血の涙
深遠の闇の底に、白い女が、いた。
かの神魔大戦後、只人にもその区別がつくようにと、神々は魔力保持者達から色彩を奪ったという。ゆえに彼らは、白か、灰色の色彩しか持たない。
魔力保持者と思しきその女は、歌っていた。
『一つ、人世に希絶え
二つ、振り向き悔やむとも
三つ、皆行く修羅の道
四つ、万の禍に
五つ、偽り重ねつつ
六つ、虚しき影を追い
七つ、嘆きに喉裂けよ
八つ、安らぐこともなく
九つ、転がり往く先は
十で遠くの暗き底――』
澄んだ歌声は、悪寒と共にイリアーナの体を通り過ぎる。
あまりに禍々しい言霊に、巫女としての本能が聖句を唱えさせた。
「全ての魔が事、禍事を、清き光をもって祓いたまえ――」
イリアーナの指先から、銀色の光が零れる。しかしそれらは、闇を照らす前に闇に負けたように溶けるようにして消えていく。
イリアーナは慌てなかった。もとよりこの闇を祓うために唱えたのではない。
(神術は使える)
しかも普段より効きが良いようだ。
記憶を確かめてみる。
(殿下とお会いして、お茶を頂いて…………ああそうだ、外殿に着く前に倒れたのだった)
帰ったら母がそれみたことかと煩いだろう――帰れたらの話だが。
気を取り直して、目の前で歌う女を眺めた。
(泣いている……)
白い女は白銀の瞳から、紅い涙を流していた。足元に赤黒い池ができている。
血だ。
イリアーナはそれに気付くと、すっと手を上げた。
「夢の跡、現の欠片。御神よ、降りませ。かの嘆き、現し世に渡すべからず。この夢殿と現し世の通い路を閉ざしたまえ」
滴り落ちていた女の涙が止まったのは、ほんの一瞬のことだった。再び滴り落ち始めるのに、時間はそうかからなかった。
しかし命文は効力を発揮した。ということは、ここは噂に聞く――
「夢殿……ここが」
この世ではなくあの世でもない、資格を持つ者だけが立ち入ることができるという、狭間の世界。一種の精神世界とも言われ、肉体のままで辿り着けるところではないとされている。
別に入ろうと思って入ったわけではないイリアーナは、このままでは非常にまずいことを自覚していた。
離魂しているのである。
無論、離魂した経験はある。巫女修行の一環で何度もした。しかしそれらは、全て自分の意思で行ったことだった。
今は違う。強制的にさせられている。
普通なら禊をして万全の状態で臨むべきことなのに、神降ろしの直後で弱っているときに、魂を肉体から引き離されている――よく考えなくても、かなり危険な状態だ。
魂の行き着いた先が夢殿だったからまだ良かったが、これがあの世とかだったら比喩ではなく死んでいる。どうやら術者は「行き先」までは指定しなかったらしい。
『ひとぉー……つ、ひぃーとよぉーにのぉーぞみたえー……』
それにしても聞き苦しい。歌い手の力量は素晴らしいのに、歌そのものが怨嗟を切々と訴える禍歌では台無しだ。何度も何度も繰り返し歌われる歌は、そのまま呪詛にも使えるだろう。
そこまで思って、イリアーナははっとした。
「怨嗟…………呪詛」
まさか。
「貴女は――……!」
血の涙を流す白い女は、ふと笑ってイリアーナを見た。
イリアーナの背を、戦慄が駆け上る。
『気付いたか』
歌をやめて、しかし血の涙を流し続ける彼女は、一歩も動かずにこちらに声を届けた。――否、動けないのだ。
幼い少女とも、年老いた老婆ともつかぬその声は、不思議に耳を傾けさせるものだった。
『そう、わたくしは好き好んで祝福の地を呪詛しているのではない。させられているのだ。わたくしが「彼等」と近しいゆえに』
イリアーナは女に向かって頭を垂れた。彼女如きがみだりに口を利いて良い相手ではない。色彩こそ持たないが、この白い女は非常に高位の存在だった。それに聞いた話が本当なら、彼女は元々誰より濃い色彩を纏っていたはずなのだ。
『可哀そうな子供達。しかしそれが他者を呪って良い理由となりえようか。近々降るべき代行者のためにも、今しばらくは彼等を抑えねばならぬ』
女の流す紅い涙は留まるところを知らず、とつとつと、だが確実に滴り落ちていた。
イリアーナは焦った。あれこそがヴィーフィルドに降り続く雨の正体だ。女が泣き止まない限り、雨も止まない。女自身の嘆きと、神代――神魔大戦からの怨みとを含んだ雨は、徐々に、確実に国土を蝕み続けている。
『娘よ。ここを出て、時空を支えるファルダスの子孫達に告げるのだ。四方と中点、と』
「四方と、中点……」
女は頷き、イリアーナのことを不思議な呼び方をした。
『光を導く娘よ。そなたの器を我が君のために使うことを、どうか許しておくれ。あれは、お前がいいようだから』
愕然としたイリアーナは女を見返そうとしたが、その前に彼女の視界は暗転した。
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皇城の奥は騒然としていた。
皇王の指示で、人目を避けるため後宮の一室に運び込まれたイリアーナの体は、氷のように冷たかった。
娘の頬を触り、その冷たさを確認したセライネ伯爵は、自身も血の気を失いながらも気丈に疑問を口にした。
「一体、娘に何が起こっているのでしょうか」
こちらもイリアーナの額に手を置いて体温を確認していた皇王は、一言、断じた。
「魂が離れているな」
「離魂術……」
呟いて、伯爵は娘の頬を今一度辿った。
「かなり強制的に引き剥がされたと見える。しかしまだ生きているとは、よほど修行を重ねていたようだ」
ファナルシーズはその会話を少し離れたところで聞くともなしに聞いていた。先程からずっと、食い入るようにイリアーナを見つめ続けている。
「元に戻るのでしょうか」
「……酷なようだが、エアハルト、ウォルセイドも。あまり期待せぬほうが良い。自ら離魂したのなら問題はないが、他者に無理やり肉体と魂を引き離されたとなると、話は全く違ってくる。最悪の場合、魂は戻るべき器を見つけられん」
魂魄は長時間、肉体という器を離れては現世に留まれない。一定時間が過ぎれば、魂は天翔け、魄は地に沈む。その現象自体は常人の目に見えないが、魂魄が現世を去れば自然と肉体は滅んでいく。すなわち、緩慢な死だ。
「イリアーナ……起きろ、イリア!」
「ウォルセイド! やめよ」
「ですが父上……!」
「やめよ、御前だぞ」
ウォルセイドはくっと拳を握って妹から目を逸らした。
「陛下、私は一旦邸に戻って妻を連れて参ります。ウォルセイド、お前はここにいるよう」
セライネ伯爵は足早に部屋を出て行った。
皇王も一旦執務に戻らねばならなかったので、後には眠るイリアーナと、ファナルシーズとウォルセイドだけが残された。
ファナルシーズはイリアーナから目を逸らした。
(もう、あの笑顔を見ることはないのだろうか)
初めて会ったとき、彼女の笑顔がなぜ眩しく感じたのか――今なら、素直に認められる。
(私は、羨ましかったのだ。自由に自分で選んだ道を生き、輝いていられる彼女が……)
生まれたときから皇王の第一子として将来が確定していた自分。比べて彼女は第二子で家を継ぐ義務もなく、貴族の娘に生まれながら巫覡の才を持ったことで、貴族社会――俗世からも自由になれる道もあった。そして彼女はその道を、胸を張って選んだのだ。
自分の進む道を自分で選択し、彼女自身の実力で立ち、これからもそうして一歩一歩を歩いていくのだという自信が、イリアーナをあれほどに輝かせていた。
この自分に――皇太子という身分にあり、いずれ至高の座に就くことを約束されている自分に、眩しいと思わせるほどに。
(もう一度だけでいい。もう一度だけ、あの笑顔を見ることができたら――)
きっと、あの誇り高く自信に満ちた少女が尽くす国の主として恥じぬようにと、以前のように不満を持つことも、惑うこともなく責務を果たせる。
そんな根拠のない思いを抱えて、ファナルシーズは祈るように、今だ雨の降り続ける空を見上げた。
しばらくそのまま見上げていただろうか。
何の前触れもなく、厚い雲を貫いて、細い光の柱が地上に射した。
それはファナルシーズ達がいる部屋に一直線に降りてきて、イリアーナの体を照らし出した。後から考えれば、イリアーナの体は窓際ではなく比較的部屋の中の方にあり、どう考えても外から差し込んできた光がその体に当たるとは思えないのに、このときはその不思議に気付くことなく、ファナルシーズはただ目の前で起こることを見つめていたのである。
青褪めつつあったイリアーナの頬に、ほんのりと赤味が戻ってきていた。弱々しく、いつ止まるのかと思われた呼吸がしっかりと、安定していく。
「イリア?」
ウォルセイドも妹の変化に気付いた。そっと呼びかける。
金茶の睫毛がかすかに震えるのが、ファナルシーズにも見えた。
「イリアーナ嬢」
思わず駆け寄ってすぐ傍に立つ。
彼女の長い睫毛がふるりとほどけて、瞼の下から若草色の瞳が現れたときの安堵感は、ファナルシーズが今まで経験したことのないものだった。
「呪詛です」
目覚めてからすぐに起き上がり、水を飲んで一息ついたイリアーナは、この冷たい雨を降らせるものの正体がわかったと最初に言った。
知らせを受けた皇王と皇妃、駆けつけていたヴィライオルド公爵、ジェレストール、オルティーヌの前で、イリアーナはそう言い切ったのである。
「大神殿が沈黙を貫いたのも無理はございません。雨を降り続けさせるものとは何かを占じた結果はこう出たはずです――『神の嘆き、怨嗟』と」
普通に解釈すれば、『神が嘆き、怨んで呪詛している』である。大神殿はそう解釈した結果、この事実を皇王家に伝えることを憚ったと思われた。
しかしこれをイリアーナは否とした。
「結果自体は間違いではございません。ただ、解釈が間違っていたのです」
「どう違ったと?」
訝しげに眉を顰める皇王に、イリアーナは深く頭を下げた。
「恐れながら、申し上げます――――この雨は、真実、嘆きの雨。かの神魔大戦において犠牲となった魔力保持者達の怨嗟が、大いなる君の嘆きを通して、我等を呪詛しているのです」
しばらく、沈黙がその場を支配した。
皇王が深く嘆息して、天を仰いだ。
「神使をも屈服させる怨嗟……か。四千年越しの復讐劇というわけか、ご苦労なことだ」
不謹慎に過ぎる皇王の感想に、ヴィライオルド公爵が咳払いをした。
「陛下」
「見逃せ、ルークセイド。となると、目には目をだな」
原因が先祖の怨嗟でも、纏め上げ呪詛そのものとなした術者がいるはずだった。しかしその居場所はわからない。
術者の在所がわからぬとき、呪詛を解く方法は只一つ。
「呪詛返しをする」
呪詛返し――名の通り、かけられた呪詛を返す術。呪詛返しを受けた術者で、生き延びた者は、今だかつて存在しない。元から呪詛を断つことができる、最も面倒のない解き方でもある。
「全皇族にこの旨を通達せよ。我が国全土を呪詛できるほどの力の持ち主だ。油断は禁物ぞ」
「御意」
「子供とて神力は有り余っておるはず。ヴィランドのギルトラント、ヴィルフォールのエデルガルトも参加させるよう」
「両公爵に伝えておきます。配置はどうなさいますか」
この問いに皇王は澱みなく出していた指示を止めた。
これだけ大規模な呪詛返しとなると、術陣を使う必要がある。この場合、各地に点在する皇族達の居城を基点として陣を展開するのが最も負担が少なく、効果的である。そういった可能性も含めて皇族の居城や離宮は配置され建てられているので、後はどこを使うかが問題となる。
「下手に分散させても、不均衡になるか……」
満遍なく術者を配置させたいところだが、ヴィーフィルド皇族は数がそう多くない。他国では百人単位で存在するものだが、神の後裔であるがゆえの子孫の残し難さから、多くても五十人がいいところである。
しかも今回、どのくらいの「強さ」で呪詛が行われているのかわからないので、今一、術者を配置しづらい。
難しい表情でああでもないこうでもないと議論し始めた皇王、皇妃、皇太子、公爵、ジェレストールを見かねて、イリアーナは白い女の言伝を思い出した。
「陛下。大いなる君よりご伝言が」
皇族達は一斉にイリアーナを振り向き、目だけで問うた。
「『四方と中点』だそうにございます」
皇王は軽く目を開き、そうか、と小さく呟いた。
「それと……呪詛返しでしたら、『方向』程度は補佐ができますが」
「では頼む」
控えめなイリアーナの申し出に、遠慮会釈なく皇王は乗った。
これにオルティーヌが顔色を変えた。
「陛下! イリアーナ様は神降ろしに離魂術を立て続けに使って、体に大きく負担がかかっている状態でございます。そのような状態でこのように大きな呪詛を返す補佐など……」
「オルティーヌ様」
イリアーナはそっとオルティーヌの手をとった。
「大丈夫です。このくらいで体を壊すような柔な修行はしておりません」
神殿の巫女修行は厳しいらしい。
この数日後、ヴィーフィルド皇史上、類を見ない大規模な呪詛返しが行われることとなる。
その人員の中に、ただ一人、皇族ではない術者がいた。
巫女としてこの呪詛返しを補佐したその術者の名は、イリアーナ=オリエル・シュリミナ・アルス・セライネ。
後、紆余曲折の末、初めて伯爵位から直系皇族に嫁ぐことになる女性である。