七夕の届かぬ想い
2020年6月、関東中央病院の脳神経外科病棟で奈津子は目覚めることなく眠っている。あれは原因不明の脳内出血であった。何が起こったのか、結局、誰にも分からなかった。春彦自身も何が起こったのか、全く理解できていない。奈津子がいないということがどういうことか、を理解できないまま下北沢の街を、一人で当てもなく彷徨っていた。春彦の頭の中は、だんだん奈津子のことで一杯になってきていた。溢れ出る奈津子への想い、奈津子の記憶が、霧に写る走馬灯のようにただぼんやりと、ただぐるぐると回っていた。するとふと妙な変化に気づいた、あの誰も知らない光である。ときどき見かけるあの光は、気にしなければ全くわからないような一瞬の光であるが、確かにそれは存在した。そして、この不思議な光を見た日から、毎晩忘れていた奈津子の思い出を夢で見るようになってきていた。
夢の中に出てくる女性は成長していたが、間違いなく奈津子であった。春彦にはちょうど30才くらいのお姉さんになった感じに思えた。しばらくするとあの不思議な光は、商店街の路上だけでなく春彦の部屋の中でも見るようになってきていた。夢の中での奈津子の微笑みに次第に春彦の心は癒されていった。そして、夢で奈津子と会うことが、日に日に楽しみになっていったのである。夢はとても具体的な未来だったり、奈津子との昔の思い出であったり様々なイメージであったが、朝目覚めるとあまり覚えていなかった。特に会話の内容は記憶に残っておらず、断片的なイメージだけが強烈に残っていた。それでも奈津子のことを思い出すには十分な刺激であった。時には小学生の時に羽根木公園で奈津子と遊んだことや、下北沢の駄菓子屋で二人で当たるまでくじを引き続けたことなど、とっくに忘れていた記憶が夢となって蘇ってきた。
(奈津子だ、介護人じゃない。そうだ、奈津子だ)
ようやく、奈津子の事を思い出しはじめた春彦であった。しばらくすると、夢の奈津子は春美という名前になっていた。春美の名前は夢で話していたようだが、目覚めるとあいかわらずあまり覚えていなかった、いくつもの夢を経てようやく春美という名前を朝まで覚えていたのであった。そしてその後も春美と毎日、夢の中ではあるが、二人で野原を駆け回ったり、デパートでウィンドウショッピングしたり、海岸で寄り添ったりしていた。そしてついには、、、春彦は、春美と夜を共にするようになった。春彦にとっては夢の中の春美は間違いなく奈津子であった、それほど奈津子そっくりのイメージであったのだ。
奈津子の事故から1ヶ月後の2020年7月。春彦は、夢で春美と夜をずっと過ごすようになっており、一日中ベッドから出ることがなくなっていた。親が見る限りでは、病状はますますひどくなってきており、引きこもりが深刻になっているように思われた。春彦の中では、奈津子への思いと夢で見る春美は完全に重なっていた。寝ているのか起きているのか、昼なのか夜なのか、夢か現実か、春彦にはもう分からなくなっていた。昔の奈津子の思い出に溺れ、未来の春美に快楽を委ねていた。そんなある日、春美が急に奈津子の容態のイメージを告げ、助けを求めてきたのである。そのイメージは奇妙にも、非常にリアルで、奈津子の入院している関東中央病院でのやり取りの様子であった。春彦には、奈津子の両親の姿が見えた。
(あ、おばさんが泣き崩れている。おじさんの右手がおばさんを抱きかかえていて、左手は硬く握り締められている。おじさん、震えているみたいだ。)
医者が奈津子の両親に説明していた。
「奈津子さんは、残念ですが、回復の見込みはありません。 脳内出血の痕が、あまり良くありません、原因不明のため、手術もできないんです。ICUへ移りますが、せいぜいもって、あと半年、春まで、といったところです。申し訳ありません。残念ですが、手の施しようが、、」
今夜現実に起こっている奈津子の容態を、テレビで見ているかのようなリアルなイメージだった。生々しい状況を夢で見る事となった春彦に、今度は春美が話し始めた。
「春彦さん、お願い。
大切なものは何かを考えて。
人は、不完全で弱いわ。
不完全だから、努力するの。
弱いから決意するの。
春彦さん。
あなたは
今、進まなくてはならない。」
春美は真剣な顔つきだった。
「だから、考えて、
今、しなくてはならない事。
今、あなたに必要な決意。
もう時間がないの。
春彦さん、私たちを助けて!」
春美は切羽詰った様子だった。
「お願い、時間がないの。」
「春美っ!」
春彦は自分の寝言で目を覚ました。断片的ではあったが、春彦は夢の中の、あの春美の訴えを覚えていた。春彦の中の奈津子の記憶が蘇った、そして、引きこもりの間ずっと献身的に介護してくれた介護人が奈津子であり、自分がどうなっていたのかようやく理解できた。そして自分の奈津子への思いも。
高3なのに自分のために夏休みにバイトまでして付き合ってくれていた奈津子の想いが、中学からの6年分の奈津子の想いの証となって春彦に重く鋭く襲い掛かってきた。
「奈津子、、、」
春彦の何かが吹っ切れ、ゆるんだネジが巻き上がった。6年間の奈津子の春彦への一途な想いの累積は、目に見えないが何よりも強大な力となって春彦の閉じこもっていた殻を打ち破った。
「くそっ、俺は何をやっていたんだ!奈津子、こんなにお前がそばにいてくれていたというのに」
悔しさとふがいなさで、握り締めたこぶしには血がにじんでいた。うつによる外に出かけることへのプレッシャーより、自分に対する許し難い怒りが我を忘れさせていた。面会時間をとっくに過ぎた、明け方未明、バイクの音が一番街商店街に響いた。
2020年7月7日未明。七夕の朝の病棟は静まり返っていた。出入り口は施錠されており、ナースステーションには看護婦も見当たらない。春彦は救急病棟の非常口から入ると、奈津子のいる一般病棟へ忍び込んで病室へ走って行った。
「奈津子?」
奈津子は病室にはいなかった。病室を出て左を見た瞬間
「まさか、こんなことが!」
春彦の脳裏に浮かぶあのリアルなイメージ通りの通路が、今、目の前に現実となって広がっていた。もちろん、左の通路を歩くのは初めての春彦である。初めて見る場所のはずであるが、その光景はあの夢と全く同じであった。春彦は催眠術で操られるかのように、イメージ通りに道順を歩き出した。階段を下りて、右、ドアはロックされていて、IDは46894637、パスワードは00937645、Enter。アルミの分厚い自動ドアが開くと、そこには集中治療室と書かれていた。
「ICUだ、まさか、夢の通りだ。」
実際、奈津子はICUにいて、症状は安定している様子で眠っていた。ヘアネットに防塵服を着てICUへ入っていくと、そこから奈津子のベッドが見えた。この瞬間、春彦にとって春美は夢に出てくる奈津子の思い出では無くなった。
「夢の通りだ、あれは、春美から自分へのメッセージだった。春美は夢ではなくて実在するに違いない。春美が奈津子のイメージを使って何か重要なメッセージを俺に伝えてきたに違いない」
春彦はそう確信したのである。奈津子のベッドへ向かおうとすると、控えの部屋では家族が看病に疲れきった様子で眠っていた。
(俺さえいなければ、、。)
眠っている家族に深々と頭を下げた。大好きだったおばさんの、肩からズレ落ちたタオルケットを肩にかけなおしながら、春彦は涙が止まらなくなった。そして奈津子のベットの方へ向かった。奈津子は静かに眠っている、ただそれだけのようだった。決して目を開けることのない奈津子、眠れる森の美女に向かって春彦は言った。
ごめんな、奈津子、俺が助ける、きっと助ける。
はっきりと分かった、ずっと君が好きだったこと。
はっきりとわかった、大切なものが何か。
はっきりとわかった、何をすべきか。
ありがとう、奈津子、もう、俺は逃げない。
愛してる 奈津子。
七夕の朝、二人の思いは、互いに届かぬ形で通じ合った。
それから春彦は、夢で春美に話しかけようとした。春彦はどうしても聞かなくてはならなかった、助けてと訴えた意味は何だったのか、春彦はいったい何をしなくてはならないのか。しかし、何度見ても夢というものは、思い通りになるものではない。夢での春彦は、自分で腹が立つほど、相変わらず能天気で、春美との快楽の夜を過ごしていた。奈津子のいない街へはすっかり出なくなっていたのであの光を見ることはなかった。そしていつのまにか、あの光は春彦の部屋でもあまり見かけなくなってきていた。
そんなある日、夢の中で春美が言ったことを目覚めても覚えていた。
「私は今、29才。28才のとき、父、小山内栄二のいたアメリカへ渡ったの。父はMITの教授をしていて、C60@C240@C540型多重フラーレンTMR素子を使った時空跳躍理論を完成させたの」
これは2020年の人類が決して知ってはならない事実であった。春彦の夢は、未来から転送されてきたフラーレンの中に封入されたナノマシンが春彦の脳の海馬を直接刺激した結果であった。毎晩、春彦の部屋で見た光はフラーレンが到着した瞬間だったのである。
「MITか、いったいいつのMITなんだろう。時空跳躍理論って?」
春彦は呟いた。
「なぜ、時空跳躍理論の話しなんかが出てきたんだろう、そんな理論は聞いたことがない、何故だ?」
春彦はいろんな可能性を考えた、春美の言葉が自分のやるべきことに関係あるはずだと思っていたからである。
(春美の言っていた父親の小山内教授と連絡を取ることがやるべきことのようだ、しかし、何を伝えるのか、理論を完成させた本人に理論が完成します、って伝えることがそんなに大事なのだろうか)
春彦にはとても不可解なことであった、普通に考えればそうである、放っておいても小山内教授は勝手に時空跳躍理論を完成させるだろうし、自分がそれを伝えても何かが変わるわけではない。しかし、それでは春美があんなリアルなイメージを送ってまで、助けて、と訴えてきた意味がない、何かあるはずである。そういう思いを春彦はぬぐいきれず、ずっと考え続けていた。そして、自分の今の状況と、決意すべきこととのギャップの大きさに改めて気付く春彦。一人ではどうしようもない状況にあり、いつもなら、現状逃避していた春彦であった。しかし、今ここには、引きこもりの春彦ではなく、奈津子の一途な想いに触れたこれまでと違う春彦がいた。
春彦は久しぶりに友を訪ねた。
「穣、覚えているかなぁ」
ピンポーン、
ドアホンの向こうから、佐々沢穣の母親の声が聞こえた。すぐにドアが開いた。
「春ちゃん、本当にあなたなのね。元気になったのね、そう、良かったわ、見違えたわよ。さあ、あがって、あがって。穣、穣、春ちゃんよ。さあ、早く」
穣の家に行くと家族は驚いていたが快く迎えてくれた、それだけでなく、出歩けるようになった、そして見た目も元気になった春彦の回復を、心から喜んでくれた。階段を思いっきり駆け下りる音がした。
「春、春じゃないか、元気になったんだ。ほんと、5年ぶりだよなぁ。」
思いつめた顔の春彦を見て、穣は、はっと息を呑んだ。深く一息つくと、落ち着いた低い声で穣が言った。
「あ、思い出したのか、あがれよ、話そう。」
穣の部屋は春彦とは違ってきちんと整理整頓されていた。一般家庭ではめったにお目にかかれない水冷のサーバマシンがデュアルディスプレイに繋がっていた。ほかにも自作のハイスペックパソコンが三台、画面には映画で見る様な、世界中の政府情報組織のログイン画面が表示されていた。
春彦にはテロリストのアジトにしか見えないような部屋であった。穣はそんなに必死で受験勉強をしているというようには見えなかった。
「目を見ればわかるよ、正気に戻ってナッチンのこと思い出したんだな。あれは何なんだ、ナッチンに何があったんだ」
春彦は、話し始めた。
「穣、たぶん信じないと思うけどな、、、」
延々と、夢の話を聞かされた穣は、たまったものではなかったが、奈津子のために影になって、奈津子を守り続けてきた春彦のことを知っている穣である。穣は今でも、春彦の親友であった。
(犯人が春であるはずがない)
穣にとって、奈津子の事件はどうも腑に落ちなかった。
「なあ、ナッチンのためなんだろ。春は昔から、ナッチンのことになるとなぁ。」
春彦の夢物語を否定することなく受け入れた穣であった。
「春美って名乗る未来の人間がナッチンのイメージを使って、春に接近してきて過去の世界で何かをさせようとしているってわけだ。ミステリーだな」
「何で未来って分かる、なんで過去にこだわっているってわかるんだ」
「時空跳躍理論なんて、現在の技術ではとうやっても完成できない、相対性理論によってタイムマシンの可能性が見出されたが、逆に現状では光速を超えられないのだから不可能が立証されているのと同じことなんだ。時空跳躍っていうのはタイムマシンのことだと思うんだ。未来の人間が過去の人間にその時空跳躍を何とかして欲しいって思っているんじゃないのかな」
「そうかもしれない、でもそのためにわざわざ、奈津子のことを思い出させて、ICUまで連れて行って、そんなことまでするかな」
「そこなんだ、どう考えてもその春美って未来人は春を助けようとしている、自分が助けて欲しいのなら、たとえば春じゃなくって俺の方が手っ取り早い、自分の危機よりも春を助けることを優先しているように思うんだ、だったら、これは春の未来に関係あることだからに違いないと思う」
「俺もそう思ったんだ、じゃあ、俺の未来で時空跳躍理論が関係するってことになる」
「いやそうじゃあない、たぶん、春の未来じゃない、これはもっと先の人類の未来だ」
「人類の未来?」
「ああ、春が生きている間の未来じゃないってことさ、おそらく春美って未来人は今よりはるか未来の人間で、その未来では小山内って教授が時空跳躍理論を完成させた、そのことを、、、なんだろうね」
「そうか、はるか未来か、じゃあ、俺の役目はこれしかないな」
「え、役目って?」
「小山内教授に時空跳躍理論を完成させるのはあんただよ、って教えることだ、これは未来の出来事を知っている過去の人間、つまり俺にしかできないことだ」
「そうだがなあ、春さあ、放っておいても小山内教授は理論を完成させるぜ、、、あ、そうか、パラドックスか!」
「ああ、俺が小山内教授にヒントを与えないと、時空跳躍理論は完成しないんだよ、そして、時空跳躍理論が完成しないと未来の人類に大変なことが起こる」
「なるほどつながったな。それでどの時代の小山内教授なんだい?その時代さえわかれば、メッセージを置いとけばいいんだから簡単じゃないか」
「それが、穣、わからないんだ」
「え、わからないって?」
「わからないんだどの時代か、夢で質問したくても自分が寝ている間に、自分の夢を意識的にコントロールできない」
「まあ、そりゃそうだわなあ、で、どうするんだ」
「だから穣んところにきたんだろ」
「そうだったね。まあ、そんな大変じゃないかもな、何度も手紙を書けばいいわけだよ」
「何度もって、誰が?俺が死んだら誰が書くんだ?」
「こいつさ」
穣がそういって、パソコンを指差した。
「電子メールを出せばいいんだ、それを小山内教授当てに期日指定でメールを送ればいいのさ、メールには到達指定ができる、今から100年分くらいのメールを送りつければいいのさ。メルアドはわからないから小山内と思われるメルアドを適当につくって送ればいいんだ。だめならリターンメールでもどってくるだけ」
「なるほど、ひとつかいとけばあとはパソコンが自動的にやってくれるってわけだ、よし、さっそくとりかかろう、穣」
「それがねえ、春、この方法にはちょっと問題がある、春じゃないとできないことだが、春には難しい」
「なんだい、それ」
「インターネットにはファイヤーウォールってのがあって、怪しいメールはこいつが全てはじいてしまうんだ。簡単にはMITのメールサーバに入れてもらえない、もし今から100年先だと仮定すると、ファイヤーウォールは今よりもっと進んでいるはずだから、外からメールを送るなんて考えてはだめなんだ、100年後までまとめてメールを出しておくというのは実際には不可能なんだ、これを可能にするには、サーバー管理者になって100年間有効なMITドメインの学生メルアドをバレないように登録しておかなくてはならない。そのためには、MITの職員にでもなるか、正式にMITに合格して学生パスを取得しないとだめなんだよ」
「そうか、職員になる年齢じゃないから、合格目指せってことだな、じゃあ俺がやってくる」
「だから、無理なんだ」
「なんで?」
「お前、英語しゃべれないだろ」
「へ、、、」
確かに、いくら小学6年の春彦が優秀だったとはいえ、小学生の英会話は英語歌程度であった。そのあと6年間、英語どころか日本語さえも話したことがない春彦であった、英語どころか日本語だって怪しいのである。これは春彦にとってはどうにもならない超えられない壁であった。
「俺が代わりに受けてやりたいんだが、今は日本を離れられないし、代役では歴史に影響を与えるかもしれない、だからメッセージを受け取った春が直接やらないとだめなんだ」
「穣、お前、どんなことやってるの?」
「今は教えない」
穣は穣で、事情があって動けないらしい、アメリカに行くだけでも一苦労のはずだが、英語が話せなければもうどうにもならない。
「MITに入学っていってもなぁ、これも簡単じゃあないけど、その前に高校卒業が前提だからなあ。春の学校だと、どう考えても推薦してもらえないしな。その上、今のままだと87日出席日数が足らない」
「え、知ってるの?」
「ああそうだよ。春のことを気にしているのは奈津子だけじゃないんだぜ」
そういって、穣が春彦の両肩をたたいた。
「そ、そうか、ありがとうな、穣」
穣が窓を開けながら、春彦に言った。
「ナッチンねぇ。だいたい、今頃気が付く奴がいるかって~の」
春彦は穣の言うとおりだと思った。
「確かにな、高校に行っていないんだから、大学の前に高校だな。」
出席日数も足りなければ、単位も足りない。いろいろ相談したが、
「え、滝沢がMIT?」
学校も家族も全く相手にしてくれるわけはなかった。