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たかなしです

幼少時代は所謂転勤族というやつで、一年か二年に一回くらいは引っ越していた。なのでみんなの前に立って挨拶したり、話したりというのは慣れていた。

「今日からお世話になります。派遣のたかなしかおるです。よろしくお願い致します」

事務所のみんなが見ている前で丁寧にお辞儀をする。

たかなしという響きにみんなの目がほんの少し輝いた。

「もしかして、ことりあそびの小鳥遊さん?」

「いいえ。たかいなしで高梨です」

この受け答えにも慣れていた。

「じゃあかおるってどう書く?」

自己紹介の段階で聞かれるのは初めてだったから、少し驚いた。

「香水の香です」

あーそっちか、と言う声が聞こえた。

「ここにはね、もう一人たかなしかおるがいるんだよ。ね」

私の隣にいた事務員の男性が一人の女性を指す。

「はい。ことりあそびの小鳥遊に、難しいかおるで、小鳥遊薫です。よろしくお願い致します」

指名された女性はにこやかに答え、丁寧に頭を下げた。私も慌てて頭を下げる。

「ということで、高梨香さん。よろしくね」

事務員が私の席を案内し、その日の朝礼が始まった。


「高梨さん、お昼、一緒に食べましょう」

食堂の隅でうどんをすすり始めた私の横に小鳥遊さんが座る。彼女はカレーを選んでいた。大盛りの真っ赤な福神漬けを指差して「ここ、結構融通聞くのよ」と可愛らしい笑顔で言った。

「私ね、ことりあそびの小鳥遊に難しい薫でしょう。だから名前負けしちゃって。高梨さんの字が羨ましいって思うわ」

そんなことは初めて言われた。小鳥遊だったら良かったのにね、と言われたことは今まで何回もあった。

「毎回、がっかりされちゃいますよ。ことりあそびの方が羨ましいです」

「ええっ。私は高梨さんの字、可愛くていいなと思いましたよ」

どちらともなく顔を合わせて笑った。

「無い物ねだりね」「そうですね」

それから短い休憩の間に色々なことを話した。その中でお互い三十歳であること、恋人のいない独身であること、何よりも転勤族で何度も引っ越しをしてきたことが分かった。仲良くなるまでにそう時間はかからなかった。


事務所で小鳥遊さんは薫さん、私はコウちゃんと呼ばれるようになっていった。薫さんが「さん」なのは十年以上勤めているからで、私が「ちゃん」なのは新人だからで、「たかなしかおる」に全く「コウ」が無いのに「コウちゃん」なのは「香水の香です」と自己紹介で説明したからだった。三十にもなるのにちゃん付けは気恥ずかしかったけれど、あだ名らしいあだ名はこれが初めてで、それが嬉しかったから素直に受け入れた。

お昼休憩のチャイムが鳴れば「コウちゃん、お昼行こう」と薫さんが毎日誘ってくれた。アフターファイブにご飯に行くことはなかったけれど、お昼は欠かさず薫さんと食べた。

「私が今までで一番がっかりしたのは、横浜だったわ」

いつもの福神漬け大盛りのカレーを口にしながら薫さんは言う。

「ロマンチックな街かと思っていたのに、何て言うか、人工的で」

「分かります。みなとみらいは特にコンクリートで囲まれていて、さあ、ここでショッピングをして、食事をして、ロマンチックな海辺を観賞してくださいって言われているようでしたね」

「そう。どうしても決められたルートになりがちなのよね」

「でも、中華街は好きでした。中国人がいますし」

薫さんは大きく頷いた。

「外国なのよね、あそこは。匂いも独特でしょう。食べ物も美味しかったわ。ハリネズミのお饅頭とか、ゴマ団子とか、大きな肉まんとか」

「エビチリの肉まん、あれ美味しかったです」

「本当?今度行ってみようかな」

お互いにじゃあ一緒に行こうとならないのは転勤族だったからだろうと思った。お別れを知っているのに深く仲良くなるのは苦手だった。


勤めて一年になる頃、薫さんは「斎藤」になった。結婚のお相手は親の用意したお見合い相手だと言う。それでも「薫さん」と「コウちゃん」なのは変わらなかった。

それから一年もしない内に薫さんのお腹は大きくなった。福神漬けを大盛りにしたカレーを食べることはなくり、魚定食を頼む用になっていた。

そして、退職した。


「コウちゃん、久しぶり」

一人でショッピングをしていると後ろから声が掛かった。薫さんだった。

「どうしたんですか?お買い物ですか?」

買おうか迷っていたブラウスを棚に戻す。

「そう。娘が幼稚園に通うようになってね、一人の時間がやっと出来たからウィンドウショッピングをしてて、そしたらコウちゃんが見えたから声掛けちゃった」

そうか。もうそんなに大きくなったんだ。嬉しくなってランチに誘う。薫さんはカレーがいいと言うので人気のオーガニックレストランに入った。

「ここで福神漬け大盛りは頼みにくいわね」

相変わらず笑顔の素敵な人だった。

「もう、あの事務所じゃなくなったって聞いたわよ。今はどこで働いてるの?」

「一年中休みなしコールセンターです。なので平日休みがあるんです」

そうかそうか、と頷いた。そこからは近状報告で盛り上がった。薫さんの話すことは一人娘である真理ちゃんの事が中心で、私の話すことは最近の趣味である一人旅の事が中心だった。昔住んでいた場所や行ったことのない土地、様々な場所に訪れていた。結婚や恋人を諦めた独り身にとって、あたたかい家庭の話は重たかった。だからそれを拭うように沢山喋った。聞いている間はカレーを口にすることに懸命になり、珍しく追加でデザートも頼んだ。薫さんの話のせいか、ヘルシーなオーガニックを売りにしてる割りには甘ったるい胡麻プリンのせいか、胸焼けが止まらなかった。

「いいなあ。一人旅。長い独身生活だったんだから、私もしとけばよかったわ」

「私は、家庭を持つ方が羨ましいです」

妙な沈黙が生まれ、気まずくなる。

「あたたかい家庭があるんだからいいじゃないですか」

つい口にしてしまった言葉には刺があった。言ってから後悔した。すみませんとすぐに付け足す。

「そっか、そうだね」薫さんの声は重たかった。

「ごめんね。私、育児に疲れてて。自由に動き回れる時間も少なかったし、こんな楽しい時間は久しぶりで調子に乗っちゃったわ」

「いえ、こちらこそすみませんでした。最近寿退社する人がいて、結婚式にも立て続けに呼ばれるし、親からは彼氏は?なんて聞かれるし」

焦りばかりが積もる。悪いのは私だ。それなのに出てくる言葉は言い訳ばかりだった。

「ねえ、コウちゃん」優しい声だった。「私たち無い物ねだりね」

初めて会った日の事を思い出す。顔を合わせて笑った。

「はい。無い物ねだりです」

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