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暁降ち  作者: 木之本 晶
本編
4/21

告げられた期限

 はあ、とイリアーナは、何度目になるかわからない溜め息をついた。

 傍から見れば恋する乙女だが、彼女の心を占めるのは、先日お忍びで行啓された麗しき皇太子殿下――ではなく、その愛馬である。

(あの勇姿が心から離れない……)

 血統の良さを感じさせる美しい顔立ち、大地を蹴る足は力強くありながら優美。毛並みは日の光を浴びて輝いていた。賛美の言葉(※対象はあくまで馬)は泉のように溢れ出て、止まることを知らない。

 あんな綺麗な馬のお世話ができるなら、皇城に馬丁として出仕したい! などと貴族の令嬢にあるまじき願いを持ってしまった。

(ああ、伯爵家なんかに生まれたこの身が恨めしい。私は馬丁の家に生まれたかった……!)

 普通は逆のことを夢見るものである。

「イリアーナ、貴女、神殿に戻らなくてよいの」

「お母様」

 イリアーナは、思い詰めた表情で母に訴えた。

「わたくし、巫女になる前に、どうしてもあのお姿をもう一度拝し奉りたいのです」

 目を潤ませて訴える娘に、伯爵夫人は誤解した。

「まあ、イリア……」

 伯爵夫人は娘を大層不憫に思っていた。幼くして神殿に連れて行かれ、人との関わりを最小限に断たれ、あまつさえ恋も知らぬうちに巫女になってしまうなど、母として不憫でならなかったのである。この点、伯爵夫人は娘を理解し切れていたとは言い難い。

「では皇都に行ってみましょうか。もしかしたらお父様も貴女の神殿入りを考え直して下さるかもしれないわ……。殿下までとはいかなくとも、きっとよいお話があるでしょう」

「いいえ、お母様。一目でいいのです。もう一度あのお姿を見ることができたら、わたくしはそれだけで生きていけますわ」

「イリアーナ……なんて健気な」

 母と娘の会話は、全く噛み合っていなかった。



 所変わって、皇城三の郭、近衛騎士団の宿舎である。

 皇太子のお忍びの顛末を聞いていた二人の青年は、爆笑した。

「そ、そんなことが……!」

「あり得るんですねぇ、殿下とジェスを前にして馬……!」

 言葉にできていない。

 聞き手だった三人の中で、柔らかな茶色の髪と目を持つ青年が、額に手を当てていたウォルセイドに話しかけた。

「変わっていないんだな、イリアは」

「現在進行形で変わっているとも。日に日に人間より馬の方に興味が傾いている。さっさと神殿で誓約を立てて巫女になってくれれば、こっちとしても気が楽なんだが」

 実兄の癖に何とも冷たい。

「ロハルシュ。お前、イリアーナ嬢と面識があるのか」

「はい、殿下。といっても、彼女が神殿に入るまでのことですが」

 ヴィーフィルド随一の剣の名門オルソール子爵家の後継ロハルシュは、一見してそうは見えない。柔らかな茶色の色合いがどうにも彼を優男に見せていた。既に一児の父親である。

 ウォルセイドはかなり迷惑そうな表情だった。さもあろう、ここは騎士団の宿舎内に割り当てられた彼の私室である。訓練から帰ってみたら、主と悪友達がたむろしていたのだから、やぐされたくもなるだろう。

「小さいときから馬……というか、動物が好きなご令嬢だったな」

「異能を発現させてからは馬一筋になったぞ。なぜかは知らないが」

「それだ、ウォル。伯爵から聞いたが、異能を二つも持っているそうだな」

 ファナルシーズの披露した情報に、おお、とどよめきが上がる。

 しかしウォルセイドは渋面になった。

「殿下、お願いですから妹に手を出すのだけはやめて下さいね。私はフィオルシェーナ様と姻戚になるのはごめんです」

 それを言ってはおしまいである。

 フィオルシェーナ云々はさておき、ウォルセイドがわざわざこう言ったのには訳がある。

 ヴィーフィルド皇王家は、時空神と、初代の闇女神の代行者「聖女」を始祖とする、世界唯一の神の子孫である。それゆえに桁外れな高い神力と人外の美貌を受け継ぎ、建国から四千年の月日が流れた今も絶大な求心力を保っている。しかし皇族には子孫を残すに当たって、一つの弊害があった。

 神の子孫であるがゆえに、普通の女性では彼等の子孫を産めないのだ。これには神力の釣り合いと神気の関係がある。もし力の足りない娘が皇族の子供を身籠れば、強力な神力に母体が耐え切れず、母子共に産み月を前にして死んでしまう。皇族の子を産むためには、ある程度の神力が必要なのである。

 三等侯爵位未満の家から皇妃が出たことがないのは、ヴィーフィルドの貴族階級は神力が爵位授与で大きな要素となるからだ。神力が高ければ高いほど、与えられる爵位は高くなる。

 この例外にあたるのが巫女である。巫女はそもそも神の花嫁という意味合いがあり、さすがに直系では例がないが、傍系の公爵家に高い巫覡の才を持つ巫女が嫁いだという記録は多い。

 ウォルセイドが危惧しているのは、この前例があるからだ。イリアーナは神殿では秀才の呼び声高く、次代の大巫女候補とも囁かれている。まして〈異能者〉だ。力の『受け皿』としての能力は、実家の爵位に見合わぬ高さなのである。

「心配しなくても大丈夫だ。神殿に入るのならもう会うこともないのだし」

 ファナルシーズは手を振って立ち上がった。そろそろ執務に戻らなければならない。

「私は戻る」

 そう言って扉に向かい手をかけようとしたとき、向こう側から控えめに叩かれた。

「カーラルス卿、いらっしゃいますか?」

 伝令役の従騎士だ。

「いるぞ、何だ」

「妹君と仰る方がお見えです」

 ウォルセイドはそうか、と返し、しかし次の瞬間

「何だと!?」

と聞き返した。

「噂をすれば影」

 濃灰色の髪と深青の瞳を持つ青年がぼそっと呟いた。

「黙れジークフリート! 何であの子が皇都に来るんだ、聞いていないぞ」

 うろたえて部屋の中をうろうろとし始めたウォルセイドである。

「とりあえず迎えに行ってやったらどうだ」

 外で待ちっ放しの従騎士を気の毒に思ったのか、ロハルシュが促すと、思い出したようにウォルセイドは「行ってくる」と言い置いて部屋を出た。

 ……が、その足音はすぐに止まった。

「イリアーナ!? おま……! 何でここに!?」

 部屋の前まで押しかけていたらしい。会話は部屋の中に筒抜けだった。

「もしや、殿下かジェスに惚れて追いかけてきたとか?」

 ロハルシュが声を潜めてありそうなことを言ってみたが、当のファナルシーズとジェレストールは顔を見合わせた。あの令嬢に限っては、ありえなさそうだったからだ。

「どうして皇都に……」

 それきり絶句したウォルセイドに、イリアーナは頬を染めて言った。

「殿下の御馬にもう一度お会いしたくて、来てしまいました」

 いや待てものすごく気になる一語が入っていたような、と壁越しに聞いていた誰もが思った。

 すでに従騎士の青年は退散している。家族とはいえ近衛騎士団の宿舎にまで押しかけてくるなど、よほどのことがあったのだと気を回したのだ。

「御馬……」

「変わってないなぁ、イリアは」

 何と言ってよいものかと頭を抱えたジークフリートと、苦笑したロハルシュである。

「申し訳ないのですがお兄様、厩舎まで案内して下さいませ」

 もちろん近衛騎士団のそれではなく、一の郭にある皇室の馬専用のもののことを指している。

 ウォルセイドはげんなりと肩を落とした。

「イリアーナ。……そんなことのために皇都まで来たのか」

「まあひどい。わたくしがあの立派なお姿を夢にまで見て眠れなかったことを、お兄様はご存知ないのですね」

「知るかそんなこと。いいか、話はしてやるが許可が取れるかまでは責任を持たないぞ」

「そこまでお兄様に期待しておりません」

 よくわからない兄妹である。

 目的語が省かれてしまえばファナルシーズのことを言っているようにしか聞こえないので、聞くともなしに聞いてしまったファナルシーズは何となく居心地が悪かった。目の前でジェレストール、ジークフリート、ロハルシュの三人が必死で声を押し殺しながら笑っていることも大きい。

 ファナルシーズは順次、彼等を軽く蹴ると、部屋を出て言い争う兄妹の間に入った。

「そういうことなら私が直接案内しよう、イリアーナ嬢」

 まさか皇太子がここにいるとは思わなかったイリアーナは、目を丸くし慌てて皇太子に礼を取った。

「おいでとは存じませず、失礼いたしました」

「いや、ここではいい。それより私の馬を見たいのだろう? 馬丁には私から言った方が早い」

 礼を止めて、ファナルシーズは目でいいなとウォルセイドに問うた。

 思いがけない流れにどう対処していいものやらわからず固まっていたウォルセイドは、主の問いに習性で頷いてしまい、あっと訂正した。

「私も参ります! さすがに妹を初めて来る場所に放り出すわけにはいきません」

「帰り道ならわかります」

「黙っていなさい、そういう問題じゃない」

 年頃の娘が独身の皇太子と連れ立って歩けば、その影響は推して図るべしだ。少なくとも明日からセライネ伯爵家に数々の嫌がらせが開始されることだけは間違いない。たとえ目的が馬でもだ。

 結局ウォルセイドの部屋にいた青年達は残されたまま、ファナルシーズ、ウォルセイド、イリアーナは一の郭へと向かった。

「さすがに皇都も寒くなってきましたね」

「レステアではもう初雪が降りましたもの。雪の姫シャイルリア様が忙しそうに通り過ぎていかれましたわ。あのご様子では皇都に雪が降るのはすぐでしょう」

 吐く息はすでに白く煙っている。初冬というにはもう遅い季節だ。セライネ伯領へ訪れたのが秋の終わりだった。そう時間は経っていないのに、もうずっと昔のことに思える。

「夏になる前に、正式に誓約を立てることが決まりました」

 イリアーナが言ったのは唐突だった。ウォルセイドも初めて聞くようで、驚いていた。

「……そうか」

「まだ自由なうちに、皇都に来られて良かったです」

 ファナルシーズは内心の動揺を押し隠してイリアーナに微笑みかけた。

「皇都は気に入られたか」

「一度は来る価値のある場所だとは思います。華やかで、賑やかで。けれどわたくしはほとんど神殿で育った身です。賑やか過ぎる場所では落ち着けません」

「一の郭はそううるさくはない」

「それをお聞きして安心しましたわ」

 ファナルシーズは一種の緊張をもってこの会話をしていた。対してイリアーナは至極自然体で、おっとりと自分の感じたままを口にしていた。

 皇城は広い。郭を行き来するのは、貴人の場合はもちろん馬車だ。紋章こそ飾られていないが、質の良さを感じさせる馬車に揺られながら、三人は一の郭の門をくぐった。

 イリアーナにとってはこれが人生で最初の参内であり、そして最後の参内となるはずだった。



 これといって何事もなく、三人は厩舎に着いた。

 イリアーナは目当ての馬を見つけて目を輝かせ、馬に駆け寄った。年老いた馬丁は急にお出ましになった皇太子とその連れに恐縮し平伏したが、イリアーナがあれこれと質問しだすと、こちらも生き生きとしだした。

 皇太子の許しが早々に出たため、馬丁は立ち上がってイリアーナと話し込んでいた。

 身分差が絶対である皇城一の郭で、これほど珍しい光景は後にも先にもこのときだけだったのではなかろうか。貴族の令嬢と、ほとんど最下層の身分の馬丁が対等に話すなど、それほどありえないことなのである。

「飼い葉は……」

「水は『竜の牙』から直接……」

「手綱の革が……」

「鞍は……」

「ブラシは二ヶ月ごとに新しいものに替えて……」

 止む気配のない二人の会話には、ファナルシーズは唖然とした。馬好きとは知っていたが、ここまでとは思っていなかったのだ。まさか馬丁と対等に馬の世話に関して議論を交わせるほどとは思わない。

 議論に熱中している少女と老人と、それを呆れた目で眺める青年と、所在無さげに立ち尽くす皇太子は、互いが互いに珍しい存在だっただけに今一人の人物がやってくるのが目に入らなかった。

 さすがに騎士であるファナルシーズとウォルセイドはその人がある程度まで近づくと気配を察知して礼を取ったが、イリアーナと馬丁は全く気付かなかった。

「ファナルシーズ、この娘は一体……?」

 不審げ、というより面食らった様子でファナルシーズに問うたのは、当代ヴィーフィルド皇王リダーロイスその人である。闇色の髪と夏の蒼天を切り取った瞳を持つ皇王は、息抜きに遠乗りでもと思ったのだろう。皇王としてのきらびやかで重たい衣装ではなく、乗馬に適した軽装だった。

「父上、あちらはセライネ一等伯のご令嬢、イリアーナ殿です」

「エアハルトに娘がいたのか」

 聞いていないぞ、と呟いて皇王は息子の隣に並んだ。

「しかし何故うちのジックと話し込んでいる?」

 ジックとは馬丁の名前である。余談だがジックは、先々代皇王の御代から一の郭の厩舎を預かり、リダーロイス自身も全幅の信頼を置く熟練の馬丁である。馬に人生を捧げていると日頃から明言している人だ。

「馬が大変好きだそうで。先日も私とジェスの馬の世話を一手に引き受けて楽しそうにしていましたし」

「あの堅物のエアハルトが娘をそこまで好きにさせているのか」

「僭越ながら、陛下」

 ここで黙って下がっていたウォルセイドが口を開いた。

「妹は幼少の頃より神殿で修行に励んでおります。来年の聖エディリーン祭までには正式に誓約を立て、巫女となる予定でございます」

「それはめでたいが、寂しかろう」

 神職に就くのは、貴族の間では宮廷での出世とはまた違う意味で名誉なことだ。その血筋が神に認められたことを示すものだからである。

 しかし俗世での繋がり、もちろん血縁すらも断ち切って神に仕える立場になるから、一種の絶縁でもある。還俗するのは簡単だが、還俗自体がよほどの事情がない限り非常に不名誉なこととされていた。

「どうぞお気遣いなく、陛下。しかし妹があそこにおりましたのではお邪魔になりましょう。言って聞かせますので、申し訳ありませんが、しばしお待ちを」

「いや、構わぬ。あの娘を見ている方が面白い。馬に関してジックがまともに他人と話し合うところなど、生まれて初めて見たぞ。この俺が何か言っても全て『畏まりましてございます』で済ませてきた男だ。あれ以外の言葉も話せたのか、あの爺は」

 感嘆のしどころは人それぞれであると、ウォルセイドはこのとき、身をもって学んだ。

 うっとりと皇王家の馬を見つめるイリアーナを見て、皇王が呟いた。

「しかし……あれだけ馬に夢中になる娘は初めて見た」

 呆れたような感心したようなその響きに、ウォルセイドは何も言わずに深く頭を下げた。

 と、仄かに彼の髪が、動作以外の原因で揺れた。

 風である。

 吹き抜ける風は、特有の冷たさを孕んでいた。

 本格的な冬の到来を告げる、冷たい風だった。

 ウォルセイドは、その音がなぜか砂が滑り落ちる音に似ていると思った。


 運命の砂時計をひっくり返して、止まっていた時を動かし交わるはずのなかった道を交えたそのきっかけは、一体何だったのだろうと、後々になって彼はよく考えることになる。



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