第6話 ~ストーカー~
鳴り響くチャイムが、跡形もなく消え、そのまま幾度なく時間は過ぎた。
誰も動かない中、あたしは脳に、様々な疑問を張り巡らせていた。
陵の結衣を見たときの顔は…異常なほど、青ざめていた。
なのに、あたしを同じ目に遭わせている美香には、こんな風に言えてしまう。
…だとしたら、陵があの時、青ざめていたのは…
…『殺される』とは違う、別の恐怖があったから?
「…有希、一旦学校出るぞ。」
「えっ?」
そんな考えを遮るように、陵が口を開いた。
「早く!」
「う、うん。」
陵の力強い言葉に、あたしは圧倒されて、手を引かれたまま出ていった。
一人取り残された美香は、怒りが露わにされた顔つきだったが、どこか寂しそうだった。
あたしは、目の端に映った美香を見て、途端に後悔が渦巻いて来ていた。
校門を出ると、陵は学校前にある、小さな公園のベンチに腰かけた。
「…咲から聞いたけど、お前、ストーカーに遭ってんだろ?」
はぁっと、ため息をつきながら問いかけてきた陵は、ケータイを取り出した。
「しかも…結衣、だっけ?あいつにまで、嫌な目に遭わされてんだな。」
寂しそうで辛そうな陵の横顔を、あたしは見つめることしかできなくて。
なんていえばいいのかすら、分からなかった。
その時、ぐっと腕を引っ張られ、陵の腕が、あたしの首筋にまわった。
「…ごめん、気づけなくて。」
陵のかすれた声が、あたしの鼓膜を震わせた。
心臓がさらに高鳴って、あたしは紅潮しそうな頬を抑えることができなかった。
急上昇する体温が、陵に伝わってしまいそうで。
恥ずかしかったけど、この温もりから、離れることの方が怖かった。
「…そうだ。」
ゆっくりと体を離すと、陵はケータイを開いた。
「これからは、日中は電源切った方がいい。メールは夜にパッと返信するんだ。」
「え…、でも…」
「夜は…怖いなら、俺とメールしよう。ストーカーからのメールも見ずに済むだろ?」
優しく微笑んでくれた陵は、あたしの頭を撫でてくれた。
まるで、子供をあやしてるかのようだったけど…それでも嬉しくて。
何も言えず、ただ俯くことしかできなかった。
学校へ戻ったのは、給食時間。
先生にこっぴどく怒られたけど、事情を説明すると、先生は納得してくれた。
余計怒られるかとも思ったが…案外、先生は良い奴なのかもしれない。
「なぁ、有希って葉の事好きやったよなぁ?」
今日の給食は、カニクリームコロッケ。
胸を躍らせて、頬張っていたあたしに、いきなり大打撃の質問を喰らわせてきたのは、和奈だった。
確かに…あたしが“陵を好き”ってことを知ってるのは、咲と美香と結衣だけ。
稔に言えば、心配させるし、和奈には言えるはずもなかった。
…和奈は、あたしを失恋へと陥れた張本人。
和奈への信用は、いまだ、欠けたままだった。
「な~に言ってんだよ、和奈!もう昔の話じゃん!」
あたしはニカッと笑って、和奈に冗談っぽく言った。
その様子を見たのか、陵はホッとしたような顔をしていて、あたしは、陵に向かって微笑んだ。
それに気づいたのか、陵は少し上機嫌に、コロッケに箸を刺した。
「なぁんや、つまんないなぁ。折角、両想いになれたんやと思っとったんになぁ」
「両想い~?葉があたしを好きって事?無い無い!てか、こっちも冷めてるし!」
あたしは大口を開けて笑っていた。
和奈はつまんなさそうに、口を尖らせて、葉を見ていた。
「…有希って…俺の事好きなんじゃなかったっけ…?」
「え?葉、なんか言った?」
葉のぼそりと呟いた言葉が聞き取れなくて、あたしは葉に聞き返した。
すると、葉は、いつもの、あの雨の日の笑顔で、「何でもねぇよ!」と言った。
「咲、一緒に帰ろう!」
「うん、いいよ!」
あたしは部活後、咲にそう呼びかけて、玄関へと向かった。
あたしの出席番号、23番の棚には、通学兼体育用ズックが置かれている。
それに履き替えようと、靴に手を伸ばした。
その時、靴の中から、白い紙が2つに折りたたまれて、すっぽりと入っていた。
「何これ。稔かな」
あたしは何も疑わず、その紙を開いた。
『好きだよ』
ガァンと頭の中を金槌で殴られたみたいだった。
呼吸が激しくなる。空気が上手く吸えない。
「有希…?」
心配そうに声をかけてきてくれる、咲の優しい声が、あたしをさらに惑わせた。
あたしは、そんな咲を一人残して、走って家へと向かった。
「はぁっ…はぁっ…」
約2キロある家までの道のりを、あたしは渾身の力で全力疾走した。
1500メートルを5分台で走れるあたしは、息を切らしながらも、冷静さを保っていた。
「あの手紙…一体、なんなの…?」
重くなった足と腰を、一生懸命振り上げ、ドアに手をかけようとした。
その時、家のポストから、白い封筒が大量に溢れているのが見えた。
「何…あ、れ…」
そぅっと、一つの封筒に手を伸ばした。
中には、靴の中に入っていたものと同じ、白い紙が一枚。
きれいに2つに折りたたまれていた。
『いつも見てるよ』
『今日も可愛かった』
『俺のものでいてよ』
『俺じゃ駄目かな?』
次々と出てくる、白い紙に並べられた、あたしを恐怖へと導く言葉。
手汗で、文字がじんわりと滲んだ。
その時、背後から、凄まじい視線を感じて、あたしは咄嗟に振り向いた。
だけど、そこには、いつもの住宅街が広がるだけで、何もない。
ただ一つ…聞き覚えのある声が聴こえてきた。
『有希…好きだよ…』
「いっ、嫌…だれ…っ、誰なの…っ…!?」
『有希…』
「いやぁぁあぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁっ!!」
あたしは、手紙を全て、アスファルトの上にばら撒いて、家に駆けこんだ。
バタンッという大きな扉の閉まる音が耳を突き抜けたのを確認すると、あたしは、ドアに寄り掛かった。
足に力が入らず、全体重が重く圧し掛かり、ぺたんと座り込んだ。
誰もいない家。
帰りの遅い家族は、今日もきっと夜中に帰ってくる。
怖い…怖いよ…あたし、どうすればいいんだろう?
誰か、助けてー…
PiPiPi... PiPiPi...
そんな時、ポケットの中から、あたしの太腿に振動が起こった。
…色々な言葉が甦る。
『有希、大丈夫?』優しい咲の言葉。
『すっと一緒だよ、ね?』不安そうに俯いていた、稔の言葉。
『有希大好きだよ』大きすぎる愛をくれる、結衣の言葉。
『私が有希を一番好きだよ』重く圧し掛かる、美香の言葉。
『ずっと見てるよ』姿の見えない、誰かの言葉。
『俺が、有希を護るから』…陵の言葉。
サブディスプレイには、青い文字が輝いていた。
“陵”
あたしは、そのたった一文字を見つめて、すぐさまケータイを開いた。
「も、もしもし!?」
『…あ、有希?俺。陵だよ』
温かい優しい声が、あたしの心をみるみる溶かしていく。
ドアの向こうに居る誰かに脅える恐怖から、解放してくれるようだった。
「ねぇ…っ、誰かにストーカーされてるっ。怖い…怖いよ…」
『…分かった、今から行ってやるから。』
「え…っ…」
『今、学校出たところだ。あと5分あれば着く。とにかく、電話に出るな!』
その言葉に、あたしは返事をして、孤独の5分が過ぎ去るのを待った。
…今まで、誰にも頼れなかった。
人は、護るべきものが多すぎて、段々弱くなっていった。
それとも…人は護るものがあるからこそ、強くなれるのだろうか。
本当に大切な何かを見つけたとき、人は、どんな困難にも立ち向かっていけるのか。
…あたしは、ずっと耳を塞いで、時が流れるのを待った。
その時、遠方から小さく2,3回バイブ音が聴こえた。
『電話に出るな』その言葉を、その約束を守って、あたしはケータイには触れなかった。
ドアの向こうに誰かがいる…姿の見えない、誰かがいる。
その正体を知ったとき、あたしはどんな気持ちになるんだろう。
…知ってる。
あの声、知ってる。
「怖いよ…助けてぇぇぇぇえぇぇえぇ!」
それが、あたしの“大切だった人”と気づくのは、数週間後のことだった。
「有希っ、大丈夫か!?」
ふと目線を上げると、誰もいない廊下があった。
その背後には、ドアがあって、その向こうから、待ち続けていた声…言葉が聴こえた。
あたしは、ドアを開けて、誰かも確認せずに飛びついた。
「陵…っ、陵…」
だけど、飛びついたときの体の感触が違った。
…陵じゃ、なかった。
「…俺、陵じゃねぇよ」
その声は、やっぱり陵じゃなかった。
陵の声は、もっと高い。この声は…声変わりし始めたような、低い声だった。
顔を上げると、そこには…葉がいた。
「え…、何で葉が…?」
「はぁ?お前の声、外まで丸聞こえなんだよ!心配してきたら…」
「嘘!?」
「はぁ~心配して損したぜ」
あたしは、そんな様子の葉を見て、少しだけがっかりしてしまった。
…陵だったら、そんな事言わないのに…
「…陵だったら…」
「え?」
あたしは、ぼそりと呟いた。
それは、葉に気付かせるためだったのか、単に陵ではなかった事にがっかりしていたからなのか。
自分でもよく分からなかったけど、口走っていた。
「有希っ!」
あたしを呼ぶ声が聴こえた方向に、あたしは目線を上げた。
自転車を走らせて、さらさらの髪を翻している陵が、そこに居た。
「陵っ!!」
あたしはあまりの嬉しさと安心感で、涙をぽろぽろ零しながら、抱きついた。
陵は少しよろめいたけど、体制を持ち直した後、あたしの背中に腕を回した。
「ごめん…遅くなって」
「馬鹿!早く来てよ、本当に…怖かったんだから…」
その時、あたしたちは気づいていなかった。
一人、取り残された葉が、こっちを見て言った言葉に。
「陵…許さねぇ…!」
その夜は、あたしと陵で何通ものメールを送りあった。
それは、あたしの不安を紛らわすための物だった。
『そうだ、今度、俺の好きなバンドのライブなんだ。有希も行こうぜ』
届くメールは、あたしの不安を一つ一つ取り除いてくれるようだった。
『えぇ~どうしよっかなぁ』
『絶対有希も好きになるって!いい曲ばっかだからさ!』
あたしのケータイには、勿論のこと、結衣からも…ストーカーからも…メールは来ていた。
だけど、開いたのは3分ごとに届く、陵のメールだけだった。
そんな日々が、何日か続いていた時だった。
ツーツーツー… ツーツーツー…
「電話しても…メールしても…有希、出てくれない…」
結衣は、一人ベットの上で白いケータイを眺めた。
有希の一緒の、お揃いの、白い新機種のケータイ。
遠く、離れ離れになってしまった結衣と有希をつなぐ、唯一の連絡手段。
「また…あの男のせいなのね…!」
結衣は立ち上がって、机の中の青と白のマリンボーダーの入った爽やかな缶を開けた。
中には、有希の写真、有希の私物、有希の大切なもの…
小学生の頃、手に入れたものばかりが入っていた。
そして、その中に、唯一有希の物ではない、“何か”が入っていた。
「陵…私がお前から受けた仕打ちは、絶対に許さない」
机の上には、小さな写真立てが飾られていた。
有希のいる、小学校に転校する前に居た、結衣の本当の出身校の写真。
そこには、結衣と仲良く並んでいる一人の女の子が映っていた。
「私の大切なものは…陵に全て奪われるの…?そんなこと、絶対させない!」
結衣はもう一度、ケータイを開いた。
「陵…絶対に…許さない!」
もし、あたしがそこに居たら。
もし、結衣が今でもあたしの近くに居たら。
この言葉を、もし、あの時聞いていたなら。
きっと、あたしは問いかけていただろう。
『結衣、何で陵の名前、知ってるの?』
『陵、何でそんなに、結衣に脅えているの?』
馬鹿なあたしは、あたし自身が破滅へのレールを敷いているとは気づいていなかった。