紳士な俺を心の中で褒めてくれ』って。初めは『え?』ってびっくりしたけど、後で思い返したら、なんだかおかしくって」
話を聞いただけなら、斉藤の発言はある意味とんでもないものだと秀和は思った。
湯川真子が分別のある女子だから良かったものの、人によっては、変に気を持たせてしまってもおかしくないような言い方だ。
斉藤は、割ともてるタイプだったが、だからこそ少し浮ついたところもありそうだとは、高校時代から感じていた。
しかし、湯川真子は、このことを全く悪いようには受け止めていなかった。自分の考え方が固いだけなのだろうか、と秀和はやや戸惑う。
「いろんなことが嬉しかったの。私が好きになった人は、本当に素敵な人だったんだなって。彼女の橋倉さんのことも、勝手に横恋慕した私のことも、なんとか傷つけないように考えてくれたんだと思う。でも、あのときの斉藤君の悩みに悩んだような顔が、思い出すだけでも面白くって。困らせちゃったのは私なのに、ひどい話だよね。今まで誰にも言ったことなかったけど、本当は誰かに話したくて仕方なかったのかも」
ふふふ、と湯川真子は、ふたたび堪えきれずに笑っていた。
「ありがとう、秋山君。話を聞いてくれて。恥ずかしいけど、喋っちゃうと案外すっきりするね。今、すごく心が軽くなっちゃった」
「そうか。なら良かった」
「秋山君は、そういう話はないの?」
「お、俺?」
「うん。秋山君もどちらかと言うと、自分の話をあまりしないタイプでしょう? 何か吐き出したいことはない?」
「俺は……」
ぐらり、と心が揺れた。
湯川真子の真っ直ぐな瞳は、何かを勘ぐっているような様子もない。ただ純粋に、今度は自分が傾聴する側になろうとしているだけだった。
彼女の話は、相手がこの場にいないからこそできた話ではないだろうか。しかし、秀和がずっと抱えている気持ちを彼女に暴露することは、すなわち当事者本人の目の前で、その想いを直接ぶちまけてしまうということだ。自分だけの都合で動くわけにもいかないような気がした。
湯川真子は、今とてもすっきりした良い顔をしているのに。
「と……特にはないかな。残念だけど」
「えぇ、水臭いよ。本当に?」
「本当。ここ数年、浮いた話なんて全然ない。そういう悩みがあれば、人生がもっと豊かになったと思うんだけどね」
結局、秀和は、湯川真子に少しも本音を話すことができないまま、適当な返しをするだけに留めた。
「そろそろ帰ろうか。暗くなってきたし、駅まで送るよ」
秀和が話をそらそうとしたことに、湯川真子はうっすらと気付いていたが、秀和の悟られたくないという雰囲気に押されて、慌てて彼の後を追った。
(俺は、何も変わらないままだ)
駅までの道を歩きながら、意気地なしで不甲斐ない自分を呪った。それでも、今日は湯川真子がこれからの一歩を踏み出すための手助けを、自分はしたのだ。それだけは少し誇っても良いような気がした。随分と自分へのハードルを下げてしまっていることはわかっていたが、しかし、仕方のないことなのだと自己暗示をかけ続ける。
ほとんど会話もなく歩いていると、目の前に近づいてきた人物の影に気が付き、秀和はふと顔を上げた。
「あれ? 湯川じゃん!」
「あ……。や、矢島君?」
「なんだお前、二次会にも参加しないで。付き合い悪いな。……と、お前、秋山か?」
駅前で偶然出会ったのは、高校三年生のときの元同級生―――矢島光成だった。
披露宴の帰りなので、スーツ姿ではあるが、その服装を持ってしても、どことなくヤンキーっぽさがにじみ出る男だった。
「二人で二次会ブッチして、今まで一緒だったのか? 何、お前ら付き合ってんの?」
「ち、違……」
「違うよ。俺の忘れ物を湯川が見つけてくれて、それを俺が受け取っただけだ。これから帰るところ」
「なんだ、そうか。じゃあさ、開散するなら湯川、今から俺と飲みに行かない?」
「え?」
湯川真子が、その場でたじろぐ。
「お前、高校のときは超地味でやばかったけど、なんか妙に可愛くなったよな。あか抜けたっつーか。この近くに良い店知ってるから、積もる話でもしようや」
「いや、でも……今日はもう遅いし」
矢島は当時、湯川真子が特に苦手としていた男子生徒だった。矢島も『イグアナの娘』のキャストのうちの一人だったが、彼女が矢島に何度か理不尽に泣かされていたのは、秀和も知っていた。
「夜だから飲みに行くんじゃん。大丈夫、ちゃんと帰りは送ってくからさ」
「で、でも、あの……」
「彼氏でもいんの? ……んなわけないよなぁ。そういうのは、湯川はまだだよな?」
ずけずけと遠慮のない失礼な物言いに、温厚な秀和も、いい加減に我慢が出来なくなっていた。
「そのへんにしとけよ、矢島。俺たち、もう帰るから」
「何だよ、秋山。帰るなら、お前一人で帰ればいいだろ。俺は湯川と話してんだよ」
「うるさい、俺たちはもう帰るから! 行こう、湯川!」
秀和は、湯川真子の手を引いて、とっさに走り出していた。
口では帰ると言ったはずなのに、駅とはどんどん逆方向に進んでいる。とにかく、無我夢中で走った。矢島が追いかけてくるような気配はない。
おそらくは、秀和の唐突な奇行に呆気にとられているのだろう。
もう良さそうなところまで走ったが、なかなか足を止めない秀和の手から、湯川真子の手が離れたところで、初めて秀和は振り返って足を止めた。
「ごめん……もう、走れなくて……」
「あ、ああ。俺こそ、ごめん、考えなしに」
「ううん、ありがとう。おかげで助かったよ。でも……どうしたの、急に」
「あのさ……」
秀和は、今度こそ真っ直ぐ湯川真子を見ることにした。
「やっぱり、俺の話も聞いてくれないかな? 俺がずっと誰にも言えなかった、誰かに聞いてほしかった気持ちを」
もう、いろんなものに言い訳をして、自分を誤魔化すのはやめにしよう。
誰のものでもない、今度は自分の物語を進めるために。
心地の良い夜風が、頬を撫でるのを感じた。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。




