揺れる想い
この降り続く異常な雨に関して、神託が降された。
その情報は瞬く間に上流階級の間を走り抜けた。
「神託を降ろしたのはセライネ一等伯爵の娘らしいぞ」
「伯爵に娘御がいらしたとは……」
「太陽神、月女神、雨神、天空神の四柱を同時に降ろして、生きているとか」
「なんと…………伯も人が悪い。それほどのご息女を隠すとは」
「それほどの才を持つからこそ、でしょうな。悪しき思惑を持つ者に利用されかねぬ」
貴族達が好き勝手に噂し合っている頃、イリアーナは休養を余儀なくされていた。
神をその身に降ろして、平気でいられるはずがない。反動というか衝撃というか、ともかくも彼女の体は極度に疲労していた。
「イリアーナ、まだ横になっていなくては」
皇都のセライネ邸の自室で、イリアーナは母の手厚い看護を受けていた。
「禊も潔斎もせずに神降ろしをしたと聞いたときは、心臓が止まるかと思いましたよ。神々も何と酷なことをなさるものかと……」
「お母様、それ以上は」
気に入らないことがあれば、神は祟る。神々の息吹濃いこの国で、その陰口を叩くのは自殺行為だ。
神託の詳細はごく一部の者しか知らない。イリアーナは自身がその媒介となったのだから、内容は覚えているが、他言することを禁じられていた。
「皇王陛下から、回復したら登城するようにとお見舞いのお言葉と共に賜っているけれど、いつになるかしら」
「えっ!?」
イリアーナは飛び起きた。
「い、いつ? いつ陛下から……!?」
「お見舞い? 貴女が気を失っている間にです」
全身から血の気が引くのを感じたイリアーナである。神託を降ろして丸一日昏倒し、今はそれから二日目の昼。
「すぐに参内します!」
体がだるいとか言っている場合ではない。回復したらとは、この場合動けるようになったらという意味だ。もはや事態は一刻を争うのである。
具体的にこの雨を降らせている者の特定をさせようというのだろう。もしそれを特定させようと思うなら、神託を降ろしたイリアーナが最も適任だった。
「イリア!」
止める母の手を振り払い、イリアーナは登城の支度を整えた。家令に先触れを出すように伝え、見苦しくないよう髪を整える。奇妙なことに、茶が強かったはずの髪は金と半々の色になっているように見えた。
それには全く構わず、イリアーナは先触れを出してから半刻後に邸を出た。
「陛下にお目通りを。わたくしはセライネ伯爵家のイリアーナです」
一の郭に入ってすぐに典礼官を捕まえて名乗ると、典礼官は「承っております」と、待合室を通らずに内殿の部屋へとイリアーナを案内した。
外殿を通り越した時点でイリアーナは心臓が縮まるかと思った。皇王はこの三日、ずっと待っていたということだ。
(お母様の馬鹿! どうして陛下からの仰せを無視なさるの!?)
昨日の昼には起き上がれていたのだ。その分待たせてしまったことになる。とんでもない無礼だ。
「セライネ一等伯のご令嬢をお連れしました」
ある部屋の前で立ち止まり、典礼官は声をかける。イリアーナは密かに深呼吸して、王を待たせてしまった非礼へどう詫びるかを頭の中で再確認した。……しかし。
「入れ」
聞こえてきた声に、イリアーナは戸惑った。皇王の声ではなかったからだ。
「皇太子殿下……?」
典礼官は呆然とするイリアーナに一礼して、去っていった。
イリアーナは逡巡した。皇太子も神託が降った場に居合わせたのだから別に不思議はないのだが、このとき彼女は、なぜか皇太子と顔を合わせたくないと感じた。
(だってだって、二度も倒れたところを助けていただいたもの。一度だけならともかく、よりにもよって殿下に何度も介抱させたなんて、顔向けできない……!)
いつまでも入ってくる気配のないイリアーナを訝しく思ったのか、扉は内側から開かれた。
「殿下……」
「イリアーナ嬢、体の具合はどうだ。ああ、とにかく中へ。廊下はまだ冷える季節だ」
内殿であるここまで立ち入ることを、普通の貴族は許されていないからいいものの、もし目撃者がいたら、この光景を「女性嫌いの皇太子が女性を連れ込んでいる」と解釈しただろう。しかもここは皇太子執務室。悪い噂を火種から煽ってやるようなものである。
当人達は全くそんなことは思っていないが。
「あの、陛下から何か……?」
イリアーナは皇太子が皇王から何かしら言われているものと思った。しかし違ったらしい。
「見舞いの手紙のことか? あれは私の名で未婚の女性に送っては騒ぎになると思って、父上の名をお借りしたのだ。ややこしいことをして申し訳ない」
「いえ……」
再三、中へと促す皇太子に負けて、イリアーナは皇太子執務室に足を踏み入れた。
内密の話をしようというのだろう、扉をきっちり閉めたファナルシーズは、備え付けの棚を漁りだした。なぜか茶器を出してくる。
「悪いが蜜茶は用意していないんだ。眠気覚ましの香草茶か、侍従にでも言いつければバター茶も出せるだろうが……」
「いいえ、お構いなく。それよりも、殿下、この雨を止める目処は立ったのでしょうか」
ファナルシーズはぴたりと動きを止めた。イリアーナはきつく手を握り、皇太子に訴えた。
「こうしている間にも、この雨は国土を蝕んでおります。あのような神託が降りました以上、もはや猶予はないものかと」
「…………ああ」
難しい顔で振り向いたファナルシーズの手には、二人分の茶器があった。あくまでイリアーナに茶を振舞うつもりらしい。皇太子が茶を淹れる方法を知っているとは思えなかったイリアーナだったが、侍従一人いない皇太子執務室の様子を見て、考えを改めた。
「『討ち果たせ』との宣言だったが、一体『邪まなる者』とは誰のことだろうか」
ファナルシーズは適当に香草を茶壷に入れて湯を注ぎながら、その疑問を投げかけた。
皇太子の手つきをはらはらしながら見守っていたイリアーナは、こちらも眉根を寄せて答える。
「それはわかりません。ですが、我が国全土にこのような雨を、長期間降り続けさせるだけの術者がいるのでしょうか」
「問題はそこだ。単純に『邪まなる者』というのなら、魔力保持者達が最有力だが、今の彼らにそれだけの力の持ち主が、もしくは結束力があるとは思えない」
歴史上、神力保持者と魔力保持者は何度も衝突した過去を持つ。最たるものは四千年前の『人の神魔大戦』だが、魔力保持者はその性情から只人にも忌み嫌われることが多く、近年では大きな結束をできないでいる。
「見様見真似だが」
ファナルシーズは苦笑しながら、自分が淹れた茶を茶器に注いだ。
イリアーナは組んでいた手を解いた。差し出された茶器からは、爽やかな香りが立ち上っている。ささくれ立った神経を和らげるような香りだった。
「いい香りです……何を使われたのですか?」
「侍従が補充していくものを適当に淹れているだけだ。口に合えばいいが」
「畏れ多いことです」
一口含んでみると、香りを裏切らないさっぱりとした口当たりだった。煮出しすぎた茶特有の苦味もない。飲み下した後も、爽やかさが喉を通り抜けていくようだった。
「おいしい」
思わず漏れたイリアーナの率直な感想に、ファナルシーズは声を立てて笑った。
「それはよかった」
もともと人外の秀麗な美貌を誇るファナルシーズである。その笑顔に、イリアーナは知らず赤面した。
多くの女性が目の色を変えるのも無理はないと思った。
「あ、あの」
「うん?」
黙っているのも気まずいし非礼ではと思うが、気の利いた会話術などイリアーナは身につけていない。
(ああ、こんなことなら作法の勉強をもっとしておけばよかった)
楽しい会話を提供して貴人を楽しませるのも、作法の一つである。
「どうされた、イリアーナ嬢?」
重ねて問われてはますます何を話せばいいのかわからなくなるではないか!
苦し紛れに、イリアーナはまず茶の礼を言った。
「お茶を……ありがとうございます。わたくしのような者にまで、気を使っていただいて」
「いや……単に自分が飲みたかっただけだ。付き合わせた」
それから会話は途切れ、イリアーナにとっては重い静寂が訪れた。思えば彼女は、家族以外の男性と二人きりになったことなど、終ぞない。緊張するのも無理はなかった。
ファナルシーズもファナルシーズで、今まで未婚で妙齢の女性とまともに関わりあったことなどないに等しい(妹やあのオルティーヌは除いて)ので、何を話すべきかわからなかった。
結局、茶を飲み終わった後、雨に関して新しくわかったことがあれば連絡する、と言い交わして、イリアーナが逃げるように辞去するのを、ファナルシーズは見送るしかなかったのである。
「へたれ!!」
イリアーナが帰った後、事の次第を聞き出したジェレストールとオルティーヌが声を合わせた第一声がこれであった。
「そこで昼食会にでも誘うとか!」
「次の夜会の同伴を頼むとか! すれば良かったでしょうに、この朴念仁!!」
「お前等は一体何を期待している」
怒涛の勢いで責められたファナルシーズがむっとして言うと、二人は更に揃って答えた。
「イリアーナ嬢が皇太子妃になるという未来です」
ファナルシーズはむせた。
「ば……」
並べてあった絹の手拭いで口元を拭うと、皇太子は二人の幼馴染を怒鳴りつけた。
「馬鹿か、お前等は! 彼女は巫女だぞ、そんなことを期待するな!」
「まだ巫女じゃありませんし」
「伯爵家からの輿入れは前例がないだけで禁じられているわけじゃないですし」
「殿下だって満更じゃないくせに」
ああ言えばこう言う。結束したジェレストールとオルティーヌ相手に口で勝つなど夢のまた夢なので、ファナルシーズは言いたいだけ言わせようと諦めた。
「だって殿下の妃になったら、フィオナ様と自由に会えなくなりますもの。それでなくてもこんな顔だけの朴念仁、どなたにでも熨斗つけて差し上げますのに、あろうことか身分が皇太子。下手な方と添われたら、こっちに被害が及びますわ。その点、イリアーナ様は才色兼備の才媛で、国への忠誠に厚く民へも慈悲深い方。皇太子妃としてこれ以上ふさわしい方は、少なくともわたくし達の世代では見当たりませんわね」
「全く全く」
言いたい放題の二人である。
オルティーヌが心底困ったという表情で溜め息をついた。
「何てことでしょう、想定外でしたわ。殿下がここまで決められない男だったなんて。もうウォルセイド様には話を通してきましたのに」
「何!?」
冷静に考えれば、まだ伯爵家を継いでいないウォルセイド相手に話などつけても仕方がないとわかる。しかしファナルシーズは動揺した。自分でも動揺しているのがわかった。なんて言い訳しよう。
(いやいや待て待て。落ち着け。何か順番が違うだろう!)
そもそも前提条件が激しく間違っているのだ。そう指摘しようとしたファナルシーズだが、それは闖入者によって遮られた。
「オルティーヌ嬢! さっきの話は一体なんだったんですか!」
噂をすればなんとやら。
身分によって立ち入りが厳しく制限されている一の郭。その秩序の番人・典礼官や侍従達を振り切って駆け込んできたのは、件のウォルセイドだった。
「何って、何でしてよ?」
「とぼけないで下さい、妹を皇王家に差し出せって一体何の――って、まさか!」
ウォルセイドは、不敬にもファナルシーズを指差しながら叫んだ。
「差し出せって、まさか、殿下に!?」
「他に誰がいると仰るの?」
「却下です!」
フィオルシェーナの姻戚になりたくない一心で、ウォルセイドはオルティーヌの提案を拒否した。
「何勝手に人の妹を皇太子妃に仕立て上げようとしてんですか! 皇王陛下に言いつけますよ」
ウォルセイドの苦情を、オルティーヌは高らかに笑って一蹴した。
「どうぞご自由に。ようやく殿下が妃を娶る気になったかと喜ばれるはずですわ」
自分の与り知らぬところで、勝手に話が進められている。ようやく悟ったファナルシーズは、戦慄した。恐るべしオルティーヌ=エレノア・アンテローゼ・マルス・ファヴァイナ、なんという手際の良いことか。既にジェレストールを味方に引き込んでいるのだ。この分では確実に母皇妃も賛同者になっている。父皇王まで話が行くのは、何としても阻止しなければ。
(……彼女は、静かで平穏な暮らしこそを望んでいるのだから)
自分に無理やりに添わせられ、後嗣を産み国母となる未来など、望んではいないのだから。
しかしその後、彼等の元に、イリアーナが再び、今度は予兆なく昏倒したという知らせが入ったのは、それからまもなくのことだった。