降り止まぬ雨
三ヶ月に渡って続いた冬は、降る雪の量が段々と減ることでその終わりが近いことを人々に感じさせていた。
例年であれば皇都リーヴェルレーヴには、『竜の牙』から降りてくる風『竜の吐息』が吹き始める時期だ。付けられた名の通り暖かなその風は、地上に溜まった寒気と空に居座る雪雲を押し流して春を連れてくる。
しかし奇妙なことに、この年は、その風が吹き始めるのが遅かった。一週間かそこらの話ではない。かれこれ一月、季節が遅れているのである。
皇都には、春を告げる風の代わりに、冷たい雨が降り続いていた。
ほんの数日前にわかったことだが、この雨は皇都だけではなく、ヴィーフィルド中に降っているらしい。ヴィーフィルド南部・ヴィシュアール公爵領から報告が上がり、初めてその実態が明らかになったのだ。
「何とも憂鬱な雨ですな。これでは遠乗りにも出られぬ」
「もう半月も降り続いておりますわ……」
「いずれかの神がお怒りなのでは」
「まさか、今上陛下に限ってお怒りを買うようなことなど」
登城した(暇な)貴族達は、窓から外を眺めては、降り止まない雨を嘆いている。
貴族達の娯楽はともかくとして、このまま雨が続くようであれば、春の種まきが行えない。河川の氾濫が報告された地域もあり、皇都に近いレテ河の堤防も危ういところまで来ていた。それどころか、各地で獣が極端に凶暴化したり、また逆に姿を消す、植物が枯れかけているなどの現象が起こり始めたという。
事態を重く見た皇王は、大神殿に雨神か太陽神の神託を降ろすよう勅命を下した。
ヴィーフィルド皇紀3996年、四の月のことである。
イリアーナはセライネ伯爵領レステアで冬を越した。
今、彼女は忙しい。正式に誓約を立てて神殿に入り、巫女となるまで二月を切っている。もともと神殿暮らしが長かったから、伯爵邸の私物を処分して領民や親しくしていた人達に挨拶をすれば終わりなのだが、いざとなればどうにも名残惜しい。
(駄目ね……)
神職に就く身で俗世に未練を残すことは、神殿での勤めを妨げる。心を静めて、清らかであれ――そう言われて、ずっと育ってきた。
巫女になることは、強制されたことではない。イリアーナが自分で決めたことだ。
今更、心を惑わすものなどなかったはずなのに。
(御馬様と皇太子殿下の組み合わせは、本当に絵になるように素晴らしかった)
脳裏に浮かぶその姿は、あくまで馬が主役である。年頃の少女としては、少々どころではない残念さだが、本人は至って真面目だ。
「それにしても嫌な雨」
降り続ける冷たい雨を眺めながら、イリアーナは憂鬱さを打ち消せなかった。神殿に入れば遠乗りなどできないから、今のうちに楽しんでおこうと思っていたのに台無しだ。
しかしそれ以上に気になるのが、この雨の中に混じって感じる、『怒り』だった。いや、『憤り』とした方が正しいかもしれない。
いずれかの神の意向で降っていることは間違いない。しかしその目的がわからない。
占じてみようかとも思ったのだが、大神殿の大巫女がやっているだろうと考え、僭越なことと差し控えている。しかし皇都の大神殿は忙しいようで、つい先日にも皇王から神託降臨の勅命を受けたと聞く。
イリアーナは窓辺から離れ、手元の刺繍を再開した。母はこの手の教養にうるさい。神殿に行けば、求められるのは刺繍の腕よりも織物を織る腕だというのに。
母の心が嬉しくないわけではないが、貴族の夫人として生きるよりも、神殿で神に祈り、人々の役に立つような助言をしていく生活の方が、今の彼女には魅力的なことのように思える。少なくとも、舞踏会や綺麗なドレスにさほど興味を持てない現状では。
どうにも集中できず、イリアーナは刺繍を途中で止めた。侍女はいなかった。神殿暮らしが長い彼女は、自分でできることは全て自分で行うよう習慣が身についてしまっていた。伯爵夫人はこの点を大いに嘆いていたが、イリアーナの知ったことではない。
そんなことよりもイリアーナが心配なのは、この雨に打たれた生き物のことだ。神の怒りを多分に含んだ雨だから、濡れれば体調に大いに支障をきたすだろう。
傘をさして見回ってみようか。そう思って、再び窓の外を見たときである。
遠くに、黄金に輝く光の柱が伸びているのが見えた。
「!?」
イリアーナは立ち上がり、窓辺に駆け寄った。
あれは皇都の方角だ。実際に光の柱が立っているのではない。巫覡の才や異能者のみが見ることのできるモノだ。
誰かが――何かが、巫覡の才を持つ者を呼んでいる。それは取りも直さず、皇族達だけでは事態を解決できないことを示している。
イリアーナは自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
一体、神の後裔達が守るこの国に、何が起こっているのだろうか。
「行かなければ…………」
呼ばれたのなら、行かなければならない。
イリアーナは、馬車を用意させるよう、侍女を呼び出して言いつけた。
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二度目の再会も唐突だった。
イリアーナは、皇都に到着してすぐに父伯爵を通して皇王に謁見を願い出た。セライネ伯爵は最初は渋っていたものの、娘のただならぬ様子に何かを感じたのだろう。すぐに娘を連れて登城した。
「ここで待っていなさい」
そう言って一等伯爵家用の待合室に娘を残し、伯爵は謁見の手続きに向かった。
部屋には他に人もなく、イリアーナはぽつんと広く豪奢な空間の中で一人、出された茶と菓子に手を付けることもなく椅子に座っていた。
胸の動悸がうるさい。
皇都はすっぽりと光の柱に入っていた。だからこの地だけ雨に混じる怒りが感じられない。光の柱は結界のような役目を果たしているのだった。
しかも、徐々にではあるが時と共に威力が弱まっていることが感じられる。
それがますます、嫌な予感しか感じさせない。
締め切られた窓の外からは薔薇園が見えるが、一年中咲くはずの四季薔薇草の花は一つ残らず地面に落ち、他の薔薇も春だというのに葉がしおれている。
イリアーナは窓を開けて露台に出た。ここはまだ屋根がついているので、雨に濡れる心配はない。
一気に冷気が体にまとわりつく。
持参していた正装用の掛け衣をきつく体に巻きつけて、イリアーナは手のひらに雨を受けた。
氷のように冷たく、しかし炎のような怒りを秘めた雨。その中に違和感を感じて、イリアーナは眉を寄せた。
(これは……)
神気に満ちた結界を通った雨。神の意思で降っているはずの雨なのに、神気が感じられなかった。
(どうして)
厚く空を覆う雲を見上げても、答えはない。そうと知っていて、イリアーナは問わずにはいられなかった。
「一体……何を、お望みなのです!?」
何に怒っているのだろう。何が神の逆鱗に触ったのか。
当代皇王に瑕疵があるとは思えない。ここ数年で執り行われなかった祭祀もない。だというのに、神々は何かに対して怒っている。
何か――何に?
感情を込めた雨を降り続けさせてまで、怒りを如実に伝えているというのに、何に対して怒っているのかを示さない。
これは――このままではこの国が、この大地が死に絶えてしまうではないか!
嘆きの雨が、イリアーナの頬を伝った。
今、彼女は自分がいる場所がどこであるのかを、忘れていた。
「陛下に何の落ち度がおありと仰るのです。皇族の皆様はきちんと義務を果たしておられましょう。貴族達は皆揃って国に尽くし、民も慎み深く暮らしております。これ以上に何をお望みなのです!」
露台の欄干がまるで神殿の祀壇であるかのように、イリアーナはそこに縋りついた。
痛いほどの怒りに満ちた雨が、向きを変えて露台に降り込み、彼女の華奢な体を打った。
イリアーナは部屋に戻らなかった。
この身に怒りをぶつけて収まるというのなら、いくらでも受けようと、心の中で呟いた。
どれほど冷たい雨に打たれていただろうか。
「イリアーナ嬢!」
大きな温かい手に揺さぶられて、イリアーナは沈んでいた意識が浮き上がってくるのを感じた。
「イリアーナ嬢、目を覚ませ! 風邪を引くぞ!」
誰だろうか。社交界に顔を出さない自分を知っているのは、家族と、領地が近いオルソール子爵家の人々くらいしか――……
「イリアーナ嬢!」
いつの間に、夜明けが来たかと思った。
その夜明けの紫が、人の双眸だと認識すると、今度はその人の絵にも描けぬ美貌を認識し、さらに夜闇より深い漆黒の髪が視界に入る。
そこで完全に覚醒した。
「でん……か?」
イリアーナの舌足らずな問いかけに、彼女を抱えて揺さぶっていたファナルシーズは息をついた。
この部屋と反対側の回廊から金茶の髪を見つけたときは、何故だか心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
「何をしておられた、イリアーナ嬢。一体どれほどここにいた? 体が冷え切っている。具合が悪いのに登城などしてはいけない。邸でよく休まねば」
「ち、違います!」
慌てて起き上がろうとするが、冷え切った体の関節は思うように動かせなかった。
それを見て取ったファナルシーズは、自分の上着を脱いで彼女の肩に掛けた。
「申し訳ありません……ありがとうございます」
「気にしなくて良い。それより何故、貴女が皇都に? 領地で誓約前の潔斎の準備をしていると聞いていたが」
「皇都に加護を下されておられます神の呼びかけを受けて、参上いたしました。この雨に関して、近く、何かしら重要な神託が降されるものと思われますが……」
そこまでを一気に言ったイリアーナは、ファナルシーズの困惑した表情を見てしまったと思った。
ファナルシーズには、巫覡の才はないのだ。
「雨について、と言ったな」
やってしまったと冷や汗をかいているイリアーナに、確認するようにファナルシーズは言った。イリアーナは無言で頭を下げることで、肯定を示す。
「やはりこの雨は、尋常のものではなかったか」
「お気づきで……?」
「いや」
ファナルシーズは温風を起こしてイリアーナを乾かすと、淹れ直させたのだろう、湯気の立っている蜜茶を飲むよう勧めた。
「私には巫覡の才はないが、この季節にこんな雨が降ったという記憶も、記録もない。……笑ってしまうな、神の末裔を名乗っていても、こういうときは只の人間と変わらない」
「そのような……」
イリアーナは項垂れた。
「……ご自分をそのように仰るのは、たとえ戯れでもお止め下さい、殿下。御身にとっては戯言でも、臣下にとっては主君のお言葉です」
「そこまでありがたがられるような発言はしていないつもりだが」
不興を買ったらしい。そう思ったイリアーナは、身を竦ませながら頭を下げた。
「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました。お忘れ下さい」
……くっくっと、笑い声が降ってきた。
驚いたイリアーナが面を上げると、ファナルシーズは顔を背けて笑っていた。
「殿下…………?」
「済まない、イリアーナ嬢。貴女が冗談の通じない相手だと忘れていた」
一瞬、何を言われたのかわからなかったイリアーナだが、からかわれたのだということが徐々に頭に染み込んでくるにつれて、やり場のない羞恥と憤りが湧き上がるのを抑え切れなかった。頬が紅潮する。
「殿下!」
「済まない」
もう一度謝罪をしてから、ファナルシーズは、自分はほんのりと爽やかな香りが立ち上る香草茶に手を付けた。
「しかしどういう風の吹き回しだ? 貴女が次に皇都に来るのは巫女となってからではなかったのか」
「先程も申し上げました通り、何かがわたくしを呼んだのです。いいえ、わたくしだけではなく、国中の巫覡の才を持つ者や、異能者達を。皆、大神殿に集われているはずです」
本来なら自分もそうするべきなのだが、このことは皇王の耳に入れておいた方がよいと判断して、父の伝を使い皇王へ謁見を願い出たのだ。
しかしファナルシーズは予想に反して、さらに困惑の表情を浮かべた。
「皇都にそういう者達が集まっているという知らせはない。少なくとも私は聞いていないぞ? それほどの大移動となるなら、何かしら報告があるはずだ。大巫女も何も言っていなかったし、大神殿に人が増えた様子もない」
イリアーナが困惑する番だった。そんなはずはない。あれほど目立つ呼び出し方だ。『見え』るのに気付かぬ者がいないはずがない。
どこか別で宿泊しているのでは、と問い返そうとしたときである。
りぃん、と鈴を振る音が聞こえた。
皇太子の御前だというのに、イリアーナは思わず不躾に辺りを見回した。
「どうされた、イリアーナ嬢」
「申し訳ございません、鈴の音が……」
「鈴?」
再度耳を澄ませてみるが、外で雨の振る音が主張を激しくしただけだった。
(気のせい、かしら)
イリアーナはしこりを感じながらもそう自分を納得させる。本当に最近は奇妙なこと続きだ。
「気のせいだったようです」
そう皇太子に告げて、何気なく窓の外を見た、そのときである。
「父上!?」
皇太子の狼狽した声に釣られて、窓から反対の方向にある扉へと首を向けたイリアーナは、驚愕と共にその人を見た。
以前会ったときは、厩で、しかもずいぶん長いことこの人がいることに気付かなかった。気付いた後、大慌てで無礼を謝したが、鷹揚に笑って許していただいたことを覚えている。その時は親しみやすいお人柄だと思ったが、それは大変な勘違いだった。
目の前に立つ皇王は、玉座に座る者にふさわしい覇気に満ちた鋭い視線をイリアーナに向けた。
「この雨に関して、知らせたいことがあると聞いたが」
イリアーナは、皇王の背後に立つ父から、失礼の無いようにという合図を受け止めるのが精一杯だった。このときだけは、作法を叩き込んでくれた母に感謝した。
急いで椅子から立ち上がり、左手の掛け衣の端をコタルディと共に摘み、右手は心臓の上に置く。貴族女性の貴人への最高位の礼だ。
「仰せの通りでございます、皇王陛下」
「大神殿から何も連絡が来ていないのだ。何か知っていることがあるなら、残らず申せ」
イリアーナは二度目の驚愕をした。
「まさか、そんなはずは」
「心当たりが?」
「大巫女様が気付いておられないはずがございません。何か、手違いがあったのでは」
「控えよ、セライネ伯嬢」
皇王よりも尚鋭い視線と、氷でできた刃のような言葉を発したのは、皇王の後ろに控えた今一人――黒髪と青玉の瞳を持つ、皇王と同年代の男だった。
「勅命が下されてより七日。大神殿からは全く音沙汰がない。セライネ伯に聞いたが、令嬢は夏前には正式に巫女となるそうだな? ならばちょうど良い、神殿の態度についての釈明も聞かせてもらおう」
「ヴィライオルド公!」
皇太子の咎めるような声を聞いて、イリアーナはその人物が現ヴィライオルド公爵ルークセイドであることを確認した。
「イリアーナ嬢はこの半年を領地で過ごしている。最近の、それも大神殿の内部事情に詳しいはずがない!」
「そうだとしても、ここ数年の神殿側の態度は目に余ります。殿下、庇い立てなどなさる必要はございませんぞ」
「やめよ、ルークセイド」
皇王が手を降って公爵の言を遮った。
「そのようなことは今は重要ではない。問題はこの雨についてだ」
「は……」
ヴィライオルド公爵は引き下がったが、神殿と深い関わりのあるイリアーナが気に入らないのか、その眼光は緩まない。それを知ってか知らずか、手近な椅子に腰掛けた皇王は全員に座るよう促し、そのまま本題に入った。
「このままこのような雨が降り続くようなら、秋近くになれば民の多くが飢えよう。だというのに神殿は口を閉ざしたままだ。その中でその方は知らせたいことがあるという」
皇王は告げる緊迫した状況とは裏腹に、背もたれに寄りかかり優雅に足を組んだ。
しかしかえってイリアーナは、皇王の覇気に呑まれていた。
「申してみよ」
震えそうになる喉を叱咤して、イリアーナは静かに口を開いた。