その令嬢、変わり者につき
目を爛々と輝かせて迫ってくる少女に、ファナルシーズはたじたじと後ずさった。天下の大国・ヴィーフィルド皇国皇太子の威厳は形無しである。
「シヴァの血統の馬でしょう、貴方の馬! 見ればわかります。わたくしが間違えるはずなどありませんもの」
どこからその自信が湧いてくるのか。よく見れば金がかった褐色の髪はつややかで、血色の良い頬は化粧を塗りたくった令嬢なぞよりよほど健康的だが、ファナルシーズは残念ながらそこに気付く余裕はなかった。
少女の言う『疾風の矢』とは、九十九代皇王ジェラルドの愛馬シヴァのことである。馬とは思えぬほど頭がよく、走れば風のようだったという。ざっと二千年も前の馬だから血統も何もあったものではないが、その血を濃く引いた子孫(※馬)は、額に金の星を持ち、背は五色に輝く白馬であると伝えられている。
ファナルシーズの愛馬は、シヴァの血統を飼育していたとある地方貴族から成人の祝いにと献上されたものだ。確かにいい馬で軍馬としても皇王のそれと張るし、外見もそうだからほぼ間違いなくシヴァの血が濃く出たものだが、これほど食いついてくる少女も珍しい。
「イリア。失礼だろう、初対面の方相手に」
ウォルセイドが間に入ると、少女は不満を隠さず兄に抗議した。
「でもお兄様、あんなに綺麗な馬なんですよ。レステアを預かる一族の端くれとして、もっとよく見てみたいと思うのは自然なことでしょう!」
「今はやめろ。もう夕食の時間だ。お許しをいただけるなら、また明日見せてもらいなさい」
「はぁい……」
あまりに落胆した様子に、ファナルシーズは笑ってしまった。
「馬がお好きか」
少女――イリアーナは、ぱっと顔を輝かせた。
「はい、とても!」
間髪入れず答えた少女に苦笑して、ファナルシーズは提案してみた。
「では明日、遠乗りに行こうと思っているのだが、どうだろう。いっ……」
「ぜひご一緒させて下さい! ほうら、聞いた? お兄様。いいって! ああなんて運がいいのかしら。こんないい馬を一日中見ていられるなんて」
皆まで言う前に、イリアーナは興奮した様子でうっとりとファナルシーズの背後の馬を見つめた。この年頃の少女――というか、貴族令嬢には珍しく、イリアーナの視線はファナルシーズではなく彼の愛馬に釘付けだ。正体を明かしていないせいもあるだろうが、ここまで素通りされた経験がないので、ファナルシーズとしては逆に新鮮である。
もういいだろう続きは明日! とウォルセイドが促さなければ、イリアーナはきっと一晩中馬を愛でていたのではなかろうか。
その日の夕食の席、セライネ伯爵は恐ろしく珍妙な顔をしていた。
皇王の側近であるこの人は、もちろん皇太子のこともジェレストールのこともよく知っている。姿変えの神術で髪と目の色は変えているとはいえ、顔を見たときの印象まで異なるようにしていたわけではないので、すぐにそれと知られたらしい。
「お父様? どうされました」
ファナルシーズが驚いたのは、イリアーナが夕食に当然の顔をして同席していたことだ。事情があって離れて育てていたというから、もしや伯爵の庶子ではと思っていたのだが、違うらしい。
「いや、何でもない。イリアーナ、お客様に粗相のないようにしなさい」
「はい」
伯爵夫人もファナルシーズとジェレストールに一瞬目を見張ったが、二人が目で訴えると、事情を察したのか何食わぬ顔で食事をしている。
「失礼ですが伯、ご令嬢がおいでとは存じませんでした」
ジェレストールの少々唐突な問いかけに、セライネ伯爵はええ、と応じた。
「七歳のときに巫覡の才と異能が顕現しまして。それ以来、神殿に預けている時間の方が長くなっております」
巫覡の才とは文字通り巫女・覡僧としての才で、多く占術などの代名詞である。
対して異能は身体器官に関わる特殊能力だ。『千里眼』『順風耳』などがこの部類に入る。
いずれも神力とは別の力だから、歴史的背景のもと国民のほとんどが多かれ少なかれ神力を持つヴィーフィルドでも、その教育を親元で行うのはほぼ不可能だ。よって、そうした者が多く集っている神殿に預けるのが一般的である。
ともあれ、これでファナルシーズが抱いた疑問は解けた。ウォルセイドの「帰る日だったか」発言も納得がいく。予定していた里帰りだったのだろう。別に強制的に神殿に押し込められているわけではないので、そのあたりは自由なはずだ。
「巫覡の……シルグリアンではないのですね」
シルグリアンとは、性別を持たない者のことである。彼等には神力も魔力もなく、代わりのように高い巫覡の才が備わっている。千人から二千人に一人生まれるとされているから、そう珍しい存在ではない。寿命を自分で定め(記録に残るものでは千二百年、生き延びた者もいる)、死後は遺体を残さず塵になることから、精霊の子とも呼ばれている。真性の無性体とは違い、三割程度は性別が戻る例が報告されていた。
ウォルセイドは頷いた。顔が引き攣っている。
「ええ。れっきとした女です」
もっともイリアーナは男性陣の会話など聞いていなかった。母や義姉と話し込んでいて、その白熱振りには男性陣の入る隙がない。
「ライゼルトが生まれるときには立ち会いたかったです、お義姉様。赤子ってこんなに可愛いものなんですね。あっ、こっち見た!」
「イリア、落ち着きなさいな」
「でもお母様、わたくしライゼルトに会うのはこれが初めてなんですもの。叔母として、これからお世話してあげなければ。セライネの跡継ぎとして、馬術も弓もしっかり仕込まなければいけませんし!」
赤子の父親であるウォルセイドが、何ヶ月だと思っているんだと呟いた。揺り籠の中でまどろむ赤子はまだ首も据わっていないのだ。確かに気の早すぎる話である。
「ご家族の団欒を邪魔してしまって申し訳ありません」
ジェレストールの言葉に、ファナルシーズは刺々しい含みを感じて隣を睨みつけた。事実だがここで言うことではないだろうと足を踏みつける寸前、軽やかな少女の笑い声がした。
「いいえ、そんなことはありませんわ。食卓は大勢で囲んだ方が楽しいですもの。それにわたくし、安心いたしました」
「何にですか、イリアーナ嬢」
「兄にこんな良いご友人がいらしたことにです。ご存知とは思いますが、兄は近衛騎士団なんて堅苦しくてむさ苦しい場所で生活しているものですから」
その近衛騎士団が剣を捧げるべき対象である皇太子は何とも微妙な感情を抱いた。堅苦しいのもむさ苦しいのも事実だが、こうもあっさり言ってしまえるのはすごい。大抵の女性は近衛騎士といえば頬を染めるのだが、この令嬢は逆らしい。
ここまで来ると、どこまでこの令嬢が珍妙なのか興味が湧いてくるから不思議である。
ジェレストールはというと、笑いを堪えているのだろう、肩が小刻みに揺れていた。
「どのような状況でも、友がいるのと居ないのとでは大違いだと思うのです」
至極真面目な顔でこんなことが言えるのは、俗世から切り離された清貧を宗とする神殿育ちゆえだろう。
好き放題に言われているウォルセイドは、居心地悪そうに葡萄酒の杯を傾けた。
ジェレストールは辛うじて爆笑を抑え、適当に相槌を打っていた。
食事が終わると、各々部屋へ引き上げる。
ファナルシーズは、早速セライネ伯爵の訪問を受けていた。
「殿下、失礼致します」
「伯」
ファナルシーズは立ち上がって伯爵を迎えた。
「急に押し掛けて申し訳ない」
「いえ……陛下には、このこと」
「青鳥を飛ばしたからご存知のはずだ。貴公に咎を及ばせはしない」
伯爵は溜め息をついた。
「ご縁談を断り続けておられるそうですな」
「貴公に関係のあることではなかろう」
途端に不機嫌になった皇太子に、伯爵は頭を垂れた。
「御気に触りましたのなら申し訳ございません。しかしファヴァイナ侯爵のご令嬢も、ガーランス公の妹御も良いご縁かと存じます。ヴィシュアール公爵夫人の御交友関係は広うございます。殿下にふさわしい女性で、かつ、かの方とお知り合いでない令嬢を探す方が難しいでしょう」
「貴公の息女はどうだ」
セライネ伯爵は一瞬ぽかんとした。
「は……!?」
「冗談だ」
笑いながら座るよう椅子を指す皇太子に当惑しつつ、伯爵は腰を降ろした。
「からかわれては困ります、殿下」
セライネ伯爵家は皇王家に后を出せるような家柄ではない。
ヴィーフィルドの爵位は、他国のように公・侯・伯・子・男などといった単純なものではない。騎士位だけで五つの位があり、貴族爵位は実に二十一に分かれる。過去の功績と、血筋が少なくとも五代に渡って明確であり、一定以上の神力がその血筋に発現する(神力は親から子へ遺伝する性質がある)と証明されなければ、叙爵すらされない。
セライネ家は一等伯爵位を拝しているが、三等侯爵位未満の家が皇妃を輩出した前例はない。
「伯、その話はよしてくれ。少なくともここに居る間だけは、その手の説教は聞きたくない」
伯爵は再度、溜め息をついた。
皇太子の女性嫌いは根が深い。それもこれも幼少時、双子の妹皇女に散々な目に遭わされたことが原因だが、ここまで拒絶するようになるとは一体誰が想像しただろうか。できるのなら彼は一生涯双子の妹に関わりたくないと思っていて、妹を連想させるもの全てを拒絶したいのだった。
「殿下、一口に女性と言っても様々です。よもやお世継ぎを残す義務を放擲なさる気ではございますまい。口さがない者など、皇太子殿下は男色を好まれるのではなどと噂しておりますよ」
「うっ」
ファナルシーズは別に女性に興味がないわけではないし、男性が好きというわけでもない。妹嫌いははっきり言って青年期特有の潔癖さがなすところが多いと伯爵は見ている。性嗜好は普通なはずなので、ファナルシーズが后を娶らないのは、単に彼の好みに合う女性がいないだけのことだ。
「私の話はいいんだ、伯爵。それより貴公に息女がいたとは知らなかった。神殿に預けているにしても、話にすら出さないから……」
伯爵は、二度も話を逸らした皇太子に追い討ちをかけるほど鬼ではなかった。
「あの子は巫女として将来を期待されておりますので。どこぞへ嫁がせるより、巫女とした方がよほどお役に立ちましょう」
「それほど高いのか、令嬢の巫覡の才は」
「占を外したことはございません。神託も小さなものをいくつか。異能も二つほど顕現させております」
これには感嘆したファナルシーズである。
「将来は大神殿の大巫女か」
「滅多なことを仰いますな」
娘が自慢でないわけがないだろうが、伯爵はそんなことはおくびにも出さなかった。
「神託を降ろしたというと、異能は『魂寄せ』か?」
「『千里眼』と『魂寄せ』です。ですが殿下、娘のことはお捨て置き下さいませ。休暇を過ごしにお出であそばされましたのなら、馬しかおらぬ場所ですが羽を伸ばされればよろしい。しかしここは宮廷とは違う、田舎でございます。間違っても火遊びなどして下さいますな」
辛辣な釘の刺しようである。さすがにファナルシーズもこれには反論を返した。
「そのような邪まなことをするつもりで来たわけではない」
伯爵がこの言葉を信用したのか否かは、ファナルシーズにはわからなかった。ぴくりとも表情を動かさず、謝罪だけを述べて伯爵は部屋を辞したからだ。
一週間という時間を、ファナルシーズは全て遠乗りに費やした。
思う存分馬を駆って、少しでも身に迫る現実を忘れていたかったのだ。
もちろん横にはジェレストールとウォルセイドがぴたりと付いている。さらにウォルセイドの隣には、華奢な少女が付いてきていた。
呆れたことにこの伯爵令嬢は、神殿育ちの深窓の姫かと思いきや、騎士顔負けに巧みに馬を操った。思えば里帰りに騎馬一頭だった少女だ。よほど馬が好きなのだろう。
「こう言っては失礼だが、お前の妹は特殊だな」
ジェレストールの言に、ウォルセイドは怒らなかった。むしろ頷いた。
「俺もそう思う。初めて意見の一致をみたな」
今もイリアーナの視線はファナルシーズとジェレストール――ではなく、二人が乗る馬に向いている。片や歴史に残る名馬の子孫で皇太子の愛馬、片や筆頭公爵家の嫡子の名に恥じぬ名馬だから、ヴィーフィルドでも指折りの優秀な軍馬であることは間違いない。しかし年頃の令嬢の興味の天秤が、絶世の美青年(とはいっても一人は既婚で子持ち)よりも馬に大きく傾くのはかなり珍しい……はずだ。
はずだ、というのは、この数日で伯爵領の人々と交流するにつれて、どうも馬好きは土地柄ではないかという疑惑が持ち上がったからである。今までも伯爵領に来たことはあったが、身分を隠して訪れるのは初めて、民と直接関わるのもファナルシーズには初めてのことだった。
その中で、老若男女問わずまず「その馬、なんていい馬なんだね!」と言われれば、さすがにこれはと思うだろう。しかもファナルシーズとジェレストールの美貌に関しては、目も向けずに彼等の馬を愛でていることが圧倒的に多かった。
そんなこんなで、ファナルシーズはレステア滞在をそこそこ楽しんだのである。
イリアーナにファナルシーズの本来の身分がばれたのは、最終日、それも皇都に帰る日のことだった。
本当にうっかりとしたことで、伯爵が「殿下」と呼んでいるのを聞いてしまったらしい。
「皇太子殿下とは存じませず、無礼の数々、お許し下さい」
よりにもよって出立時に完璧な所作で頭を下げたイリアーナに、ファナルシーズは戸惑った。
いきなりこんなことを言い出したものだから、伯爵と伯爵夫人、ウォルセイドも家令も目を見張った。家令は血の気が引いていた。
「いや。謝るのはこちらの方だ。黙っていて申し訳ない、イリアーナ嬢」
「いいえ、殿下の御馬ですのに、もっと完璧にお世話するべきでした」
そっちか。
その場の誰もがそう思った。
「……いや、貴女の馬への気配りは本当に見事だった」
「もったいないお言葉でございます」
一国の皇太子と貴族の令嬢が交わす会話ではありえない。しかし事実だったので、誰も突っ込めなかった。
ジェレストールなどは、笑いを堪えに堪えて痙攣寸前である。
「いやあ、面白い令嬢でしたね!」
伯爵邸を出立し、邸が見えなくなったところで、ジェレストールは馬上で笑い転げるという器用な技を披露した。
「うるさいぞ、ジェス。お前ときたらイリアーナ嬢に馬の世話を全て押し付けていただろうが」
「いえ、あちらがやりたいと申し出て来られたんですよ」
心なしか来たときよりも二人の馬は毛艶が良い。あの令嬢、馬丁としての腕は確かなようである。
「それに殿下も珍しく彼女とは盛り上がっていらしたではありませんか」
「馬の話でな」
ウォルセイドが付け加える。彼はこの一週間で、妹がいつ皇太子の逆鱗に触れるかと冷や冷やしていたのだ。
「まあ、気持ちを切り替えて。帰ったら陛下がきっと山ほど執務を溜めておられますよ、殿下」
さりげなく話題を変えて、ジェレストールは内心でその名を冷徹に呟いた。
セライネ一等伯爵令嬢イリアーナ=オリエル・シュリミナ・アルス・セライネ。
数少ない皇太子が拒絶しなかった女性として、また皇太子と知って興味を示さなかった女性として、ジェレストールは心に留めておくことにした。