神託
話を聞き終わった皇王は、苦い表情で腕を組んだ。
「神の怒り、か……」
俄かには信じがたいのだろう。皇族は直接、皇祖たる時空神と対話できるという。しかし怒りとなると、思い当たる節がないらしい。
しかしそれは真実かと問い返さない辺り、巫女の性質に関して理解があるといえる。
「しかも原因がわからぬとは」
「申し訳ございません……」
頭を下げたイリアーナだが、皇王はそれをやめさせた。
「いや、令嬢が悪いわけではなかろう。余に何らかの落ち度があったか……」
隣でヴィライオルド公爵が大きな咳をした。だが皇王は従弟を気遣うことなく言葉を続ける。
「……それとも、他の要因か。いずれにせよ、このまま事態を捨て置くわけにもいかん。それはわかっているな」
「御意」
おそらく今、この「春中旬になっても霙混じりの冷たい雨が降り続ける」という異常事態を最も正確に理解しているのは、この場ではイリアーナである。そのような質問をされる意図がわからず、イリアーナは不審に思いながらも頷いた。
その予感は当たった。
「令嬢、済まぬが事態に何らかの決着が付くまで、城に留まってはくれぬか。大神殿が沈黙を貫いている以上、巫覡の才の高い者にいてもらえれば助かるのだが」
言葉は懇願の形である。しかし皇王の口からそれが出たとなれば、それは王命だ。
正式に神殿の籍に入っているわけではないイリアーナは、今の時点では皇王の臣下の一人である。王命を拒むことなど、許されようはずがなかった。
「――わたくしのような者でよろしいのでしたら、存分にお使いくださいませ」
それ以外の答えが、許されるはずがなかった。
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イリアーナが「彼女」に出会ったのは、皇城に滞在し始めてから二日目の昼だ。
表向き皇妃の元で行儀見習いをする、ということで長期になるであろう皇城滞在の言い訳を繕い、皇妃付きの女官として、イリアーナはその日、皇妃の傍に控えていた。
もちろん、皇妃は事情を把握している。
「ごめんなさいね、わたくし達が解決すべきことなのに、こんな可愛らしいお嬢さんを巻き込んでしまって…………リダーにはわたくしからきつく言っておくから、許してちょうだいな」
冗談めかしてこんなことを言う皇妃に、イリアーナはひたすら恐縮した。
本来、こんな形で会うことはなかったはずの人なのだ。
皇王家の分家の一つ、ヴィランド公爵家から嫁いだ皇妃ユーライア=セラフィナは、言うまでもなく現在のこの国の女性の最高位である。そのような人が非公式にとはいえたかだか一等伯の娘に謝罪するという珍事に、イリアーナは一瞬呆然とした。
「お気になさらないでください、皇妃様! わたくしとて臣下の一人、国の為、皇王家の御為に働くのは当然の道理でございます」
「ま……エアハルトも良い娘を育てたこと」
イリアーナの人格形成に、人生のほとんどを皇都で現皇王の側近として過ごしていたセライネ伯爵エアハルトは、あまり関与していない。
それはさておき、イリアーナが皇城に滞在し始めても、事態を打開するための目処は全く立たなかった。
「まだ二日目ですもの。仕方がないわ」
そう自分に言い聞かせて、皇妃の給仕をしながらちらちらと窓から見える雨を気にしていたときである。
皇妃に訪問者があると、女官の一人が告げに来た。
「どなた?」
「ファヴァイナ二等侯爵令嬢、オルティーヌ様でございます」
皇妃は特に文句を言うことなく、謁見を許した。
そう間をおかず部屋に入ってきたのは、朱金の髪が鮮やかな年若い少女だった。
「妃陛下には、ご機嫌麗しく」
貴人への正式な礼をとったその姿は、まさしく大輪の薔薇と形容するにふさわしかった。
「久しぶりね、オルティーヌ。変わりはなくて?」
なるほど、この女性が件のファヴァイナ侯爵令嬢オルティーヌかとイリアーナは感心した。
ファヴァイナ侯爵領は国境沿いにある。それなのに爵位が辺境侯ではなく二等侯であるのは、その地が国防の要の一つだからだ。
オルティーヌは現ファヴァイナ侯爵アーヴィヌスの一人娘である。当然、侯爵家の跡取りなのだが、父侯爵は家名よりも栄誉が欲しいらしく、娘を皇太子の后にと何度も打診していることは、世事に疎いイリアーナでも知っているくらい有名だった。
「特に変わりなどございませんわ。父が相変わらず皇太子妃になれと煩いくらいです」
この国では、手続きこそ複雑ではあるが、他家に嫁いだ娘が実家の爵位を相続することも可能だ。オルティーヌが皇太子妃となってもファヴァイナ侯爵の名を継ぐことに障害はない。後は本人のやる気次第である。
「ファースの后になってはくれないのかしら」
「いくら妃陛下の仰せでも、お断りいたしますわ、あんな朴念仁。大体、あの顔の隣で妻など勤める気がまるで起こりません。他を当たっていただきたく存じますわ」
これまた珍しい意見である。確かにファナルシーズの顔は、そこらの女性では太刀打ちできない美しさではあるが、それを理由に結婚を嫌がる女性は少なかろう。他に好条件があるのだから――財力とか、身分とか、未来の皇妃の座が転がり込んでくるとか。
皇妃はオルティーヌの言動にまるで動じず、それなら仕方ないわねぇと笑っている。
「妃陛下、そちらの方は始めてお見掛けいたしますわね。どなたですの?」
華やかな美貌に華やかな衣装を纏った勝気な令嬢に見つめられ、イリアーナは後ずさりたいのを我慢した。質素で慎ましやかな神殿暮らしが長い身としては、居心地が悪くて仕方がない。
「セライネ一等伯のご令嬢、イリアーナ殿ですよ。事情があって、女官として仕えてもらっているのです」
まさか伯爵家の娘を侍女にするわけにもいかないと、協議した結果が女官だった。
オルティーヌの透き通った榛色の瞳が煌めいた。
「セライネ伯爵にご息女がいらしたとは存じ上げませんでしたわ」
「そうよねぇ。神殿に隠していたのよ、水臭いでしょう。ちょうどいいわ、イリアーナ。こちら、ファヴァイナ二等侯のご令嬢、オルティーヌ殿ですよ。年も近いことですし、良い友人となれるでしょう」
「恐れ多いことでございます」
イリアーナは頭を下げ――ようとしたが、白魚の繊手がそれを遮った。思わず目線を上げると、嫌にきらきらと瞳を輝かせるオルティーヌの顔が間近に迫っていた。
「あの……お顔が近いのでは」
ありませんか、とイリアーナが皆まで言う前に、オルティーヌはものすごいことを言ってのけた。
「ねぇ、イリアーナ様。殿下の花嫁になってみたいとは思われません?」
……イリアーナは何を言われたのか、理解することを頭が拒否するのを感じた。
(なんて……恐れ多い冗談を仰る方なのかしら)
怖い者知らず。
それが、イリアーナの、オルティーヌへの第一印象だった。
皇妃立会いの元で面識を得てから、オルティーヌは毎日イリアーナに会いに来るようになった。
「イリアーナ様、ご決心はつかれまして?」
会うたびにこれを聞いてくるのが、頭が痛い。
「オルティーヌ様。何度訊かれても答えは同じです。わたくしは巫女になるのです。皇太子妃位など、望んではおりません」
「わたくしを助けると思って、引き受けて下さらないかしら?」
「申し訳ないのですが、家格も殿下の御子を身籠るための『器』も足りておりません。他の方にお願いなさいませ」
「他の方では駄目ですわ」
不意に、オルティーヌが真面目な顔になった。
「皆、殿下の身の代に目が眩んでいるだけです。かような者に、皇妃としてこの国の盾となる覚悟など望めませんわ」
「それをわかっておいでなら、なおさら貴女様が皇太子妃になればよろしいのでは」
イリアーナがそう言うと、オルティーヌはつんとそっぽを向いた。
「わたくし、顔がよすぎる男と朴念仁は守備範囲外でしてよ。…………それに『器』が足りないなどと仰せでしたけれど、異能を二つもお持ちな上に、将来の大巫女とまで囁かれているとか。そこまで高い巫覡の才なら、殿下に御子を差し上げるのに、何の障害もないはずです」
「ですから。わたくしは持って生まれたものを、最大に生かせるようにと巫女になりたいのです」
堂々巡りである。
オルティーヌがあまりにしつこいので、イリアーナは辟易していた。
それでも、この事態が解決すれば晴れて自分はお役御免だ。神殿に入って巫女となり、馬こそいないものの好きなことに没頭できる薔薇色の人生が待っている。
(長い人生の間の、ほんの少しの辛抱よ)
そう思い、今日もイリアーナは女官として皇妃の傍に控えている。
目の前では主だった皇族達を集めての非公式の会議が、皇王執務室で行われていた。
「しかし神の怒りとしても、その原因によって怒りを解かせるための供物の種類も変わってきますからな」
物憂げに言ったヴィランド公爵は、皇妃の実兄である。皇王よりも少しばかり年上であるこの人は、皇王とその従弟ヴィライオルド公爵に冷や水を浴びせる役回りが多かった。
「そもそもどの神が怒っているのかもわからないのです。手の打ちようがない」
「無視しておいて、痺れを切らすのを待つのを一つの手かもしれんな」
「陛下」
二人の公爵は大きな溜め息をついた。
皇王は気の長い方ではない。謎掛けのようなことをしてくる神相手に、いい加減彼の堪忍袋の緒は切れ掛かっていた。
「連中にとっては暇潰しの遊びかもしれんが、こちらにとっては死活問題だ。そう悠長なことも言ってはおられんだろう」
「それは……そうですが。しかし」
「ヴィルフォール公。言い分があるなら聞こう」
例に漏れず、見事な金髪の、ヴィランド公爵と同年代に見える公爵は、こちらもやはりこめかみを押さえていた。
「……いえ、そうではございません。ただ、迂闊な言動でさらに事態の悪化を招くようなことは避けるべきかと」
自覚のあるらしい皇王は、肩を竦めて答えた。
「常に慎重派の公らしい。だが気をつけよう」
「貴方はすぐに顔に出るものねぇ」
皇妃の茶々入れは余計だった。皇王は憮然とした表情で妻を見るが、皇妃はにっこりと笑ってその視線を受け止める。余談だがこの夫婦、皇妃の方が一歳年上だ。
「夫婦喧嘩はよそでやって下さい、お二人とも」
冷たい声で皇王と皇妃を両断した皇太子は、不毛な会議の終了を告げた。
会議が終わった午後、イリアーナは皇太子に茶の席に誘われた。
「イリアーナ嬢、済まない。貴女には迷惑ばかりかけている」
潔く下げられた頭に、イリアーナの方が恐縮してしまう。
「お顔をお上げ下さい、殿下。わたくしは皇国の臣下として、国のため、民のため当然のことをしているまでです」
しかしこの言葉の何が気に入らなかったのか、ファナルシーズは何やらしかめっ面でぶつぶつ言っていた。耳を澄ますと、「臣下として……か」とか「心がけは立派だが……」とか聞こえてくる。
「殿下?」
訝しく思ったイリアーナが問いかけると、ファナルシーズは大袈裟に手を振った。
「ああ、いや! その通りだ、イリアーナ嬢。気にしないでくれ」
「と、言われてましても。気になるものは気になりますよねぇ、イリアーナ嬢?」
にやにやと怪しい笑顔で言うのはジェレストールだ。
「はあ……」
全く空気の読めていないイリアーナである。
そのとき、大きな音を立てて部屋の扉が開かれた。驚いた三人がそちらを見ると、そこにいたのは――
「オルティーヌ様……どうされましたの、そんなに息を切らして」
「絶好の好機が訪れていると小耳に挟みまして、フィオルシェーナ様の発明品『神動追跡装置・発犬!』を作動させてここを突き止めましたの。さあ、イリアーナ様、現場を押さえましてよ! わたくしに目をつけられたのが運の尽き。大人しく殿下のお后となって下さいませ!」
ふふふふふ、と不穏すぎる笑い声を響かせるオルティーヌは、とてもではないが良家の令嬢には見えない。
「運の尽きって…………皇太子妃になるのが、まるで人生の墓場に行くように思えてきますわ」
「同じことでしてよ」
散々な言われ様である。
いきなり自身の結婚話を持ち出されたファナルシーズはぎょっとしていたが、少女達はそんなことには構っていない。ちなみにジェレストールは、例によって声を抑えて爆笑中だ。
「冗談も程々にして下さい、オルティーヌ様」
「まあ、殿下だって満更ではないはずですわ。そこで笑い転げているアホから聞き出しましたのよ、殿下は貴女に拒否反応を示されなかったと」
「拒否反応?」
「オルティーヌ嬢!」
ファナルシーズの焦りを含んだ声が会話に割り込んだ。
「余計なことは言わなくていい!」
「意気地なし」
ぼそっと呟かれたジェレストールの呟きを、イリアーナは聞いていなかった。
そのとき、イリアーナの聴覚は違う音を捉えていたからだ。
「この音……」
「イリアーナ様?」
オルティーヌがまず異変に気付き、声をかけるが、イリアーナは応えなかった。
リィィーン……リィーン……
「また、この音……」
遠くで鈴が振られているような音だった。立ち上がり、外へ――窓へ近づく。しかし窓が音を小なりとも遮っていることに気付き、イリアーナは窓を開け放った。
途端、冷たい雨が吹き込んでくる。
「イリアーナ様!? どうされましたの!」
「イリアーナ嬢!」
制止の声も、今のイリアーナの耳には届かない。
りぃん、という鈴の音が、どんどん大きくなっていく。
イリアーナはその音に誘われるように足を踏み出した。
微妙に金がかった茶の髪が、着ていたドレスが、あっという間にびしょ濡れになる。
「イリアーナ嬢!」
一際高く、ファナルシーズは叫んで、雨の中に出て行く華奢な背中に向かって手を伸ばした。
そのときである。
雨に濡れたイリアーナの髪が、毛先からさっと陽光のような金色に変わっていった。
ファナルシーズも、ジェレストールも、オルティーヌも絶句した。
本物の黄金とて及ばぬ輝きを放つ、陽光の如き金色。
その、意味するところは――
「イリアーナ!」
敬称をつけずにイリアーナの名を叫んだことに、ファナルシーズは気付かなかった。
イリアーナは、ゆっくりと、ファナルシーズ達に向かって振り向いた。
「イリ……アーナ様…………!」
オルティーヌはそう言ったきり、一言も発しなくなった。
若草色だったイリアーナの瞳は、太陽のように燦々と黄金の輝きを放っていた。
漆黒と――純金という色彩は、神々のもの。その色彩を纏う彼女が、今、何をしているのか、その場の全員が沈黙のうちに悟った。
――神降ろし。
ファナルシーズは血の気が引いていくのを感じた。
イリアーナは巫女として将来を嘱望されているとはいえ、その器は全き人間。神を降ろして、その肉体が耐え切れるのか。
(やめろ!)
ファナルシーズの思いは届かなかった。
イリアーナの口が、開く。
『この雨は、我等が意に沿わぬものである』
複数の声が重なって響く。
神々がイリアーナの口を通して、神託を下しているのだ。
『この雨は、我等が意に非ず。我等を騙って邪まなるものが降らしたる、暁を打ち消す嘆きの雨。この祝福の地へ再び陽の光を注ぐため、彼奴等を討ち果たせ』
その言葉に、聞いていた三人は目を見張った。
「神々の意思ではない、と……?」
『然り』
イリアーナの体を借りた「彼等」は頷いた。
『光を運ぶ者よ』
突然、名指しにされたファナルシーズは知らず背筋を伸ばした。
『そなたは真を見抜く目を持っている。真を聞き分ける耳を持っている。ゆえにこそ』
イリアーナの口から語られた、神々の細波のような予言めいたその言葉を、ファナルシーズは生涯忘れることはないだろう。
『そなたは絶望と、絶望を超えた暁を知るだろう――……』
神託の余韻が消えぬうちに、イリアーナの髪と目から、黄金の光が失われ、細い体が崩れ落ちた。