第4話 ~恐怖~
あの温もりが、あの感触が、まだ肩に残ってる。
屋上を出て、約5時間経っているのに、また心臓がドキドキいってる。
恐怖が入り混じった、心からの喜びと安心は、あたしの脳を支配していた。
先生の言葉なんて、耳に入らない。
『俺が…有希を護るから。』
そう言われたとき、たまらなく嬉しくて、もう、どうしようもなくて。
美香を傷つけてしまったことも、許されるような気さえした。
幼い頃から、何でか知らないけど、心からの友達は数少なくて。
その理由はいつも、相手があたしに恋愛感情を持つからだった。
あたし自身が、相手を壊しているような気がしていた。
だけど、陵に「もう自分を責めなくていい」。
そう言われたとき、心から解放された気がした。
陵に出会えたことが、人生で一番の幸せだと思えるくらいに。
これ以上の幸せはないんじゃないかってくらいに。
人生の幸運を全部使い果たしちゃったと思うくらいに。
陵を…好きになっていた。
「有希、今度カラオケ行こうよ!」
「おっ!いいね!いつ行く~?」
その日の帰り道も、いつもと同じように咲と並んで帰っていた。
あたしは咲と同じ弓道部で、まだ入部したばかりだが、かなり充実した日々を送っている。
しかも弓道部には、あたしと咲だけじゃなく、和奈と美香も居た。
今日は、ほんの少しだけ、美香と会うのが気まずかったけど。
「…そうだ、有希。こんなこと聞いていいのか分かんないけど…」
真っ暗な夜道の中、咲はひっそりと声を潜めて、あたしに問いかけてきた。
「あぁ…まぁ、答えられる範囲なら、別にいいけど。」
「有希さぁ…今日、美香となんかあったでしょ?…もしかして…告られたの?」
唐突過ぎる言葉。
あたしの心は、その一言でかき乱された。
美香の言葉、過去の結衣の言葉、そして、陵の言葉…
全てがフラッシュバックして、脳裏に張り付く。
「…はは、やっぱ凄いね、咲は。」
あたしは、無意識のうちに、咲から顔を背けてしまった。
だけど、咲はそんなあたしを、特に気にせず、話しかけてくれた。
「…あたしはね、有希が、結衣に犯されそうになったことも、葉に傷つけられたことも、全部知ってる。
だから、今回のことだって、辛くなったら、いつでも話してくれていいからね?」
咲の言葉は、じぃんと胸に沁みて。
こんな心友を持てた事も、あたしにとって最高の幸せだった。
…だけど、あたしはこの子ですらも、傷つけてしまうことになる。
「そういえばさ、今度の日曜日、稔、新人戦なんだって。」
「へぇー!じゃあ、見に行こうか。」
「私もいきたぁ~い!」
「いいよ!……え?」
咲と話していたはずの稔のバスケの新人戦。
小さいころから上手で、有志望されてきた稔の為に、前々から約束していた。
誰と?…咲と。
『私もいきたぁ~い!』
この声、この話し方、やけに馴れ馴れしい態度。
…当てはまる人物は、ただ一人。
「2人とも卒業してから冷たいから、会いに来ちゃった!」
…ゆ、い。…結衣。
何で、何でいきなり?
「ひ、久しぶりだね、結衣。何で、連絡してくれなかったの?」
咲があたしの気持ちに察してくれたのか、本心だったのか。
それは分からないけど、有難い質問の答えにあたしは耳を傾けた。
「だってさぁ、連絡したら、待ち構えちゃうでしょ?私…本当は…」
その時、結衣の口角はキュウッと吊り上がって、不気味に微笑んだ。
「…ユキニスキナヒトガイナイカ、調べに来たんだもん♪」
体中が金縛りに遭って、細い糸で、キリキリと締め付けられているみたいだった。
頭の中が、ガンと石で殴られるような、そんな痛みに襲われて。
束縛される、という恐怖を身に染みて感じられた。
「ねぇ有希!今からプリ行こうよ!」
「え…でも、もう暗いし…。」
「いいじゃん!いこ!…2人で。」
…怖い。
…怖いよ。
結衣、一体あたしに、何を求めているの?
顔が上がらなくて、結衣の顔を見るのが怖くて、ただ俯くことしかできなかった。
足が震えてる。視界がぼやける。
唇が思うように動かなくて、あたしは言葉を発することもできない。
「あ!有希!今日って有希のお姉ちゃんの誕生日会だったよね!」
「…あ、うん!そうだった!早く帰らなきゃ!」
咲の出してくれた助け舟に、すがるようにあたしは言った。
…本当は誕生日会なんてないけど。
「そっかぁ…。じゃあ、明日、学校に行くね。」
「……え」
「その時は…有希に変な虫がついてないか、調べるから、ね?」
その笑顔は、まるで悪魔に支配されたような濁った瞳が、上半月を描いていた。
真っ黒の光一つない瞳に、吸い込まれる様にして、あたしの目は釘付けになった。
遠ざかっていく結衣の後姿は、あたしを恐怖から解放してくれるようだった。
「おっはよう、有希!」
学校に着くと早々、校門の陰から結衣が飛び出してきた。
隣に居た咲は、目を丸くして「もう居るの?」とでも言いたげな顔をした。
「お、はよ。結衣…。」
「もぉ、どうしたのっ?元気ないなぁ!」
結衣はポンポンとあたしの肩を叩いた。
その後、するりと肩から手首までを撫でるようにして、手にそっと触れた。
「有希の手…細くてきれいだね。」
結衣の手が、指が、あたしの手に絡みついた。
ピクンと肩を震わせると、結衣の手はさらに激しく、撫でまわした。
「や…めてくれる?苦手なんだ、そういうの。」
あたしがそういうと、結衣はおとなしく手を引いた。
でも、その顔は物足りなそうな顔で、あたしはぞっとした。
あたしは、結衣から逃れるように、早足で玄関を通過し、教室へと向かった。
「学校公開週間」ではないから、生徒以外は学校には入れない。
それが不幸中の幸いだと思って、学校に逃げ込むようにした。
すると、教室に入ろうとしたところで、誰かに腕を掴まれた。
ぐいっと、引き寄せられた元には、…美香がいた。
「…ねぇ…有希…あの子…誰?」
あたしは、その美香の顔が、目が、哀しみで溢れていることに気付いた。
ひしひしと、力が込められていく、美香の手に、あたしは必死に耐えた。
…今、振りほどけば、美香は傷つく。
痛みが走る腕を、緊張で固まってしまった足を、必死に「大丈夫」と唱えて元に戻そうとした。
「ねぇ…誰なの。」
美香は目に涙をためて、あたしに訴えてきた。
「誰…誰なの…教えてよ…私には…教えられない、大切な子なの?」
「ち、違うって。そんなんじゃ…」
「ねぇ…私を見てよ。…私じゃ…ダメなの?」
自由だった右腕までもを掴まれて、真正面から見つめられた。
だけどあたしは、その視線から目を逸らすことしかできなくて。
「有希…は、陵が好きなの?…あの子が…好きなの?答えてよ」
「み、美香…」
「私が…こんな醜い姿だから、有希は振り向いてくれないの?」
美香の目から、涙が零れ落ちた。
あたしの腕に、冷たい涙が落ちて、一瞬凍りついた。
「有希…お願い…私を…好きになって?」
その瞬間、美香の体が、あたしの方に近づいて。
美香の唇と、あたしの唇が重なりそうになった。
唇と唇の間が、1センチあるかないかくらいのところで、美香の体は止まった。
「有希、来い!」
美香に掴まれていた、腕を振りほどいてくれたのは…陵だった。
「りょ、う…!」
そのまま腕を連れられて、来た場所は屋上に行くときに使う、裏階段。
12段目のところで、腰を下ろすと、陵は立ったまま「馬鹿!」と叫んだ。
「え?」
「お前、マジ馬鹿だろ!何で逃げねぇんだよ!俺が助けなかったら…」
はぁ、と陵はため息をついて、あたしの隣に腰かけると、腕で顔を埋めて言った。
「…無事で…本当に良かった…。」
「……っ。」
…ヤバイ。
…そんなこと言わないでよ。
胸がドキドキしすぎて、破裂しそう。
あたしみたいな、こんな奴が、こんな女みたいな感情持っていいのかな。
隣で、俯いている陵の横顔は、とても綺麗で。
無意識のうちに、心臓がどくん、どくんと大きな鼓動をたてていて。
顔が熱くて、体中が火照りそうだった。
そんな幸せで心がいっぱいになっていた時―…
「…有希、その男、誰?」
正面を向くと、そこには見覚えのある姿が、立ちはだかっていた。
暗く、沈んでいくような声。目には輝きがなく、手は小刻みに震えていた。
「ねぇ…誰なの?」
隣の陵も、その人影に気付いたのか、顔をあげていた。
陵の目は、みるみる不安な色に包まれていった。
「有希…答えて。…その男は、誰?」
見覚えのある姿―…結衣は、そういって、あたしの顔に手でそっと触れてきた。
「…まさかとは思うけど…そいつのこと、好きとか言わないよね?」
「…え…っ…」
「…言わないよね?…ね、有希。」
結衣の顔が、美香の顔と重なる。
2人とも、あたしに好きな人がいると知ったとき、酷く哀しい顔をする。
その歪んだ顔を見ると、胸が締め付けられる思いだった。
「結衣…ごめんね。」
あたしはそれしか言えなくて、ただ、結衣の顔を見るだけで精一杯だった。
それに気づいてくれたように、陵は、あたしの手をそっと握ってくれた。
それだけで、あたしは安心できた。
「…『ごめんね』って…どういう意味なの?…好き…なの…?」
あたしは頷かなかった。だけど、首を左右に振ることもなかった。
ずっと、結衣の目だけを見て、結衣に想いが届くことを願った。
…そうだよ。
…あたし、陵の事好きなの。って。
「…ねぇ…何でそんな真っ直ぐなの。…否定、してよ。」
結衣の目が、きらきらと輝き始めた。
それが、涙だということは、見ていればすぐに分かった。
「…ねぇ…っ…お願い、『違う』って言って。…『結衣、大好き』って、言ってよ。」
美香と同じように、結衣の涙は頬を伝って、零れ落ちた。
次から次へと落ちる涙は、あたしを一瞬躊躇させた。
「小学校の時みたいに…私のこと想ってよ。…私を一番に…考えてよ。」
「…ゆ、い…結衣…ごめんね。」
「あやま、らないでよ。…『好き』って言って…言ってよ…。」
「…ごめんね。」
あたしが謝ると、結衣は、その度にポロポロと涙を流した。
結衣の涙は、止まることがなくて。
「…有希…有希がその男を好きって言うなら…」
俯いていた結衣の顔は、あたしにまっすぐ向けられた。
あたしもそれに応えるように、顔をしっかりあげて、結衣を見た。
「…その男を、殺していいよね?」
結衣の言葉。
美香の言葉。
それは、どちらも『陵を殺す』という意味だった。
2人は似ている。
あたしを束縛するために、あたしを護ってくれる、大切な人を殺そうとしている。
…あたしのせいで、陵が危険な目に遭う。
そう考えるだけで、血の気がさぁっと引いた。
「…有希…よく考えて。」
結衣の手は、あたしから離れて、結衣の体の横に戻った。
「…その男を選ぶか、私を選ぶか…。」
結衣はくるりと後ろを向いて、歩き始めた。
少しずつ遠ざかる結衣の後姿。
前とは違って、その後姿が遠ざかると、不幸がかわりに近づいてくる気がした。
「…どちらを選べば利口か…ちゃんと考えてね…有希?」
頭痛がする。
もう、何も考えられなくて、あたしはただ、呆然とすることしかできなかった。
あたしの手を握ってくれていた陵の手は、ガタガタと震えていた。
陵の顔は、青ざめていて、今にも泣きだしそうだった。
…そうか、1番怖いのは、陵なんだ。
…あたしが、陵を危険な目に遭わせてるんだ。
「…陵。」
あたしは、真っ直ぐ前を見ながら、陵に言った。
「今度は、あたしが陵を守ってあげるね。…だから、大丈夫だよ。」
そういって、陵の冷え切った手を、あたしは握り返した。