春の到来
四の月が終わるまであと三日を切ったその日、皇族達は神経を尖らせていた。
朝日が昇る前に起き、潔斎場で禊を行う。各地に散る皇族の居城だが、今回は皇都の皇城、北はヴィライオルド地方のファルチュエル城、東はヴィランド地方のロスタロイド城、南はヴィシュアール地方のシエラレオネス城、西はヴィルフォール地方のエストリオル城の五つを基点として使用することが決まっている。
とはいえいくら準備を万端に整えようと神の力を転用した呪詛である。神の末裔とはいえ、彼等だけで返すには些か無理があった。向こうが何人がかりで仕組んでいるのかもわからないのだし、肝心なところで神力が足りないという事態だけは避けたいものだ。しかしである。
「よって今回は皇祖にもご尽力いただく」
皇王のこの宣言に、それぞれ領地で通信用神術『水鏡』を通して待機していた皇族達は文句たらたらだった。
「だって引きこもりなのに」
「絶対ボケてますよ」
「寝ぼけ頭で適当に参加されたらこっちが危ないじゃないですか」
「寝かせとけばいいでしょう」
「ない方がマシって言葉があるじゃないですか」
神力を融通してもらうだけだという皇王の説明で一旦は収まったが、それでも皇族達は嫌そうだった。神の子孫であるという事実に誇りを持ってはいるが、肝心の祖神の性格が性格なので、素直に敬うには大きな抵抗があるらしい。ボケた先祖は存在しとくだけでいい……と考えているわけでは、ないはずだ。
「皇祖神とはどのような……」
「訊いてくれるな、イリアーナ嬢」
ファナルシーズは、イリアーナが皆まで言う前に遮った。
「頼む、皇祖について夢を持ったままでいてほしい」
「はぁ……」
イリアーナは首を傾げたが、重ねて詮索するほど興味があるわけではなかった。
人目につくのを避けるため、皇城での「基点」の位置は後宮の庭園だ。ちょうど良い広さがあったので、呪詛返しを行うと決めたその日から立ち入り禁止にして清めてある。
なんといっても将来神殿勤めを希望しているイリアーナは、こういったことに関しては本職なので、ここでも大いに役に立った。
「『四方』は四方位、『中点』は真ん中、つまり国の真ん中、皇都のこと。この五点を基点にして術陣を展開させれば、十分に呪詛を返すことができるはずです」
呪詛返しもやり方は様々だが、皇王はその選択についてはイリアーナに丸投げした。ファナルシーズはこれを見て憤慨したが、当のイリアーナが熱心に取り組んでいるのを見て何も言えなかった。
迎えた呪詛返しの当日、その日も冷たい雨は降り続いていた。
「成功、させなければいけませんね」
灰色の空を見上げながら、イリアーナはぽつりと呟いた。傍らにいたファナルシーズは、ああ、と返す。
春の種蒔きができなければ、それはそのまま秋の不作に直結する。貴族達の館にそれぞれ蓄えはあるとはいえ、全土の飢えを凌げるものであるとは言い難かった。税収も落ち込むことは必至だ。既に税率に関しては元老院や貴族議会、皇族会議で話し合われている。
空が本当はどんな蒼だったのか、考えてみれば思い出せなかった。青かったことは確かに覚えているというのに。
(それが美しいものだったこと、かけがえのないものだったことを、私達はいつも、失いかけてから、あるいは喪ってから、初めて気づくことができるのだ)
それがあることが当たり前すぎて、その美しさやかけがえのなさに、いつもは心を傾けない。
「時間だ」
行こうか、イリアーナ嬢。
そう言って、ファナルシーズは先に雨の中へ踏み出し、イリアーナに向かって手を差し出した。イリアーナは戸惑った顔をしたが、差し出された武人らしい手に、ほっそりとした己のそれを載せた。
ファナルシーズは、庭園の真ん中に描かれた術陣までの短い距離を歩く間、繋いだ手をしっかりと包んでいた。
厚い雲に遮られていて見えないが、太陽はちょうど中天にかかっているはずだった。
「わたくしが呪詛の元を特定するまで、しばしお待ち下さい」
イリアーナは言って、こちらもあらかじめ描かれていた離魂術のための術陣の中に入る。普段のドレスなど足元にも及ばないほど簡素な白い巫女装束の長い裾を捌き、着座する。術陣自体は雨により消えてしまうのを防ぐため大きな布に書かれているが、それでも滲んでくる泥はどうしようもない。
白い巫女装束の裾は瞬く間に茶色に汚れていったが、イリアーナはそれには構わず、目を閉じて離魂術の祝詞を唱えた。
この術自体はそう時間のかかるものではない。すぐにイリアーナは離魂できた。
――視える。
その光景にイリアーナは衝撃を受けた。
離魂した上、『千里眼』の異能を持つイリアーナである。今の彼女には、一瞬にしてヴィーフィルド全土を見渡すことが可能だった。
常とは違う視界。大地にさえ神力が溢れ、輝いているはずの国土を、赤黒い不気味な蔦のようなものが覆っていた。そしてそれらは、降り注ぐ雨に歓喜するように空へ向かって、今も伸び続けている。
(……何ということ)
事態は想像以上に悪かったのだ。
イリアーナは頭を振って気を取り直した。
(視覚化されているのなら逆にやりやすい。この蔦の根を、辿っていけば少なくとも術をかけた場所はわかる……)
そして、精神体のまま、彼女は赤黒い蔦に触れた。
(!)
びりびりと凄まじい衝撃が走った。悲鳴を上げて掴んだ蔦を放り出してしまう。
掴んだ掌が、冷たすぎる氷を当てられた後のように、燃え盛る炎に焼かれたように痛かった。
(いけない、こんなことでは、呪詛返しの補佐などできない)
もう一度手を伸ばそうとするが、透き通ったそれが震えているのが自分でもわかった。
イリアーナは泣きたくなった。どうして。
(どうして、私は肝心なときに怯んでしまうのだろう)
そのとき、精神世界と現実世界の溝を超えた声が、文字通り彼女の魂に届いた。
「イリアーナ!」
ファナルシーズは魂が抜け、そのしばらく後に「びくんっ」と跳ねたイリアーナの体を腕に抱いていた。
「イリアーナ、無茶をするな。駄目だと思ったのなら、帰って来い!」
魂だけの状態だからこそ、向けられる温かい感情が如実に伝わってくる。ともすれば熱過ぎるその感情は、雨に打たれて冷え切った彼女の魂に、確かに火をつけた。
(いいえ、殿下。ここで引くわけにはいきません)
聞こえるはずがないとわかっているが、そう返事をして、イリアーナは再び手を伸ばした。もう震えてはいない。
内側から湧き上がる力に任せて、彼女は赤黒い蔦を引き抜いた。ばちばちと「拒否反応」が起こるが、気にならなかった。すぐさま『千里眼』を全開にして蔦の根が続く先を『視』る。
(――あった!)
国外である。東の大河ルトニを挟んだ対岸――デルフィニア王国。ルトニに程近い、森の中。
引き上げた蔦をしっかりと握り締めたまま、彼女は自分の体に帰った。
目を開けて、精神体とは違う、しっかりとした質感のある自分の手に赤黒い蔦が絡み付いているのを確認する。
「これです――呪詛を具現化したものです。この先を辿って、呪詛を返して下さい!」
皇王、皇妃、そしてファナルシーズは、すぐさまもう一つの術陣の中に入った。『水鏡』を通して皇王が号令を出す。
「始める!」
「一二三四五六七八九十百千万。ふるべふるべ、ゆらゆらと」
まずは数歌。呪詛の呪詞である禍歌――魔の数え歌の効果を、これで打ち消すのだ。
「謹請し奉る」
五点に散った皇族達の内、必ず一人ずつ、計五人が数歌を歌い続ける。その間に、もう一人が呪詛を返すための命文を唱える。
「人と神双方に禁じられたる罪に、呪いする罪と在り」
遥か昔、創世のとき。万物の母たる闇女神は、生み出した子供達に対し、最初に「他を呪ってはならぬ」と申し渡した。女神の言葉はそのまま世界の掟となり、他を呪うことは『創世の大罪』の一として神も人も行ってはならない。
「神にも禁じられたるこの罪を、犯したる者在り。伏して願わくば御神の裁定を賜らん」
陣の外にいるイリアーナは、不意に、膨大な量と質の神力が、皇王達に向かって流れ込んでいくのを感じた。
皇祖だ。
大神殿の地下で子孫を見守り続けているという、皇祖・時空神ファルダス。その神としての純粋な神力が、直系子孫である皇王と皇太子に直接注がれている。
さらに流れ込んだ神力を皇王と皇太子が完全に制御しているのを見て、イリアーナは畏怖とも恐怖ともつかぬ感情を抱いた。
(これが――これが、神の子孫……)
たとえ一部分といえども、純粋な神の力を、一時とはいえ難なく制御できる者――彼女を含む、ヴィーフィルド人の、王。
イリアーナがやれば間違いなく力を抑えきれず一瞬で焼け死んでしまうだろう。『器』の『素材』が根本から違うのだから。
「東風の雪雲を吹き払うが如くに、朝風夕風が朝霧夕霧を吹き払うが如くに、諸々、万の禍事、罪、穢れを祓い清める」
基点である五つの地点から、皇族達の神力が基線に沿って巡りだす。
視える者が見れば、きっとそれは、全土に金色の光の線が延びているように見えただろう。
五つの城から走り始めた線は、複雑な紋様を描き出す。
「この身は我が身にあらず、この声は我が声にあらず、この息は我が息にあらず――全て御神々の身、声、息なり」
イリアーナは掴んでいるものを放さないようにするので、既に精一杯だった。魔力で編まれたものであろうそれは、イリアーナの手に灼熱の苦痛を与えている。
「一二三四五六七八九十百千万――――諸々の穢れを祓い給い……」
巡る神力が五点に集中し、解放を求めて激しく渦巻いているのが、イリアーナにもわかった。
「断たしめせ!」
地上から生えた五本の光の柱が、分厚い灰色の雲を貫いた。
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「ぐうっ……!」
白い髪をしたその人物は、心臓を剣で貫かれたような衝撃によろめいた。
胸元の服をくしゃりと掴む。うっすらと唇を持ち上げた。
「……返したか」
見開かれたその瞳は、漆黒。
「さて……次の『仕掛け』をしておかねば」
弾んでいたはずの息は既に整っている。
呪詛返しを受けた直後とは思えぬ足取りの軽さで、その人物は外へと出て行った。
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皇都リーヴェルレーヴ、ファルチュエル、ロスタロイド、シエラレオネス、エストリオル。
『四方と中点』の言葉通り、ヴィーフィルドの大都市の中心それぞれから、まばゆい金色に輝く光が、一直線に天を貫いていた。
と、それぞれの柱から竜巻のような風が巻き起こる。
巨人に腕で薙ぎ払われるかのように、厚い雲は霧散していった。同時に、イリアーナの掌を灼いていた赤黒い蔦も塵に還り、巻き起こる風にさらわれていく――。
久しぶりに直接注がれる陽光に、イリアーナは目を細めた。
花壇の花の上の雨露が光を弾いて、きらきらと光っている。どんな宝飾も及ばぬその控えめな、しかしありのままの美しさに、じわじわと感動が湧いてくる。
ああ、こんなにも世界は、美しかったのだ。
灰色の雲がとり払われた世界は、鮮やかに色を取り戻し、その鮮明な美しさは目に痛いほどだった。
「やった……」
やり遂げたのだ。私達は、呪詛に屈することはしなかった。
すがすがしい達成感に身を任せ、暖かい陽光に恍惚としているイリアーナに、なぜか不機嫌そうなファナルシーズが近付いてきた。
「殿下……? どうかされましたか」
あまりに憮然としているファナルシーズを訝しく思ったイリアーナは、次に手を差し伸べられて驚いた。
「イリアーナ嬢、手を」
「は?」
「いいから、手を出せ!」
出会ってから見たことのない厳しい表情に、イリアーナは疑問符で頭を埋めつつ、言われたとおりに手を出した。
ファナルシーズは置かれた華奢な手を見て、さらに機嫌を悪くした。
「傷になっている」
「え?」
「火傷になっていると言っているんだ!」
当たり前である。魔力で編まれていたであろう呪詛を具現化したものを素手で掴んでいたのだ。なぜそんな今更なことを、ときょとんとするイリアーナに構わず、ファナルシーズは治癒神術を使った。
「殿下!? そんな、殿下がそのようなことをなさらずとも……!」
「婦女子に傷を負わせたまま返すわけにはいかない」
「ですが!」
皇王と皇妃は、女性嫌いの息子が珍しく女性を捕まえてすったもんだしている光景を、この人達にはそれこそ珍しくぽかんとして眺めていた――。
『竜の牙』から風が吹き降りてくる。それは特有の暖かさを含んで、皇都に残っていた冷気を吹き払った。
ヴィーフィルド皇国に、一ヶ月半遅れの春が来たのだ。
難産な回でした……。
呪詛返しの命文、ちゃんと書こうとして四苦八苦でした。