科学者・小山内栄二
奈津子の事故から69年後の2089年のボストン。小山内栄二は25才の誕生日の朝を、ここMIT(マサチューセッツ工科大学)の宇宙物理学研究室で迎えていた。
「3月14日かぁ、え~っと、25才だっけな」
ぶつぶつ独り言を言いながら起き上がってきたこの男、小山内栄二は研究の事しか頭にない大学院生だった。そして好奇心が強く、とことんやらないと気がすまない性格だったので、世界中の天文台の観測データを自由に利用できる理想的なMITの研究環境は逆に彼には苦痛となっていたし、大学にとっても迷惑な事であった。なぜなら小山内の性格上、世界中の天文台にある天文データを全てチェックしないと気がすまなかったからである。
こんな膨大な量のデータ解析にMITのスーパーコンピュータはフル稼働の状態を続けてなくてはならなくなった。さすがにMITといえども、他の研究者から苦情が殺到するのは当然の結果であって、学校としてもこれをいつまでも放っておくわけにはいかなかくなった。もはや小山内一人の問題ではなくて研究室そのものの存続のために小山内は研究テーマの変更かスーパーコンピュータの利用中止の二者択一を迫られていた。
この件については、月曜日の教授会での対応策説明が求められており、担当教官は研究テーマの変更を申し出る手はずになっていた。そして月曜日になると、たまたまというべきか、前日からの悪天候で、朝になってみると濃霧がたちこめていた。このためイギリスから帰国中の学部長の乗っている飛行機がローガン国際空港へ着陸できず、教授会へ出席できなくなってしまったのである。そして急遽、学部長の代役として、なぜかマサチューセッツ州の教育省副次官が出席することになった。そして教授会で小山内の件が審議される番となり、小山内の研究テーマ変更によるスーパーコンピュータの一般利用率向上について、担当教官より説明がなされたのだが、、、
「その研究は、やめてもいいような研究なのかね?」
それまで退屈そうにうなづくだけであった副次官が突然質問を切り出した。そこで担当教官は、
「これは宇宙の起源に関わる研究であり、もし解明されればわが国は宇宙物理学のトップに立つことができます。宇宙開発のイニシアチブをとれる可能性のある研究なのです」
いきなりふられて、こう力説するしかなかった担当教官であったが、本当にその可能性があるのか、教官には疑問であった。
「それでは、続けなさいよ」
副次官のさりげないがとんでもない発言に、担当教官は驚きながらも、代替案を瞬間的に思い描き、話し始めた。
「ありがとうございます。それではスーパーコンピュータの利用について再度見直し、より多くの研究員が利用できるような計算プランを提出するために一週間いただいて、、、、」
「やめたまえ。私が言いたいのはそうではなくて、スーパーコンピュータが不足しているってことなら、スーパーコンピュータをもう一台買えばいいじゃないか、と言ってるんだ」
「はあ、しかし、、、」
「予算はつけよう、このことは来週の州議会での議題にするから、利用と効果に関するシナリオを今週末までに私に提出してくれたまえ」
小山内のわけの分からない研究のためにスーパーコンピュータを買ってくれるほど、アメリカは自由な国ではないし、気まぐれで予算をつけてくれた副次官でもない。これには政治的な裏事情があった。
この時代では日本に押されているコンピュータ技術ではあったがCPUなどコア技術はいまだにアメリカが独占していた。今のうちに超高速スーパーコンピュータにおける日本の牙城を切り崩そうと、米国政府はスーパークレイロジック社との国家研究に多大な投資をしており、この結果生まれたヘキサ・コンピューティング・ベクトル・プロセッサを用いた超高速スーパーコンピュータの導入先を模索している矢先であったのだ。一億ドルの投資である、うかつな研究施設に入れるわけにはいかない。格好の理由が欲しいところに、NASAの共同研究機関でもあるMITでのコンピュータ能力不足の課題が持ち上がったのである。宇宙開発というテーマも、まさに渡しに船というナイスタイミングであったのだ。
「あの副次官は気に入らないけど、濃霧には感謝だなぁ」
日本の牙城を崩すという、小山内にとってはあまり心象よろしくない内容ではあったし、タイミングが良すぎることも気にはなったが、スーパーコンピュータを継続してほぼ独占使用できるようになったことは有難かった。
小山内はますます研究室に寝泊りすることが多くなったが、もともとテレビも新聞も見たことがないため、世間の事は全く知らない。もちろんサッカー選手も野球選手も知らなければ、そもそも何チームあるかなど、皆目見当もつかない。趣味は研究で特技は分析、夢は科学者という小山内であったから、研究時間が増えることになんら不満はなかった。当然、ファッションには全く無関心、というよりこの種の能力が欠如しているといった方が正しいと思えるほどで、服装や髪型には無頓着で、研究室で着ている服はツナギと言われる作業着でしかも一体いつ洗濯しているのか甚だ疑問の汚さであった。
今朝も、いつもの、ぼさぼさ寝グセ髪に無精ひげであった。それゆえに、女子学生からは、「ボサボサ頭のBOSSA」と呼ばれている。彼を知る人は皆、彼を天才と認めるものの、身なりは汚く変人と敬遠されるべきジャンルの人間である。ところが、人懐っこく憎めない、話好きの小山内の性格がそうさせるのであろう、小山内の周りにはなにかと人が集まってくるし、決してモテているわけではないのだが、女子学生が何かと世話を焼いてくれるのであった。
「おはよう、ボッサー」
研究室のガラス越しに、廊下を颯爽と歩く長身の女性が声をかけてきた。彼女はファッション雑誌のモデルのバイトをして学費を稼いでいる、学内でも美人で有名なメリッサである。宇宙物理学教室の隣にあるメディアセンターの助手をしていて、毎朝一つ手前の小山内のいるビルから入り、わざわざ小山内のいる宇宙物理学教室の研究室の前を通り、寝ている小山内に美人のモーニング・コールをしてあげる、というのが彼女の定番の通学ルートなのだ。
「ねえ、ボッサーまたカップラーメン?それより一緒にマグニティでパンケーキ食べない?。」
「ふぁ~あ、メリッサかい、おっはよう。今日はさぁ、、。」
メリッサは男に気軽に声をかけるような女性ではないが、小山内にだけは気軽に、そして優しくからかい半分に声をかけてくる。
「えっ!メ、メリッサ、誘ってくれてありがとう。ちょうどパンケーキが食べたいなぁって思っていたところなんだ。本当さ、それでさぁ、今日はねぇ、、、」
ベンチから半身を起こしながら、髪を整え、小山内が廊下の方を振り向くと、メリッサはメディアセンターに向かって去って行った後だった。そして左手を上げて、バイバイと手を振っている後姿を小山内は眺めているだけだった。
「あらら~。誰かプレゼントくれないかなぁ、っていっても、誰もハッピーバースデ~ぇって知らないしなぁ。」
メリッサからの誕生日プレゼントを期待したわけではなかったが、自分の誕生日に声をかけてくれる美人がいれば、なんとなく自分の誕生日を祝って欲しくなるものである。とはいえ、小山内の恋は、まあいつもこんなものであった。
「まあ、まずはブランチといきましょうかね。本当はマグニティのパンケーキなんて甘くて食べられたものじゃないしな、学食にでも行くかな。」
学食に行くために大学のキャンパスに出ると、そこには、いろいろな国籍の見知らぬ学生がうろうろしていた。環太平洋環境学会という名目で、学生最後の海外旅行を格安で済まそうとする観光客まがいの学生たちが世界中から集まっていて、MITはさながら観光客のツアー集合場所の様を呈していた。もちろん日本からも、、。
「写すわよ、はいチーズ!布裕美、もっと笑ってよ」
「うん、千佳、次は二人で撮ろうよ」
学会発表よりもボストン観光を楽しんでいるちゃっかり女子大生、布裕美と千佳、24才がそこにいた。千佳が、たまたま通りかかった小山内を見つけた。
「あっ布裕美、あそこよあそこ、人のよさそうな日本人がこっちに来るわ。」
女子大生から見れば、作業着の小山内はどうみても世紀の天才には見えない。頼み事をしやすい、人のいい日本人にしか見えなかった。
「ほんとだぁ、すいませ~ん。写真とってもらえますかぁ。」
小山内が声の方を向くと、突然、愛のキューピットが放った矢が小山内のハートめがけてすっ飛んできた。ショートカットが似合う大きな瞳で見つめる布裕美のその美しさと、あっけらかんとした話しっぷり、屈託の無い笑顔に、心拍数が急に上昇、矢は見事に小山内のハートに突き刺さった。
「い、あ、い~いっすよ。」
小山内にとっては、いわゆる一目惚れというやつである。もちろん、小山内の研究人生の中で、女性に対してこんな感情になったことなどなかった。初めての経験なのだ、突然、自分の無精ひげと寝グセが気になりだした。しかも、何か話しかけようと必死である。
「あ、学会ですか。あ、私、小山内って言います。あの、この上の研究室にいて、あの、あ、いままでちょっと、徹夜だったものですから。その、ヒゲとかなんかが、ちょっと、あ、それで、、。」
くすっと笑い、布裕美は言った。
「すいませ~ん、シャッター早く押してもらえますかぁ。」
「あらら~。」
小山内の恋はまあいつもこんなものである。しかし《一旦気になると、とことん追求しないと気がすまない性格》の小山内は、気になってしまったヒゲを剃って散髪をした。ドミトリーに戻り、スーツにも着替えた。再び研究室に戻ってきたときには、もう4時を回っている。もちろん二人の女子大生はとっくにいなくなっている。なんとも意味のない行動であった。
「はぁ~、しょうがないな。さぁて、やるか。」
小山内は研究室に戻ってきた。パソコンのスイッチを入れて、システムが立ち上がるまでの間、布裕美のことが頭から離れなかった。コヒーを飲みながらあり得ない妄想にふけりはじめる小山内であった。
(きれいな人だったなぁ)
突然メーラが、メールを受信しました、とメッセージを投げてきた。タイムスタンプが69年もずれたジャンクメールであった。
「C60@C240@C540K_?|=J&FJJK G D$#")?>M<+*」
ほわ~んとしたまま、いつものように、自分の携帯を取り出した。
「はぁ~」
心ここにあらず、の小山内である。ピピピポ、ツー、ツー、、、
「あ、サーバ管理室ですか、宇宙研の小山内ですが、新手のジャンクメールが入っていました。タイムスタンプが70年くらいずれているので、たぶんウィルスだと思います。C60@C240@C540なんとか、っていうタイトルです。セキュリティスキャンとデータ削除お願いします。」
ガチャッ!
69年前のタイムスタンプのメールは、ウィルスメールとして処理されてしまった。そして小山内の通報が元でメールの発信源が探知された。それは、、MITの昔の図書館で今は博物館となっているビルの地下倉庫であった。そこにはたしかに70年前の古いパソコンがあり、いまだに学内のLANに接続されっぱなしになっていることがわかった。このいたずらまがいのパソコンはただちに撤去された。
ところで、小山内は、恒星の間隔を測定し、宇宙の膨張速度が全宇宙で一定ではなく、恒星間の引力などさまざまな影響で異なることを立証するためのデータを収集していた。光速を超える膨張速度のある場所を探し出すためである。この研究が本当に役に立つのか、担当教官も含めて理解者は皆無であったが、『宇宙ワープの可能性について』とにかく、これが、小山内の研究テーマであった。
(あ、バイトに行かないと)
昼間に開催された、環太平洋環境学会の講演会は、5時には、親睦パーティになっていた。そして、大学のホールで行われている、パーティの基調講演の前座を、小山内がやることになっていた。割りの良い学生のバイトなのである。いつもは、無精ひげで風采の上がらない研究生のいでたちであったが、昼間の一件で、服装どころか髪型まで、ばっちりキマッテいた。ビシッとしたスーツ姿で、壇上に上る小山内の顔は、わりとイケ面であった。普段と全く違うイケ面系に、周囲の女子大生から、
「ちょっと、あれが、ボッサー? 私のタイプじゃない!」
「素敵よ、ボッサー!」
と驚きの声が上がっていた。こんな声が聞こえる中、天体の美しさについて、20分ほど講演してきた。しかし、小山内の頭の中は、
(さっさと戻らないと、M78の天体観測データが消えてしまうぞ)
このことで一杯だった。イケ面の小山内は、懇親会では、なかなかの人気である。間違いなく、小山内の人生で最高にモテた瞬間であるが、今度は小山内の方が研究室に戻りたくてしょうがないという、なんとも間の悪い男であった。立食パーティもそこそこに、会場を後にしようとしたその時、
「あのぉ、お昼はありがとうございました」
突然の声に振り向くと昼間の女子大生が立っていた。
「私、向山千佳っていいます、金沢大学で環境学を専攻していました。
小山内先生の話とても面白かったです」
「あ、あのときの、、」
小山内の頭の中で、またもやあり得ない妄想が始まりつつあった。そして心拍数が上がりっぱなしとなった。
「ああ、どうも」
と、とりあえず応える小山内。愛想笑いをしながらそわそわしている。ただいまもあり得ない妄想中の小山内である、千佳のことなど全く眼中にはない。
ところが小山内の動きが止まり、心拍数が更に跳ね上がる事態が発生した。小山内のすぐ隣のテーブルからぺこっとお辞儀をするとその学生が近寄ってきた。
「あ、小山内先生。私、高橋布裕美と申します」
小山内の妄想と心拍数上昇の原因であった。
布裕美と小山内は、布裕美の意思に関係なく小山内がそばを離れなかったため、懇親会でずっと一緒であったが特に弾んだ会話もなく時間だけが過ぎ去ろうとしていた。しかし、アルコールの勢いもあったのか、
「あ、あ、あのぉ、、布裕美さん。星でも見ませんか」
小山内は布裕美との再会に、勝手に(もちろん一方的に)運命を感じていた。そして、懇親会もピークを過ぎたあたりで、小山内は生まれて初めて自分から女性を誘ったのである。
「小山内先生のお話の通りだわ、今の時期は雲も少ないから星が綺麗なのね」
「あ、そう、とても美しいです。本当に、あ、あなたは、と、とても、きれいだ」
「はぁ~?、小山内さん、おもしろ~い」
なんとも、ダサイ会話で、決してかみ合わない二人であった。しかし、小山内の天体知識は相当なものだ。夜空を見ながら、チャールズ川に面する芝生に、二人だけで寝転がって会話する天空物語は布裕美にとって、とても神秘的なものであった。
「あ、流れ星、結構あるんですねぇ、何をお願いしようかな」
布裕美は小山内の手を握り、
「小山内さん、何かお願いしましたかぁ」
突然の布裕美の大胆な行動に、小山内は醒めかけた酔いが再び回ってきたような気がした。体がカーッと熱くなっていくのと同時に頭の中は真っ白になっていくのがわかった。
「あ、ふ、布裕美さんと、ま、また会えることをお願いしました」
突然の告白ともいえるような答えをしてしまった自分自身に小山内はうろたえていた。しかし、布裕美はあいかわらずあっけらかんとして、
「えっ、うれしいなぁ、でも私、明日、日本に帰るんですぅ」
「あらら~」
小山内の恋は、まあいつもこんなものである。
翌日、小山内は、いつもどおり研究室で朝を迎えた。もう妄想はしなかったが、なんとなく胸にぽっかりと穴のあいたような気持ちで朝を迎えていた。そのままなんとなく、布裕美と寝転がった芝生へ行き、横に立っている掲示板の柱にもたれかかって、チャールズ川を眺めていた。
「はぁ」
なんとなくため息がもれた。すると、また妄想が始まった。
「あ~、小山内せんせ~い」
いや、これは妄想ではなかった。声をかけてきたのは、なんと布裕美であったのだ。
「布裕美さん、あ、今日帰るんじゃぁ?」
「ええ、今から空港へ向かうところです、その前に一度お会いしたくて」
《一度お会いしたくて》この言葉で舞い上がる、小山内栄二、25才であった。
「あ、そ、そうですかぁ、願うものですね~。私の願いが叶いました」
「あ、そうだメルアド、、くそ、こんなときにメモを持っていないなんて。あ、あった」
バリッ!
あわてた小山内は、掲示板に貼ってあったサークルのチラシ下半分をはぎとり、自分のメルアドを書き込んで渡した。
「あ、よかったら、その、あ、もう少しお話を、っていうか、あ、これ私のメルアドです」
チラシを持つ手が震えていた。やっぱりくすっと笑った布裕美であるが、目を合わせるのがどこか恥ずかしそうであった。しかし、舞い上がっている小山内は、布裕美の微妙な動きに全く気がついていない。小山内のチラシを受け取った布裕美は、
「小山内先生、これを返そうと思って来たんです」
ちょっとはにかみながら、、
「すぐに渡せてよかったぁ~。それじゃあ」
「あらら~」
気の利いたセリフを言うでもなく、小山内は、去っていく布裕美に見とれていた。布裕美の姿を目に焼き付けることに集中していた。今まで女性とまともな会話をしたことのない小山内は、まあこんな男である。布裕美からのプレゼントに何を期待していたのか、、、。渡されたプレゼントを見た小山内は、
「はぁ~、なんだこれか」
それは、昨晩のパーティでこぼれたビールを拭いてあげた、小山内のハンカチだった。ハンカチはきちんとクリーニングされていた。
「なぁ~んだ、やっぱりなぁ」
ため息をつくと、ハンカチを無造作にポケットに突っ込んだ。小山内は、、まあいつもはこんなものであった。しかし、
「グシャ、、」
「あれ?」
ハンカチとは違う硬い感触が手に残った。またまた始まろうとする妄想を必死にこらえている小山内であった。
(そんなわけないものな)
そう言い聞かせながらも期待に胸を膨らませて、丸めたハンカチを開くと、
「あれっ、おっ、カードだ。お~、あったよ、おいおい、あったじゃん」
小山内は、、、、今回は違っていた。グシャグシャになったカードを開くと、かわいい丸文字が飛び出した。
「これが、布裕美さんの字かぁ~」
小山内先生へ
とても楽しかったです。
日本に戻られるときは
連絡くださいねっ。
また、ボストンに
会いに来てもいいですか?
素敵な星の話
聞かせてくださぁ~い。
これ、私のメルアドです。
by 布裕美
「やったぁ!うぉっほ~」
小山内は無意識のうちにチャールズ川に向かって叫んでいた。
「うっほほ~い!」
小躍りしながら、そこらじゅうをスキップして回る小山内の姿があった。
4月、布裕美は大学の修士課程を卒業し、地元の金沢で県庁に就職していた。石川県庁港湾環境課の布裕美のデスクのパソコンには、アメリカから毎日メールが届くようになっていた。一旦気になると、とことん追求しないと気がすまない性格、の小山内であるが、地獄へようこそ、といわれる、MITの過酷なカリキュラムに追われている学生の勉強量は、半端ではない。勉強に追われる毎日の学生にとっては、日本とメールのやりとりをするのが精一杯で何しろ時間が足りないのである。普通の学生なら、当然、日本まで追っかけをやっている余裕などないのである。ところが、小山内のとことん追求しないと気がすまない性格に加えて、相手は生まれて始めての一目惚れの彼女である、単なるメル友で終わるはずはなかった。
布裕美の住む金沢では、金沢城下の、古い街並みが残る東茶屋街から浅野川に架かる梅ノ橋を渡り、主計町へ向けてゆっくりと歩く二人の姿があった。
「栄二さん、金沢はまだ寒いでしょう。桜の咲く頃になると急に冷え込むんですよね」
「今頃だと、花冷えですね。それにしても、浅野川の桜吹雪はまるで映画のようだ。
こんな景色の中を、布裕美さんと歩けるなんて」
布裕美は、小山内に寄り添うように、手を小山内の腰に回した。
「布裕美さんこそ、寒くないですか」
小山内の手が布裕美の肩に回る。
「ここは本当に素晴らしい町ですね」
何と、小山内は布裕美の住む金沢へ出向き、毎月のデートを楽しんでいたのである。
小山内は、京都大学工学部を中退し、マサチューセッツ工科大学の博士後期課程にいきなり飛び級で進学した天才である。MITでの山のような課題と超ハイレベルのレポートは彼にとってはたいした負担とはならなかったようである。さらに、布裕美と会えるという具体的な目標の前には、何が真実かわからないような神秘に満ちた宇宙物理学のレポートでさえ、かなわなかった。内向的で、会話に乏しく、物事に徹底的に打ち込む研究者向きの性格を、布裕美は、寡黙で誠実な人間と勘違いし、好意的に受け止めていた。間違った解釈であったが、的外れではない。実際、小山内は誠実で正直な男であった。そして何より、、、勇敢な男である。小山内と布裕美は、金沢でのデートにとどまらず、京都、大阪、東京と場所を変えては月一度の出会いを満喫していた。小山内にとっても布裕美にとってもこのときが人生最高の時間であっただろう。
翌2090年、9月の博士号授与式を目前に控えた、最終試験の真っ最中の6月。小山内は余裕の表情で金沢にいた。布裕美は6月の花嫁となった。小山内たちは幸福の絶頂にいた。ところが、この運命の出会いがもたらす人類滅亡という危機は、こことは異なる時代、70年前の2020年で始まっていたわけである。