第3話 ~嫉妬~
「ねぇ…有希って陵の事…好きなの?」
稔は、あたしに不安そうな顔をして問いかけてきた。
あたしは、その時、何の抵抗もなく「好き」という言葉が脳裏に浮かんだ。
だけど、認められない。
…あたしは、葉を好きなはずだ。
陵への好きは、友達としての好きー…だから、違う。
…絶対に、違う。
もう、友達に恋なんてしない。
一生、この初恋だけを想って生きていく。
今、あたしの初恋を遮るものは、ない。
だから、今度こそ、手に入れるんだ。届けるんだ。
この、苦しくても、もがき続けた挙句、見つけた答えを。
「そんなわけないじゃん!あんなの、恋愛対象外だよ、外!!」
あたしは、稔に笑って見せた。
1年前、結衣に見せていた、作り笑顔みたいに。
…大丈夫、笑えてる。
前とは違う。今は、自分の為に笑ってるんだから。
自分の為の笑顔とは、裏腹に、心臓がズキン、ズキン、と痛んだ。
何でだろう。
叶う事のないはずだった初恋が、手の届くところにあるのに。
あたしは、一体、何を求めているんだろう。
「…本当に?」
稔の不安そうな顔が、いつもの優しい顔に戻ることはなくて、余計に、辛そうな顔をした。
「うん!だから、本当だって!」
あたしが、笑いかけてあげると、稔は顔を俯けたまま言った。
「…じゃあ、どんなに好きな人が出来たって、一緒に居てくれるんだよね?」
「うん!当たり前じゃん!」
明るい声でそう言うと、稔は顔をあげて、見た事のないような凛とした眼差しで、
心を見透かすような、すべてを支配するような瞳で、
「…ずっと…一緒だよ、ね?」
か細い、今にも消え入りそうな声で、あたしに返事を求めてきた。
「…うん!ずっと一緒だよ!」
あたしは、稔の声とは真逆に、精一杯の笑顔と明るい声で、稔を安心させてあげた。
…でも、この約束が、あたしの人生を狂わせる一つの原因になるなんてー…
その日の帰り道、あたしは咲と並んで帰った。
もう真っ暗になっている夜道は、街灯のおかげでやっと、足場が見えるくらいだ。
田舎だから、周りは田畑ばかり。都会人なら、ものの数秒で、落っこちているだろう。
「…有希。」
「ん~?どうした、咲?」
「あたし、前から思ってた。有希、あんた、危ないよ。」
唐突な咲の発言に、あたしは一瞬驚いて、その場で立ち止まってしまった。
「…な~んだよ、それ。咲ってさ、心配性だよな。昔から変わんない。」
あたしは、心の動揺を隠して、平静を装って、また歩み始めた。
あたしの足は、いつの間にか咲を追い越していて、立ち止まった咲は、そのまま動かなかった。
「…どーしたんだよ、早…」
そう言おうとして、後ろを振り返ると、電柱の陰から、黒い影が見えた。
ゆらゆらと犇めくその影は、あたしに見覚えがあるもの。
だけど、それが何かはわからない。
「…分かった?今、自分がどんな状況に置かれているか。」
咲は、ゆっくりと静かに告げた。
その言葉で、あたしは全てを理解した。
…ストーカー、されてる?
「あ、たし、もしかして…」
「…やっと、分かった?本当は、数週間前からつけて来てたよ。」
咲は、「気を付けて」とあたしに目くばせした。
あたしは、それに答えるように深く頷いた。
『…帰り、大丈夫だった?』
家に着くと同時に、ケータイのバイブ音が鳴った。
その主は「咲」で、あたしの帰りを心配して、かけてくれたらしい。
「うん、大丈夫だったよ。…でも、あれ、誰なんだろう…?」
ケータイを右手に、あたしはベットの上に寝っころがっていた。
『誰かは分かんない…だけど、背格好的に男だと思うんだ。』
「男!?あたし、そんな男子にモテるような感じじゃないし!」
あまりに予想外な返事をもらったあたしは、動揺を隠せなかった。
『それとね…一つ忠告しておく。…美香と稔には気をつけろ。』
さらに、予想外であり唐突な言葉は、あたしの心に何かをブスリと突き刺した。
「…え、何で?」
『美香と稔…それから…結衣は、間違いなく、あんたの人生を狂わせる。』
「…え…っ?」
『有希、結衣に束縛されてるでしょ。』
咲の言葉は、どこまでもあたしの心を突き抜ける。
ここまで分かってくれる心友には、もう出会えないんじゃないだろうか。
「な、んで知ってんの…?」
『あのさぁ、見てれば分かるよ。結衣の話になる度に作り笑いしてるんだから。』
「……。」
言葉が出ない。
咲が、こんなにもあたしを分かってくれていたなんて、思いもしなかった。
『辛い時は、無理して笑わなくていい。自分の気持ちに正直になって?今の有希に足りないものは、“自分の気持ちに素直になる”こと。』
…素直?
あたしは、自分を素直に認められてないのかな。
だから、こんなに辛い思いをするのかな。
「…ありがとう、咲。じゃあ…練習として、この気持ちを聞いてくれない?」
あたしは、溢れそうな涙を堪えて、受話器に向かって言った。
「…あたし、陵が好き。」
初めて、だった。
こんな風に、こんな気持ちで、こんな思いを伝えることが。
だけど、この想いに偽りはなくて。
1年前とは違う、和奈に言った葉への想いとは違う、別の何かが、
あたしの中に…確かに、あるんだ。
『…そっか。葉への想いは吹っ切れたんだね。』
「うん…。いつまでも失恋を引きずってちゃいけないよね。」
『じゃあ…あたしの想いも聞いてよ。』
まるで、目の前に咲が居るみたいに、いつもの優しい咲の声がリアルに聞こえた。
機械音の欠片もない、咲の透き通った声に乗せられた言葉は、
『…あたし、ずっと葉が好きだった。』
…どこまでも、あたしの心を貫いた。
「いつ、から?」
『ずっとずっと前。もう覚えてないや。でも…ずっと好きだったんだ。』
咲の言葉は、どんな言葉も、いろんな意味で、あたしの心を突き刺す。
「…そっか…ごめん、気づけなくて。」
『別にいいよ。これからも、この想い、伝える気ないし。』
どくん、と心臓が大きく鳴って、一瞬、呼吸が止まりそうになった。
「な、何で?」
『何でって、そんなの恥ずかしいからに決まってんじゃん。あっちから告るまで、待つの!』
…「私、待~つ~わ♪」が似合いそうなセリフだ。
いつもの咲に戻ったからか知らないけど、ふっと笑いが込み上げてきた。
夜遅く、月が真上に昇る頃まで、あたしたちは喋り続けた。
「ねぇ、有希、相談があるんだけど…」
1限目後の休み時間、美香はあたしの席に手を置いて、前のめりになって言った。
相談されることなんて、日常茶飯事。
最近では、学校裏情報掲示板に「教祖様」なんて書かれていたりする。
なんせ、男並みの包容力を持つ姉御肌、男子からも女子からも、相談されるわけで。
昼休みなんか、相談しにくる同級生でいっぱいだ。
「いいよ。でも10分休みだから手短にね。」
すると美香は、あたしを屋上に連れ出した。
この既視感…そうだ、あの時だ。
結衣があたしに「応援して」と言ってきたときも、屋上に来ていた。
また、あの悪夢を思い出す。
「有希…落ち着いて聞いてほしいの。」
爽やかな風に吹かれる屋上は、もうすぐ来る、夏の匂いがした。
ショートヘアのあたしには優しくない、強めの風が吹き渡っている。
「…私、有希のことが好きなの。」
一瞬で、真っ暗な視界が、何も聞こえない無音の世界が、言葉の出ない喉が、
感触のない手が、動かない足が、感じたことない痛みが。
あたしの体を瞬く間に、蝕んでいった。
…結衣のことを思い出す。
「私ね、今まで人を好きになんてなれなかったの。誰一人、信用できなかった。」
美香の言葉は、あたしの作動しない脳に残っていかない。
「だけど…有希だけは違った。私、本気で人を好きになれたの、初めてなの。」
…どうして?何で?
「私は確かに女だけど…でも友達じゃ満足できない。」
あたしは、どこに居ても、誰かに束縛されるんだ。
見えない糸で、縛り付けられて、マリオネットのように操られる。
異常なほどのあたしに向けられた愛が、あたしを痛めつけるんだ。
「お願い…私を…見て?」
屋上に予鈴が響き渡る。
だけど、その音すらも、あたしの耳には届かなかった。
心臓が、早く、大きく、体全体が揺れるほどに、血液を流し送っている。
指先が、微かに震える。顔が強張る。
あたしはこれから、どうやって美香に接していけばいい?
無視なんてできない。
分かんないけど、あたしの生き方が許さない。
もう、何もかもが、分からない。
…結衣も、美香も、あたしをどうしたいの?
あたしは確かに、中身は男っぽいけど、ちゃんと女なんだよ。
好きな人だって、居るんだよ?
あたしは、初めて、自分の男らしさを、性格を、恨んだ。
「…有希。」
そんな時、あの大好きな声が。
「授業始まってるのに来ないから、心配するだろ。」
高めだけど、心に響く、優しくて、温かくて、ちょっとだけドキッとする、あの声が。
今、あたしの背後に、聴こえた。
「…陵。」
後ろを振り返ると、あの愛しい陵の姿が、視界に映って。
さっきまで、動かなかった体が急に作動して。
ふっと涙腺が緩んで、冷え切った心から、涙を零してしまった。
「ごっ、ごめん!」
ぱっと、腕で涙を拭おうとするけど、拭えきれない涙が頬を伝う。
すると、急にあたしの体は引き寄せられて、
いつの間にか、陵の体に収まっていた。
「…りょ、う…?」
「…有希に泣かれると、俺が困る。」
「え…?」
「どうしていいか、分かんなくなっちゃうだろ…?」
苦しいくらいに抱きしめられた、力強くて、温かい腕を。
あたしは、強く、信じたいと思った。
…好きだよ。
言ってしまえたら、どんなに楽だろう。
…だけど、言えない。
それは、拒絶されるのが怖いから?葉の時みたいに、なるのが怖いから?
結局は、あたしに想いを伝える勇気がないから?
もう、どれが答えなのか、分かんない。
「…有希は、その男が好きなの?」
その温もりから、一気に引き離される様に、背後から暗い声がした。
感じられる雰囲気は、殺気に満ちていて、あたしは体が凍りつきそうだった。
「何で…?」
暗く、低く、今にも消えそうな、そんな声が、あたしの背中に突き刺さる。
「何で?何で何で何で何で何で何で!?どうして!?」
急に大きくなっていった声は、あたしの心を体を、酷く苦しめた。
「私の方が、有希を幸せにできるのに!私の方が、こんなに有希を好きなのに!」
「美香…。」
「有希は私じゃなくて、その男を選ぶって言うの!?」
美香の顔が、あの時の結衣より辛そうに、歪んでいた。
ポロポロと、美香の目から涙が零れ落ちた。
友達という関係だった時は、その涙を、拭ってあげていた。
だけど、美香の気持ちに応えられない今、拭ってあげることはできない。
「…ごめん…美香。」
あたしが、そう言うと、美香は膝を落として、泣き叫んでいた。
途切れることのない涙は、あたしの心を痛めつけた。
…応えられない。
…あたしは、女に恋愛感情を持つことはできない。
だけど、それが自分への戒めだと思って、ただ泣きやむのを待ち続けた。
すると、美香は、すくっと立ち上がり、あたしの奥を見据えた。
いや、奥じゃない。あたしの背後ー…
「…陵!必ず、お前を殺して、有希を取り返してみせる!」
陵に向けられた言葉なのに、まるで自分の事みたいにびくんと、体が震えた。
…嫌だ…嫌だ、嫌だ!
陵が自分のせいで死ぬなんて、絶対に嫌!
「…俺は、絶対に死なない。泣いてる有希を残して死ねるはずない。」
「有希は、私が守る!泣かしなんてしない!」
「…有希。俺は死なない。だから、泣くな。」
「…え…?」
止まっていたはずの涙が、また溢れていた。
陵の冷たい、ひんやりした手が、あたしの頬をそっと撫でた。
「…有希は…もう、自分を責めなくていい。」
その声が、言葉が、手が、空気が、雰囲気が、存在が。
あたしの冷え切った心と体を溶かしていった。
「…有希、必ず、私が迎えに行くから。絶対に、私の物にしてみせるからね!」
美香は、そんな毒々しい言葉を吐き捨て、屋上を出ていった。
気弱でおとなしかった美香が、あんなに感情的になるなんて。
…怖いよ。
あたしはこれから…どうしていけばいいんだろう?
「有希。」
「…ん?」
「心配しなくていい。俺が…有希を護るから。」
あたしの背中を包み込むようにして、抱きしめてくれた陵の体温を、あたしは直に感じた。
その温もりを2度と手放したくはなくて。
この人を、陵を、本気で好きだと、心が言っていた。