第7話 ~真実~
「咲ごめん!昨日、先に帰っちゃってさ…」
「あぁ、いいよ、気にしないで!」
あたしは部活終了の号令後、一緒に帰るはずだった咲に頭を下げた。
いつものように、優しい咲は、ニコニコ笑って許してくれた。
…あたしは、咲の優しさに何度助けられたことだろう。
女子更衣室へ入ると、ロッカーを前に、あたしは汗を拭いた。
汗まみれになった袴を脱いで、ジャージに着替えた。
学校指定の青いジャージは、妙に肌に合わなくて、ガサガサしている。
ガチャリと廊下へ出ると、あたしは丁度、陵に出くわした。
陵はこっちを見た瞬間、ハッとしたように顔を俯かせた。
その周りにいる野球部の男子たちがニヤニヤしながら、こっちを見ている。
「な、なんだよ」
「おい、有希!陵がお前のこと好きなんだってよ!!」
“好き”なんて言葉、陵の声で何度でも聞いてるけど、…改めて誰かに言われると、急に恥ずかしさが込み上げて、体温が上がった。
「うっわ~、2人して顔真っ赤じゃん!」
指摘されて、余計に心臓がバクバクと音を立てた。
その野球部の中で、唯一笑っていなかったのは…葉だった。
「…また…陵、かよ…」
「ねぇ、今度の日曜ってさ、予選だったよね!」
「うん。今回は先輩出場するって言ってたから、見に行こうね!」
咲と並んで、弓道県大会の予選に出る先輩について話していた。
薄暗い夜道には、人はほとんどいなくて、あたしたちの声は、やたら響いた。
『有希…』
あたしたちの会話を遮ったのは…姿の見えない、誰かの声。
あたしは、立ち竦みそうな足で必死に立って、堪えていた。
「…き、逃げて」
「え?」
「有希!逃げて!!」
あの優しい咲の声とは思えないような、怒鳴り声にあたしはびっくりして咄嗟に駆けだした。
遠くなる咲の姿。…見えないはずなのに、見えてる。
まるで、頭の後ろに、目がついてるみたいに。
「ねぇ…貴方、誰なの?」
咲は、有希がいなくなったところで、ゆっくりとストーカーに近づいた。
電柱に隠れるストーカーは、そのままピクリとも動かなかった。
「有希が、困ってるの。有希を好きなら…やめてあげてください」
すると、その言葉を聞いた瞬間、ストーカーは、電柱の陰から飛び出し、咲に襲いかかった。
咲は抵抗せずに、ただ、逆光で顔の見えないストーカーを一途に見つめた。
「…気が済むなら、襲えばいい。だけど、有希はきっと許してくれないよ」
「…なぁ、咲。一個だけ教えてくれよ」
ストーカーは、機械を使って、声を少し加工していた。
機械がない今、その声は、露わにされた。
「有希は…陵のことが好きなのか?」
夕日が、完全に海へ沈んで、真っ暗になった。
その時、見えた顔はー…
「…葉」
咲の目からは、涙が零れ落ちた。
好きな人には好きな人がいて、その好きな人にも好きな人がいる。
神様は、なんて悲痛な試練を、私たちに与えたのだろう。
咲の涙には、そんな思いが綴られていた。
「…本当のこと、教えてくれよ…」
葉の男子にしては大きな瞳からも、大粒の涙が、咲の頬に落ちた。
咲の涙と、葉の涙が混じりあって、白く、淡く、輝いた。
…葉は、こんな綺麗な涙を流すんだね。
咲は、そう思う事しかできずに、消え入りそうなか細い声で言った。
「…うん。あの2人は、両想いなの。周りの人間は、あの2人の…障害なの」
咲の言葉を聞いた葉は、顔を歪めて、ただ泣いた。
でも、その通りだった。
結衣も、美香も、稔も、和奈も、葉も、勿論、咲も…
いなくなれば、2人は両想い。幸せな何の障害もないカップルなんだ。
咲には、それが分かっていた。
だから、葉に想いを伝えなかった。
「私…葉のこと、応援するから…何でも言って?」
咲は精一杯の笑顔で、葉に笑いかけた。
…どうしよう。
あたし、バカだ。
あんなに大切な心友を、あんなに優しい太陽みたいな良い子を。
あたしにとって、大切すぎる存在のはずの咲を。
…あたしは、自分に向けられた異常愛から逃れるために、咲を見捨てた。
そんな罪の意識に悩まされながらも、あたしは、家へと続く裏通りを歩いた。
「…有希」
あたしの背後で、あたしが恐れている一人の声が聴こえた。
…ねぇ、貴方は、どこまであたしを追い詰めれば気が済むの?
「…こっち見てよ、有希」
…誰か、教えて。
今、振り向いたとすれば、あたしは、どんな光景を目にすることになる?
心友“だった”から分かるの。
声で、どうしても、分かっちゃうの。
…結衣が、泣いてるってことに。
「…結衣…」
振り、向かなければよかった。
そのことに気がついても、もう遅かった。
あたしの後ろに立っていたのは、真っ青な顔で、鉄パイプを片手に泣いている、結衣だった。
零れ落ちる涙は、何を物語っていたのか。
「ねぇ…有希…私、憎くて憎くて、仕方がない奴がいるの」
その言葉を聞いた瞬間、陵の顔が頭を過った。
「そいつはね…私の大切なものを、次々と奪って行ったの」
結衣の足が、重く圧し掛かるように、ゆっくりと、あたしとの距離を縮めた。
近くなる距離、心は誰よりも遠く離れているのに。
「だから…そいつの大切なものも、奪ってあげることにしたの。私が手に入らなかったものを…あいつにだけは…陵にだけは…!」
右手に握られている、淡く光り輝く鉄パイプが、ゆっくりと上に振り上げられた。
「有希…私の腕の中で…永遠に眠って?」
…殺される!
あたしの頭上に、真っ逆さまに落ちてくる鉄パイプから逃れる為に、あたしは目を瞑った。
最後くらい…大好きな人と居たかった。
あたし…生まれ変わるなら、男になりたい。
大切なものは、全部一人で守れるくらいの、男になりたい。
そうすれば、誰も傷つかないで済むのにー…
「…有希!」
その声と共に、カキィンと痛快な金属音を発てて、何かと何かがぶつかった。
「…え…?」
自分の体には何一つ異変はなく、あたしはゆっくりと目を開けた。
そこには、金属バットで、振りかざされる鉄パイプを食い止めている陵がいた。
「陵…っ!?」
「有希っ、大丈夫か!?」
陵は、あたしの前に立ちはだかって、結衣から、あたしを護ってくれていた。
どうして…陵は、あたしの危険に気づいてくれるんだろう。
「…陵…お前…許さない!」
結衣は血相を変えて、陵に飛びかかった。
陵の顔は…思ったとおり、青ざめていた。
「死ねぇ!!!!」
結衣は、両手で鉄パイプを握って、思いっきり振り下ろした。
その瞬間、陵は小さく、か細い声で言った。
「……ごめん、結衣」
陵の頭数ミリというところで、鉄パイプは止まった。
目の前で起こる光景に、あたしはついていけずに、ただ立ち尽くすばかりだった。
「…“ごめん”…?…謝って…済むと思ったら、大間違いなのよ?」
大粒の涙が、アスファルトの上に落ちて、光り輝いた。
2人の関係が分からなくて、あたしだけ、取り残されたような…遠い場所に居る2人を見つめているだけの、あたしは無力な人間だと、思い知らされているような気さえした。
「お前は…お前は…っ!」
「…分かってるよ、結衣。…俺は…」
陵は、ゆっくりと、制服のポケットから、1枚の写真を取り出した。
その写真には、結衣と…“誰か”が映っていた。
「…俺は…汐音を殺した。」
陵の声に乗せられた言葉を、あたしは素直に聞き入れることができなかった。
理解なんて、できなかった。
…こ、ろ、した…?“殺した”…?
「…陵…?」
あたしは、無意識のうちに、陵の名前を呼んでいた。
嘘だと言ってほしかった、ふざけた笑顔で笑っていてほしかった。
あたしだけの、ヒーローで居て欲しかった。
「有希!聞いて、この男はね、汐音を殺したの!列記とした、人殺しなのよ!」
“殺した” “人殺し”
「…な、んだよ、それ。陵がそんなこと…しかも、中学生なのに…?」
「…有希、ごめん」
ねぇ、陵?
何で、謝るの?
それは、疾しいことがあるから?
あたしには、言えない過去があるから?
…あたしのことを好きだといったのも、嘘だとか言うの?
嘘なんでしょう?
…ううん、嘘だと言って。
それだけで、あたし、陵のこと、信じてあげれるよ。
…陵、お願いだから…「嘘に決まってんだろ」って、笑ってよ。
なんで…泣いてるの?
結衣は、元々体が弱かった。
近くに居たから、前から一緒に居る気がしてたけど、結衣は小5の時に引っ越してきた、転入生だった。
都会のごみごみとした空気がダメで、この田舎に引っ越してきた。
その引っ越しが決まる、数日前―…
「結衣!準備できたぁ?」
「うん!できたよ、行こ!!ほら!“陵”も早く!」
「おう!おい、元樹も行くぞ!」
「ちょっ、待てよ!」
結衣、汐音、元樹…そして陵は、元々、同じ小学校出身の幼なじみだった。
この日も…4人で新しくできたテーマパークに遊びに行く予定だった。
「ねぇっ、私、今日こそ陵に告白するの!」
汐音は、結衣に笑って言っていた。
その言葉を聞いた瞬間、結衣の心は締め付けられた。
結衣は、当時、有希でもなく、葉でもなく、元樹が好きだった。
…元樹は…汐音を好きだった。
元樹のことを考えると、素直に応援は出来なかった。
「…そっかぁ、がんばれ!」
結衣は、複雑な思いを独り、抱え込んでいた。
「うわ、元樹やめろよ!」
「ハハッ!陵ダッセェ!!」
じゃれあう2人を、愛おしそうに眺めている汐音を、横で見守ることしかできない結衣は、自分自身に苛立っていた。
そんな時―――……
赤に変わった信号機に気付かずに前へと踏み出した陵は、飛び出してきたトラックと鉢合わせた。
「陵、あぶないッ!」
その声と同時に、血飛沫が結衣の体を覆った。
トラックにぶつかりそうになった陵を突き飛ばし、代わりに汐音は血を流して死んだ。
結衣の顔を、汐音の血が装飾した。
次から次へと零れ落ちる涙は、赤色だった。
「…汐音…?」
結衣は、動かなくなった汐音を見つめて、立ち尽くした。
血がポタポタと伝って、アスファルトの上に赤い染みを作った。
「汐音…?汐音!!!!!!」
元樹は、汐音のそばに駆け寄って、汐音の血だらけの体を揺すった。
「なぁっ、目開けてくれよ、頼むよ、俺、まだ何も伝えられてないんだ。」
元樹への届かない想い、汐音を失った辛さ、全てが結衣をズタズタにしていった。
遠くで、ただ立っている陵は、泣くこともなく、ただ無で。
その陵の態度も、結衣は気に食わなかった。
「…お前のせいだ…っ…陵のせいで、陵のせいで、汐音は…!」
元樹は立ち上がって、陵に飛びついた。
倒れた陵に跨って、元樹は、陵の顔を何度も何度も殴った。
「お前なんか…死ねばいい!死ね!死ね!死ね!」
陵の顔は、真っ赤に染まっていった。
…結衣は、止めなかった。
しばらくすると、警察や救急車が来た。
…もう遅い。もう、汐音は死んだ。
陵のせいで…死んだ。
大切だった元樹は壊れた。陵のせいで、壊れた。
全て…陵が台無しにした。
「こら君、やめなさい!」
警察が陵を殴る元樹を止めようと、元樹を羽交い絞めした。
「やめろ…はなせぇぇぇえぇぇぇ!!」
元樹は暴れて、警察から逃れようとした。
その瞬間。
バァン、という銃声が響いた。
「おい、当ててどうするんだ!!」
「す、すいません。脅すつもりで…」
暴れた元樹を静まらせるために、放った弾丸が、元樹を貫いた。
結衣の体は、汐音と元樹の血で、溢れた。
大切な大切な2人の存在を一気に失った結衣は、ただ無意識に流れる涙を、遊ばせていた。
「…陵のせいで…陵のせいで…」
元樹は、最後までそう呟いて死んでいった。
陵は真っ青な顔で、ただその場で、2人の血だまりを見つめていた。
陵のせいで、陵のせいで、陵のせいで、陵のせいで。
汐音は陵を庇って死んだ。
大好きだった元樹は、陵が汐音を殺したせいで、壊れて、殺された。
結衣の大切なものは、陵がすべて、奪い去っていった。
数日後、陵は結衣に行先を伝えず、引っ越した。
結衣も、偶然ではあるが、体の調子を整えるために、引っ越すこととなった。
そして、もう1度、2人は出会った。
陵と結衣の親は対立し、陵の親を見かけた結衣の親が、隣県への引っ越しを決めた。
結衣は、陵と出会えたことに感謝していた。
…汐音と元樹を殺した陵を、いつか、自分で裁いてやると。
法律で裁けないのなら、自らの手で、手を血で汚して。
「陵に…これ以上、私の大切なものを奪われるわけにはいかないの!」
結衣は、声を張り上げて、陵に向かって、鉄パイプを振り下した。