謎のウィルス
小山内が敬愛して止まない男、ロバート・ケインズは薬学博士である。そしてケインズは小山内のことを《友》と呼んている。小山内がケインズのことを話し始めるといつも夢中になってしまう。
「栄二さん、もうケインズ博士の話しになるとほんと止まらないわね。私と彼とどっちが好きなのって思っちゃうわ。本当に、あなたはケインズ博士が好きなのね」
「それはそうさ。ケインズだよ、あのケインズだよ。彼は最高にすばらしい、馬鹿と天才紙一重っていうけどね。天才と超天才も紙一重なんだよ」
ロバート・ケインズ、彼はちょうど小山内より一回り年上である。背が高く、細く見えるが、がっしりとした体格で足が長い。服装のセンスも良く、ダンディで一流品のスーツがよく似合う。笑うことは稀で、沈着冷静、眼光が鋭く、睨みが効く。英雄と称えられる彼は、近くに座るだけで、存在のオーラを感じる。今風のちょい悪オヤジというより、マフィアの幹部といったコワ鋭い存在感なのである。2086年、ケインズが34才のときから、製薬会社リチャードソン&ケインズの、主管研究員兼CEO、を勤めてきた天才科学者である。
ケインズ博士は薬学のエキスパートというだけではなく、正義感が強く、人格にすぐれ、多くの人々から尊敬されていた。アルツハイマー、エボラ出血熱、エイズなどの不治とされた病に対して、根治的薬剤を開発し、数々の滅亡の危機から人類を救ってきたのである。天才という意味では、小山内も同類であるが、それ以外の事は全く対極的な二人であったにもかかわらず、なぜか気が合うのである。人前で笑顔を見せることのないケインズが、小山内の前では人柄が変わったかのように無邪気になり、ジョークを飛ばす。ケインズは戦略的で先読みを得意とする自分の性格に対して、小山内のどんな事にも一途でひたむきである性格を羨ましくもあり、好んでもいた。ケインズにとって、小山内は、自分の心を開放できる特別の存在、唯一無二の親友であった。そして小山内は、彼を、親友というより、人生の師と崇め、心から尊敬していた。地球上で考えられる、あらゆる才能に恵まれていたケインズは、将来を的確に予測しうるほどの天才で、過去の歴史の相似性について研究していた。
2115年1月に63才の誕生日を迎えた時、突然、ケインズは小山内に奇妙な事を話し始めた。
「友よ聞いてくれ、歴史においては、あるおかしな共通点がある。歴史上にある特定の性格をもった人間が出てくるとき、必ず人類は破滅の危機を迎えている。そして今、この時代にもそうなんだ」
自分の悩みや心配事を他人に話すことなど絶対にないケインズであったが、小山内には別であった。そして、小山内とは対照的で、強靭な精神力と行動力を持つ、英雄ケインズは、人類破滅の危機を、黙って手をこまねいている事を善しとはしなかった。
そして5年後、小山内の時空跳躍の発表から10年後となる2120年8月、リチャードソン&ケインズ中央研究所。バイオハザード・レベル3の厳戒体制の研究室では、Z‐PDRウィルスが開発中で、害虫駆除薬品への最終合成の段階にあった。このころの人類は、モグラやウサギなどの小動物による農作物の被害が深刻な状況にあり、世界的な食糧難に直面する危機を抱えていたのである。山間部の乱開発、地殻変動が原因で、餌場を失った野生の小動物が農場の作物を食い荒らすようになっていたためであった。国境近辺ではゲリラによる紛争が各国で勃発しており、世界的な危機に直面しようとしていた。ケインズは、Z‐PDRによって、害虫が駆除され食料供給は20%跳ね上がると予測していた。そして今、動物実験の最終段階が終了したところで、規定量の実験データが揃い、分析結果が揃い、人体への影響の最終チェックが なされている最中であった。ところが、ここにきて、分析を担当する研究員が突然ぼやきはじめた。
「これでは、害虫駆除どころではないなぁ」
翌朝の経営会議では、害虫駆除向けの決定打としての販売戦略を検討することになっていた。チーフ研究員は担当に静かに言った。
「とにかく、レポートを作成しなくちゃあね、データはきっちり分析してそのまま説明してちょうだい。データの改ざんは許されないわよ」
翌朝提出されたレポートは、社長であるケインズにとって、当然、満足できるものではなかった。
「Z‐PDRは動物だけでなく、人類にも感染します。感染力は強いが持続性に弱く、およそ5分以内で自然死滅してしまうため、人体への影響はほとんどありません。しかし害虫動物にも長時間留まれず、害虫の体内だけに長期滞留できるようにするにはまだ改良が必要です」
研究員の報告はつまり、人体に悪影響を与えるだけで、動物を駆除することは不可能という結論である。人類の未来のために、膨大な開発費用を投じた害虫駆除ウィルスはこのまま闇に葬られることになった。人類には大きな打撃であったが、これを理解する人はごくわずかの関係者であって、害虫駆除に興味すら持たない人間がほとんどであった。しかし、この結果に疑問をもった科学者もいた、ケインズの友、小山内栄二56才である。ケインズは当時、ウィルス免疫学の世界的権威であり、製薬のエキスパートであった。しかも、経営手腕に優れ、政治見解にも秀でており、おまけに、正義感が強い人間であることから、米国大統領へと国民の期待が高まっていたほどの人物である。今回のような単純な実験結果などは想定内のはずで、完成間際になって、しかも会社に損失を与え、人類の期待を裏切るような結果をもたらすとは、最もケインズらしくない。
「ケインズ博士らしくないな、何か不測の事態が起こってしまったに違いない」
小山内は5年前のケインズの話しを思い出した、不気味な胸騒ぎを抑えることができなかった。
「まさか、あの奇妙な性格の人間の出現なのか」
そして、翌年の2121年、ロバート・ケインズが69才になった時のことである。世界的な食糧難により、各国間で紛争が相次いでいる中で、人類を破滅へと導くその事件は、アメリカの田舎町で突然発生した。
アメリカ合衆国カリフォルニア州、パロ・アルトの郊外に、世界事情とは無縁の、牧畜農家を営む男がいた。気のいい親父で町でも人気のある50才の働き盛りである。週末に仲間と飲みすぎたせいかどうも気分がすぐれない。
「飲みすぎかなぁ、俺も年だな。さて、牛の様子でもみてくっかな。」
大きな体をだるそうに動かしながら、牛舎に行った。静まり返った牛舎で見たものは、、、、
「おお、なんだ、これは!一体どうなってんだ。」
彼の眼前には信じられない悲惨な光景が広がっていた。
彼の牧場では、昨日まで元気にしていた乳牛120頭が、たった一晩で突然死したのである。その後も突然死は止むことなく、被害は町全体の鶏や犬などの動物へ拡大していったのであっる。そして3週間後、彼自身も衰弱が激しくなり、町の住民からも死者が出始める事態となってきた。何が起こったのか、政府によってバイオハザード対策プログラムが発動され、衛生局と軍隊が到着して町は隔離された。町に残された人々はほとんどが衰弱が始まっており、3週間前に発症した患者は次々に命を落としていった。衛生局によって食べ物、水、大気など徹底的に調査されたが、結果は案外簡単に判明した。政府の当初の予想通り、ウィルスによるものであった。死んだ動物の細胞から簡単に培養されたウィルスは、どの動物からも検出されたためすぐに特定できたのである。このウィルスによる感染症が原因の衰弱死であったのだが、問題はこのウィルスであった。いままで見たことのないウィルスであり、もちろん特効薬はない。町中くまなく感染源の探索が行われたが、感染源は依然と不明であった、このため抗ウィルス剤が開発できないままでいた。分かったことは、このウィルスに感染するとものすごいスピードで人体の衰弱が進み約3週間で死に至る、ということだけだった。
約一ヶ月で町全体の全ての動物が死滅するという予想以上の緊急事態となったが、パニックを恐れる政府は、この町の事件を、家畜に付着したウィルスが突然変異したものであると発表した。そして、ワクチン開発が進められており数週間で提供可能となるであろうという政府コメントが出されたのである。しかし、これとは逆にメディアはこぞって現状を大げさにあおるような報道を繰り返しており、全米を恐怖に陥れようとしているかのような報道に行き過ぎであるとの世論が多くなっていた。現場を見てきたメディアの報道の方が正しかったわけであるが、実際にはメディアの予想をはるかに上回る惨劇が待ち構えていたのである。
アメリカでの怪事件として世界へ報道されてほぼ5週間後にはパンデミックが発生、世界中で同じ感染症が発症したのである。もう状況を隠しておくことはできなくなった、世界は恐怖におちいっていった。
食糧難による世界紛争が続く情勢不安の世の中にあり、今度はウィルス感染である。度重なる人類絶滅の危機に、世界はパニック状態になろうとしていた。 ここに至って初めて人類は自分たちが未曾有の危機に見舞われていることを悟ったのである。
原因は謎のウィルスであり、病名は今まで聞いたことのないものとなった。
《拒たんぱく質症》
謎のウィルスが原因で地球上の全ての人間を含む動物が突然、拒たんぱく質症という難病を発症したのである。拒たんぱく質症とは、たんぱく質を自力摂取できなくなり、しかも分解が進む病気であった。もちろん有効な抗ウィルス剤は存在しておらず治療不可能である。このままでは全ての動物は約3週間で絶滅してしまう、どう考えても時間がない。人類は絶滅に向かう3週間を神に祈るだけとなってしまうのか、もちろん、各国政府はこのXデーの公表を避けた、人類が3週間で滅ぶとなれば世界がパニックに陥ることは目に見えているからである。ところがこの人類滅亡の危機に、再びケインズ博士が立ち上がることとなった。ケインズ博士は、動物性たんぱく質を体内に定着できる形に改良された合成たんぱくを血管に直接投与する治療方法を考案、発表したのである。ケインズの考えだと、この種のウィルスは体内の既存たんぱく質よりもある構造の合成たんぱく質を好み、しかも分解するのには1~2週間かかる、それまでに次の投与が行われれば、その動物は生存可能となるというものであった。リチャードソン&ケインズの研究陣の総力を結集しての開発が進められているとはいえ、あと3週間すれば人類は絶滅し始めるという未曾有の危機である。開発は数日で行われる必要があり失敗は許されない、しかし、ウィルスが一体どんな構造の合成たんぱく質だったら人間のたんぱく質より好むのかそれすら分かっていなかったのである。
絶望の崖っぷちでの研究が開始された、ところが、一体どんな効率的な実験が行われた結果なのであろうか、奇跡的にわずか2日目にしてウィルスが好む合成たんぱく質の構造が見つかり、ケインズのアイデアが現実に向けて大きな一歩を踏み出した。これはまさに神のご加護があったからとしか言いようがなかった。人類はケインズに喝采を送り、彼の不眠不休の研究に一分の望みを託したのであった。合成たんぱく質の分子構造が特定されたので、あとはこれを合成する量産プロセスと合成する核となるたんぱく質、結合させる合成たんぱく質を決定すれば良いのであるが、実はこれはとても難しいことで、通常の新薬開発では数年かかるのが普通なのである。しかも今回は動物たんぱく質を分解し、これに合成たんぱく分子を結合させて、ウィルスの好む構造に作り換えた合成たんぱくにしながら、しかも爆発的に量を増やしていく必要があり、しかも人体に投与して副作用が出てはならないのである。このようなほぼ不可能といえる薬剤量産プロセスの確立を今週末までに作り上げて、翌週から人体投与を始めないと間に合わない、こんなことは不可能なことであった。しかし、既にケインズの頭にはそのアイデアが出来上がっており、さらに、人類の不安を払拭するかのように、世界に向けてメッセージを伝えた。
「動物たんぱく質をたんぱく質の基本構造まで分解することで、一つの高分子タンパク質を約10万の小片たんぱく質に分割できます。これに合成飼料に用いられる粉末肥料を基に作られた偽たんぱく質を結合させることで、大量のウィルスの好む合成たんぱく質を作り上げることができるのです。原料となる動物たんぱく質と偽たんぱく質には有害となる成分やアレルギー成分を含んでいないので、強い副作用やアレルギーは回避されるはずです。今、わが社の研究員が総力を挙げて、量産プロセスの確立を進めております、あと40時間待ってください、それまでに人類の希望をお届けします」
ケインズのメッセージは人類に希望を与えただけでなく、世界をパニックや暴動からも救った。ケインズのメッセージのおかげで、各国は治安を維持することができた。人類はひたすらケインズのプロセス立ち上げを待ち続けることとなった。ケインズのアイデアはすぐに実行されたが、それは、製薬のアイデアとして素晴らしいものであっただけでなく、この合成たんぱく質を量産するためのプロセスには、既存の農薬生成プロセスがそのまま流用できることまで考慮済みであったのである。つまり、数十年かかる製薬プロセスの確立を回避し、翌日にはサンプル製造が可能となり、動物実験まで実施することができたのである。36時間後には動物実験で効果の確認ができた試験薬が出来上がっており、人体細胞でのテスト結果も良好であた。
人体への臨床数はまったく不足であったが、もちろん臨床を増やしている時間はなかった。臨床実験など繰り返している場合ではない、目の前でどんどん衰弱していく重症患者が増えているのである。人体の崩壊が始まった重症患者への臨床実験とも言えるような優先投与が始まった。そして、神はケインズの努力に応えてくれたのである。10時間後には投与した全ての重症患者の崩壊が止まり、翌日には命にかかわる患者はいなくなっていた。この効果はすぐに政府に報告され、リチャードソン&ケインズ社では、合成たんぱく質の大量生産に踏み切った。そして、本当に週末には世界に向けて合成たんぱく質が支給され、全人類への無料定期投与が発表されたのである。人類は、ケインズの天才的なアイデアと彼の会社の研究員の不眠不休の努力により、またしても滅亡を逃れることができたのであった。
しかし、合成たんぱくの原料となる動物性たんぱく質は、生きている動物からしか摂取することができない。拒たんぱく症を発症している動物がどんどん死滅していく中、本当はこの方法は先が知れていた。
ニューヨークの国連本部に、国際栄養推進機構が設立されケインズ博士が就任した、2121年6月のことである。すぐに世界中から動物性たんぱく質が集められ、リチャードソン&ケインズ社にて合成たんぱくとして世界に支給されることとなった。戦争などしている場合ではない、世界が協力して動物性たんぱくを集めなくては人類が滅亡するのである。食料難により各地で紛争が勃発し世界戦争へ一触即発の状況にあった世界は、人類滅亡の危機感の中、国際栄養推進機構の名の下に一致団結したのである。
《我々は、停戦条約を更に発展させ、ここに、和平条約として、永久の平和と両国の親善を宣言するものである。》
この、イラン・イラクの永久和平共同宣言が決定打となり、世界中で停戦、和平交渉が開始された。