未来通信
穣が日本を離れられない事情は、あの部屋にあるパソコンにあった。サーバは世界中からの情報を監視していて、あるメールが入ると、穣はパソコンに付きっきりになる。穣のコンピュータスキルは既に世界に及ぶこととなっており、その道ではかなり知れ渡っていた。さて、穣は、春彦をMITへ入学させる安易な方法はないと分かっていた。もちろんインターネットで調べても、そんなうまい話は検索できるわけがなかった。
MITのメールサーバに入り込むのは穣にとっては簡単なことである。しかしそれでは侵入がバレて、未来に向かって送ろうとしたデータは全て削除されてしまう。逆に小山内教授にメールが届くまでは、MITのメールサーバはウィルスやハッカーから守ってやらないといけないのである。少なくとも誰かに侵入されたという証拠は一切残してはならないということになる。そして、いろいろと調べるうちにイスラエルの友人から、面白いアイデアが出て来た。
「そうだな、ハッキングするから削除されるのだから、ハッキングしなければいいわけだ。それは、メールサーバそのものを立ち上げて、それをMIT内に設置することさ。あとは、間欠的にメールを発信すればいいわけだ。ファイヤーウォールの内側にサーバを設置し、メール発信以外の機能を一切停止しておけば100年たってもウィルスに感染することはない。もちろんメールはMIT内に向けて発信される、無効なアドレスでメールが戻ってきたら、破棄すればいい、このあたりは今でも多くのジャンクメールが同じ手法を使っている。もちろん、他のサーバに引っかかることもないし、MITのメルアドを取得する必要もない。100年間設備がいじられることのない場所さえ見つければ、誰も気がつかないまま、密かにメールを送り続けられる」
「うんなるほど、これならいける」
穣は、次に、ボストン近くに住んでいる二人のハッカーに的を絞って、本来の目的を伝え、協力を求めていた。ネオとジャックの二人である。穣はこの世界ではJと呼ばれており、かなり有名なハッカーで脱出屋であった。彼らはJからの依頼とあって、しかも時空を超えた冒険と恋人の命を救うストーリに魅力も感じ、快く引き受けてくれた。
数日後、春彦の家に留学に関する資料をかかえた穣がやってきた。穣は春彦がMITに一発合格するのは不可能なことも知っているし、時間がないことも理解していた。その上で、高校への復学とMITへ留学できるシナリオが出来上がっていた。
「すっげえな、やっぱ穣って天才っす」
失って初めてわかった、奈津子という支え。四面楚歌の状況にある春彦を、今度は穣と世界中のハッカー仲間が支えてくれていた。春彦は嬉しかった。
「そうだ、俺は一人じゃないんだ。今までだって、これからも一人じゃないんだ」
春彦は周りの全てに感謝したかった、このことに、一人ではないことに気付かせてくれたことに。
穣が説明を始めた。
「春、ちょっと演技力必要だよ。まあこれでMITの学内には入れそうだ。あとは、どの建物があと100年通信工事なしに済むのか、これを突き止めなくてはならない」
確かに穣のストーリ通りに事が運べば、確かにMITへ潜入できるチャンスは出てくるが、今度は家族や学校が驚くことになった。
突然の春彦の主張に学校側は寝耳に水で、大騒ぎとなった。
「先生、俺、ずっといじめられていました。そして担任は知っていても知らんぷりでした」
もちろんまともに学校に行っていない春彦にそんな事実はなかった、しかし、イジメを隠蔽した学校ということで世間に公表されれば、普通レベルの私立学校にとっては相当ダメージが大きい、小子化の傾向にある今日ではこのような風評は致命的である。というわけで、穣の思惑通り、学校側の態度は一変したのであった。しかも、事なきに徹する時の学校の対応は素早いものがあって、事務手続きなど時間かかることは全てすっ飛ばしてくれたのである。翌日には、すぐに校長と担任がやってきた。
「春彦君の留学についてですが、この際、環境を変えることもいいことかもしれませんよ」
土日に補講をうけ、残りの夏休みを全て返上してテストも受けて、むりやり単位をもらうことになった。
9月は、アメリカの新学期である。裕福な家庭の留学生は来年の進学に向けて10月から語学訓練のための準備に入るのである。このためボストンの10月は語学スクールの開講ラッシュとなる。2020年9月、春彦は単身ボストンへ渡った。春彦は海外は初めてであったし、数週間前まで引きこもりで人と話すことすらできなかった人間である。成田ですら不安なものがあったのに、ローガン空港に降り立った春彦は、しばし呆然とした。不安と緊張で頭はぐわ~んとなり、目眩がしていた。
「足が重い」
それでも、歩こうとしていた。奈津子への想い、ただそれだけが今の春彦を支えていたのであるが、それは、十分なパワーを春彦に与えていた。突然、怪しい黒人が親しそうに話しかけて来た。ボストンバッグを盗まれそうになったり、チップを請求されたりといきなり、アメリカの洗礼を受けた、その時。
「春彦、こっちだ」
と腕を引っ張る青年がいた。モノレール乗り場まで連れて行ってくれて、ケンドールの宿への行き方まで親切に教えてくれた。春彦のパスポートを見ながら、
「春彦、地下鉄を乗りこなせるようにならないとな」
そう言い残すと、マイク・ケレハーと名乗るその青年とは、モノレール乗り場で別れた。空港からモノレールに乗るだけでも一苦労である、地下鉄などわかるはずがないが、なんとか、MITとハーバード大学との中間に位置するケンドールにたどり着いた。ここに宿を予約しておいたのである。
しかし、宿に入る前にハーバードにある語学スクールの入学試験を受けなくてはならない。このスクールはハーバードでも伝統ある一流語学スクールで、穣からは、ここでなくてはダメだと強く言われていた。でも、何故?なにしろ名門である。倍率は10倍をゆうに超えていそうな受験者数であった。マークシート回答用紙に、自分の名前とパスポート番号を書き込んだものの、あとは悲惨な状況であった。無試験で入学できる語学スクールもあったのに、、、。春彦は後悔していた。夜になって宿に入ると、大家さんが友人を紹介してくれた。この宿には、ハーバード大学院生である穣のハッカー仲間が住んでいた。
「あっ、マイク」
空港で春彦を助けてくれた、あの、マイクであった。
「マイク・ケレハーだ、実は俺がネオね、Jから全て聞いている。よろしくな」
どうやら、穣はハッカー仲間からはJと呼ばれており、本当に相当有名らしい。
「ふざけた奴だ」
と春彦は思ったが、試験の後で、顔が引きつって笑えなかった。
「入学試験はまずは不合格だ、これで穣の計画が水の泡になる。みんなの協力もパーだ」
そうはいっても、春彦はつい最近まで、引きこもりの鬱状態にあったわけで、彼の語学レベルでは、伝統ある語学スクールへの入学など到底不可能なのはしかたのないことである。しかも、昼の入学試験ではミラクルは起きなかった。はっきり言って、出来が悪かったことを、ネオに正直に話して謝ると、ネオは笑って言った。
「おまえはもう合格している。不思議かい?だってJが直接動いたんだぜ、こんな事どうってことないさ。俺たちはなんたって、あのJと仕事しているんだ、こんな名誉なことはないんだ」
実は、ネオは春彦のパスポートナンバーをチェックした後、ジャックへ連絡していた。ジャックのフランス人の彼女がこの語学スクールに通っていて、内部に精通している。語学スクールのサーバへ侵入し、春彦の入学試験のマークシートの集計が終わった時に、春彦の結果をすぐに書き換えて合格にしておいてくれたのであった。
「まったく、穣はすごい奴だ」
と春彦は思った。春彦は、語学に加え、宇宙物理学、電子回路、ITネットワークの勉強が必要であったが、これらも、穣がネオとジャックへ頼んでおいてくれていたのだった。もともとMITに合格などするつもりの無い春彦である。TOEFLの英語テストや、入学試験に必要な受験勉強などは一切やっていない。目当ては穣の計画通り、翌年3月に開校されるMITスプリングスクールであった。
3月に開校するMITスプリングスクールは、高校在学中の成績がA、日本では4.0以上であることと学校推薦、さらに面接テストが課される。春彦のスプリングスクールへの参加は不可能であった。しかし、昔からの伝統で、春彦が通っている語学スクールからは推薦だけで参加できることになっていた。
「みんないろんな才能を持っているんだなぁ。俺はどうかな。奈津子を助けることができるだろうか。」
奈津子はいつ容態が悪化しても不思議ではない。春を迎えることが難しいと医者に宣言されていた。今は、ICUでかろうじて息をしてる。機械によってなんとか命をつなぎとめていた。
そして、2021年3月
スプリングスクールに参加するやいなや、春彦は、大学のあらゆる施設のサーバールームへ直行した。更にMITの学内の研究室のいくつかにも。どこに、どんなサーバを設置すればよいか、ジャックがすべて教えてくれた、彼はMITの学生であった。彼に助けられながら、ウェブサーバを設置していった。目的は、100年後に向けてのメール送信である。大学のネットワークを利用して、春美の父、小山内栄二に向けてメールを送ることである。小山内のメールアドレスも定かではない、設置したウェブサーバは、60年後に再起動がかかり、ここから毎日すこしずつ、50年間、いろんなメールアドレスへ向けて発信し続けるようになっていた。
「C60@C240@C540多重フラーレンによる時空跳躍について」
春彦は焦っていた。
「メールが100年後の、小山内教授に届けば、すぐにでも、助言してもらえるはずだ」
桜は散っていた。奈津子の最後が来ようとしていた。時間との戦いであった。春彦は、待ち続けた。
さて、穣はJと呼ばれていて、ハッカーの間では有名な脱出屋であった。脱出屋というのは、自分でハッキングを実行することはしない。世界中のハッカーの中には、ほとんどは悪質であるが、そうでないハッカーもいるのである。情報を隠蔽し不正を行っている者、そういう者から情報を引き出し警察、メディアへ情報を流すことに協力しているパソコンスペシャリストたちもハッカーの部類に入る。こういう連中は、危険を犯しても情報を引き出そうとするが、相手はだいたい一般人ではなくて、政府、圧力団体、マフィアなど特権階級の人たちである、セキュリティシステムも強固だし、侵入者を特定して抹殺するためのしくみも整っている。このため、ハッカーはいくつものサーバを経由して痕跡をわかりにくくし、目的のシステムへ侵入している。離脱するときも痕跡を一切消してくるのだが、先に感づかれると、逆に経路情報を抜き取られ、どの経路でアクセスしてきたかが分かってしまう、そうなると、誰がハッカーかがバレてしまうわけで、これはすなわち命にかかわってくるのだ。このため、危ないアクセスの場合は事前にJに警護の依頼が入るようになっている。Jはハッカーの侵入を監視していて、逆探知されそうになると、そのハッカー回線を切断し、Jが相手のサーバに残っている経路情報をニセのものに書き換え、痕跡を消すのだ。だから使命感のあるハッカーはどこを狙うかを必ずJに連絡してきて脱出を手伝ってもらうのである。
「どうやって、Jは痕跡を消すんだい」
宿に入ってすぐに春彦がマイクに聞いた。
「自分で無事に離脱できれば問題ないんだ。問題は情報をダウンロードしている最中に監視システムが経路を突き止めることなんだ、繋がっている間に経路のログをとられては一巻の終わりだからね。Jはね、ログをとられはじめると途中のサーバからニセの情報を与えるんだ」
「Jが操作できるサーバがあるってことかい?」
「そこは、俺にもわからない。でもJはほとんど世界中のサーバに制御プログラムを仕込んでいるんだと思う」
「それって、ウィルス?」
「サーバの管理会社にとっては確かにウィルスだね。俺たちにとっては大事な機能だが」
「追跡にはニセの情報を流して、本人との接続には本当の経路をつなぐのか?」
「ああ、そうらしい。Jは他にもいろいろな脱出方法を知っていて、これまで多くの人を助けてきたんだ」
結構、穣って信頼されているんだなぁと春彦は思った。とにかく今は、小山内教授にメッセージが伝わったかどうかが重要だ、自分も穣を信じるしかないと春彦は思った。
スプリングスクールが始まって約一週間後、夢を見た。春美の夢ではなかったが、メールが届いたというイメージが伝えられた。
「よかった、成功したんだ。」
そして、メール通信ではなく別の方法での送信が必要であると伝えてきた。回路図のイメージがあって、これを作れと指示しているようだった。それは春彦でも十分に理解できるような簡単なもので、未来との通信方法であった。その方法とは、春彦が拍子抜けするほど原始的な方法である。様々な周波数が混ざったピンクノイズというものがある。ラジオを選曲していてサーという局間ノイズのあれである。このピンクノイズをサイン波の合成で作り上げると、一見はノイズだが、よく聞くとうねりを持った、一定のノイズであることがわかる。このピンクノイズにデジタルデータを周波数変調させる。これを決められた場所に設置しておくと、小山内教授は未来でこの電波を受信すればいいのである。実際には、アンテナを近づけばそのノイズのような信号を受信することができる。あとは、ピンクノイズを除去すればいいのであるが、通常はピンクノイズは不可逆であるので分離は不可能であるが、正弦波を合成して作ったニセピンクノイズなら、未来の小山内が同じものを作り出すことができるのであった。そして、これを逆相で重ね、検波することで、デジタルデータだけを取り出すことができるのである。普通には、短波放送の局間ノイズにしか思われない。発信装置はMITのホールの横の像の下に埋められた。この像はおそらく100年後もそのままなのであろう、この像に向けたスポットライトから電源を持ってくることで、誰にも気付かれずに信号を発信することができるわけである。
「こんなもので大丈夫かなぁ」
「ちょっとかしてみて」
マイクが受け取ると、説明しだした。
「これはまあ電波やメールが未来へ届くというものではないな、まあタイムカプセルみたいなものさ。手紙やCDなんかは壊れたり盗まれたりする可能性がある。これなら電波を傍受されても誰も気付かないし、取り出さなくても近くで拾うことができる。未来の小山内教授なら研究室にいながらこの装置と常時通信できて、簡単にここから情報を引き出せるはずだ。でもなぁ、メッセージを作りだすのが大変だからちょっと細工しとこう」
そういうとさっさと自分の部屋に戻ってしまった、そして次の朝。
「春彦、できたぞ、これを埋めておいで。メッセージはパソコンで作成して、このアンテナで送りこむことができる。この装置は受信はしても発信はピンクノイズだから誰にも気付かれない」
春彦はこの連絡装置を使って、奈津子が怪しい光に襲われて、意識不明の重態であることや小山内教授の発明の詳細について、夢で見て覚えていること全てをメッセージに託して送信した。未来からのメッセージはあの不思議な光で夢となって運ばれてくる。春彦から未来へのメッセージはあの連絡装置で送信できる。こうして、現代と未来の不思議な交信が始まった。