愛と神そして再び
2130年の6月、肉食昆虫の異常繁殖による人類の滅亡まであと1週間となっていた。
「春彦さん、春彦さん」
春彦は甘い声に眼を覚ました。
「夢? 俺は、さっき死んだはず」
目の前では、春美が微笑んでいる。
「なんだ死後の世界か、だとしたら、死もまんざら悪くないな」
ぼぅっとした感覚の中で、春彦はそう思った。
「やっと会えましたわ、春彦さん」
「わぁ、やっぱり春美!」
春彦が叫んだ、確かに春美だった。2人は夢中で抱しめ合い、互いの愛を確かめ合った。
「この感触、確かにいる。夢じゃないぞ、俺もいる、春美もいる」
誘われるままに、春彦は春美に連れられてベッドにもぐりこんだ。
「時間がないの、会いたかった、早くきて」
すべるような、そして透き通るような白い肌、やさしく甘い春美の声、そして、やがて激しい声に変わっていく。
いつもの春彦の夢のようであった。今は、互いの実体の存在を確かめ合っていた。春美が言った。
「ありがとう、春彦さん、私、幸せだったわ。」
はっとする春彦、
「だった? え、あれ? 俺は?」
春彦は、夢と現実の区別がつかなかったあの頃と同じ、疑惑と不安が一気に湧き上がってきて抑えきれなくなっていた。
「春美、俺は110年間も眠っていたのか?奈津子は、奈津子は、助かったのか?俺はあの時、確かに、死んだはずだ」
振り返ると、そこに春美の姿はもうなかった。
「春美っ!」
飛び起きると、春彦はシーツ巻きでドアを飛び出した。そこには、広々とした大理石床のリビングだった。そして、リクライニングチェアに揺られ、初老の老人がゆっくりパイプを燻らせていた。
「春彦君、座りたまえ、その前に着替えかな」
真っ白い壁、白い家具、老人、まるでスタンリーキューブリックの世界のようだ。混沌とする意識の中で、ここがどんな世界なのか、春彦には理解できていなかった。
「あなたは誰、ですか、、、、春美は、春美さんは?」
老人はゆっくりと話し始めた。
「私は小山内、小山内栄二です。春美の父親です」
「えっ、小山内博士」
博士は事故死したと聞いていた。
「春彦君、今は、2130年です。」
「そして君は、109年前の2021年に、確かに死にました」
「はぁ」
唯一、自分の考えが当たっていた事なので、ショックというより、当たった、という不思議な安堵の感覚が走った。
「じゃあ、俺は? 俺は死んでるんですね?ここは死後の世界?」
博士はニヤッと笑って答えた
「ここは死後の世界ではない、外を見なさい」
そう言って、カーテンを開けると、眼前にはサウサリートの海岸が広がっていた。遠くにアルカトラズやベイブリッジも見えた。
「春彦君、歩きましょうかね」
春彦は、博士と一緒に外へ出た。高台の家を出て、結構急な坂道を下ると、ブリッジ・ウェイに出る。ちょっと歩くと、海岸にはアザラシを見る観光客が群がっていた。アザラシと人間の頭、どっちが群れかわからない。
「平和だと思いませんか、春彦君」
そういわれても何とも答えようのない春彦であった。春彦は小山内の顔を見た。小山内はどこか嬉しそうだった。いつの間にか、小山内の回りには世界政府の役人もいた。
「君がいなければ、この人たちは、あと1週間で絶滅していたんですよ。君たちのおかげで、分解酵素は間に合った。人類は滅亡を逃れました。地球上の人類、動物を代表して感謝したい。本当にありがとう」
春彦は、なんとなく出された手を握り、小山内と世界政府の人たちと握手を交わした。
「世界政府総裁室長のリチャード・エリクソンです。春彦君、ありがとう、君たちが人類を救った」
小山内は彼方のベイブリッジの方を見つめていた。
「ケインズ博士は、私が思ったとおりの人だった。彼は、常に全てを予測し、必ず完璧に実行した。私は、彼が友であったことが誇らしい。この体もね、ケインズ博士が残したものだ」
小山内は続けた。
「私に、最後の仕上げを実行させるためにね。これで、私の役目も無事に終わることができた。本当に君のおかげだ」
「え、何のことですか。俺って何かしたんですか」
春彦はまだ何のことかさっぱり分からなかった。そもそも春美のことが気にかかってそんな話しに夢中になれなかったのだ。
「あの、春美は、春美さんはどこに行ったのですか」
「娘は、戻るのにちょっとかかる」
何かを隠しているようであった。博士の瞳から一筋の涙が走り落ちた。春彦は嫌な予感がした。
「春美は!、博士は何を隠しているんですか」
「俺は、俺は誰なんですか!」
声を荒げ、博士に詰め寄ったその時であった。突然後ろから、、、
「あなたは春彦よ、私の大好きな、は・る・ひ・こ」
耳にキスをされて振り向くと、そこには青いシルクのイブニングドレスを身にまとった春美がいた。
「ああ、春美が突然いなくなるから、何かあったかと思ったんだよ」
抱きしめてもさっきの春美だ、間違いない。
しかし、さっきとは全く違う、込み上げてくる抑えきれないこの思い、これは一体何なのだろう。理解し難い衝動にかられる春彦。 思わず、春美を強く抱きしめてしまった。すると、、
「春っち、痛い」
とっさの春美の一言だったが、春彦に衝撃を与えるには十分な言葉だった。
「えっ!」
春彦の中で、込み上げてくる抑えきれない想いと鮮明な記憶が、この時完全に重なった。
(奈津子)
2人はそのまま歩いていき、アザラシの群れから逃れて、桟橋のレストラン脇のテトラポットに腰掛けた。
「私の体は、今、バラバラにされているわ」
春美は春彦の目をじっと見て言った。
「私の体の、どこかのDNAに、分解酵素の構造式が隠されているのよ」
春彦は疑問に思った。
「え、DNAはどの細胞でも同じじゃないか。髪の毛でも取ればいいんじゃないのか」
しずかに首を振ると、春美はゆっくりと話し始めた。
「そうじゃないの、構造式は悪意のある未来人に見つからないように隠蔽されているの。X染色体の中の塩基配列の一部が特殊な構成になっているの。でもどの細胞のX染色体なのか、それが分からないの、だから全部調べるしかないのよ」
春美は続けた。
「人間の細胞を構成する、DNA二重らせんの塩基配列は、ほとんどが解明されているけど、その中には意味を持たない配列があるわ。でも、それは意味が無いのではなくて、それだけでは意味が無いということよ」
そういえば染色体の話は昔、理科で習ったなぁ、くらいにしか春彦には分からなかった。
「男女の愛の結果として、初めて、人類にとって意味をもつ塩基配列になるの。途中で、テクノクラートに気づかれたり、突然変異で歴史が変わったりしないために、遺伝を何世代か繰り返して、少しずつ配列が変わって発現するようになっているの。2100年に、Gプロテインを取り込んだプロテイン強化細胞の分解酵素の構造式を、私の体に発現させるためには、2021年から意図的な交配が必要だったのよ」
春美は春彦を見つめて言った。
「その半分の情報を持っていたのが、あなた、春彦なの」
「ええ、俺が?今の話に俺が関係あるのかい」
春彦にとってはすべてが始めての、そして予想だにしない唐突な話であった。
「私たちだけじゃないわ、人類の歴史のいたるところで、この方法は取られてきたわ」
「え、俺の知っている歴史にもかい」
「そうよ、ヨーロッパの百年戦争を早期に終結させるため、1412年にジャンヌダルクを誕生させたのよ。彼女の性格を決定づけ、神の声を聞かせるためには、その1380年前から交配を行う必要があったのよ」
春彦だってキリストのさわりくらいは知っている。
「それって紀元、キリストが磔になるあたりじゃないか」
春美は真剣な面持ちで答えた。
「そう、ジャンヌは、イエスの末裔。遺伝子制御は、イエスとマグダラのマリアと共に、始まったのよ」
春彦の、頭の中のもやもやが、一気に晴れた瞬間だった。
「そうか、神とは、未来の人類、春美たちのことか。マリア様の馬やで光が放たれたという、あの光も」
「私たちの所業は、過去においては神と言われてきたわ。必要に応じて奇跡を起こすこともあった。時空を超えて情報を確実に伝えるためには、遺伝子に組み込むしかなかったのよ。歴史を変えずに過去を制御して未来を守るためには人間が自ら情報を保持し、そして確実に継承するためには、愛が重要な制御パラメータだったの」
「そうか、でもそれじゃあ、2130年の今は、神はいないってことなのかい」
春彦は複雑な心境であった。愛とは春彦にとってはパラメータなんかではなかったから。愛は他人から強制されるものではなかったから、唯一春彦が信じていたもの、それは、奈津子への愛だったから。春彦は、はっと思った。小山内博士は死んだり生き返ったり、いろんなことを知っている。
「ひょっとして神とは小山内博士のことなのかい」
春彦の考えを見透かすように、春美が続けた。
「父もケインズ博士も、神ではないわ。それだけじゃないの、遺伝子構造の中に、必要な情報があることを、父は知ってたわ。でも、なぜ、それを知っていたのかは、分からないの。もっと未来の人類なのか、本当に神なのか。そういう人たちから、今の私たちも、制御されているのよ。私たちにとっても、神は、存在しているのよ」
春美は続けた、
「14世紀のペストを急速に消滅させたのは、吸収性抗生物質をヨーロッパ全土に散布したからよ。至るところで光の奇跡が報告されているわ。ペストは細菌だったから、容易に抗体を持った抗生物質を開発することができたみたいだけれど。あれは、私たちより、未来の神が、手を加えたことで、私たちより、過去の歴史には無かったことなの。私たちより、もっと未来の神が、過去を制御した結果なのよ」
春彦は、一度にいろんなことを聞かされて、ほとんど理解できていない状態であったが、奈津子のことが頭からはなれなかった。そして、春美をじっと見つめていた。たしかに顔は奈津子にそっくりだ。春美は、一息つくと、じっと春彦を見つめ、にっこり微笑んだ。
「うれしい。春っち、気がついてくれたんだね。そう、私は奈津子よ」
「やっぱりな、でもなぜ、、。あ、そういえば、俺死んだんだよな」
春彦は、自分の疑問をようやく思い出したようだった。
「そう、あなたもクローンよ。生身の春彦は、2021年に死んだわ。あのとき光が見えたでしょ」
「そうだったかなぁ、何しろ必死だったからなあ」
「春美が作ったナノマシンが、春っちの死ぬ直前の記憶情報を取り出して、この時代に転送したのよ」
奈津子が続けた。
「だから、あなたも、私も、クローンなの。生身の春美はもう、、、仕方がないの、これが私たちの使命なの。 春美は、分解酵素製造情報のために、、」
泣き崩れようとする奈津子を春彦が支えた。奈津子の険しい横顔がやさしさを取り戻した瞬間だった。
「ナッチンはどうしてた?」
春彦が聞いた。
「春美からのメッセージを見たのよ。あなたと同じ、夢を通して。」
奈津子は、夢の中で、春美を知った。そして、時空を超えた親子として、語り合っていたのであった。
「私は、春彦の精子で人工授精したのよ。それで生まれたのが亜紀奈、その子供が小山内博士の奥さん、布裕美よ。だから、春美は私のひ孫になるわ。」
突然、奈津子は、プイッとした顔で言った。
「春っち、春美と夢でエッチしてたでしょ。その時に漏れた春彦の精子を分子分解して、この時代に持ってきていたの。それを2032年の生身の私が受け取ったのよ。」
あの、ニートまっしぐらの時を思い出して、春彦は懐かしくもあり、恥ずかしくもあった。
「なるほど、つまり俺は奈津子が好きで、夢で自分のひ孫を愛して、さっきも、ひ孫とエッチして、また奈津子に会って、」
「あ、大変だ、これって歴史を変えてしまってるじゃないか、バタフライエフェクトじゃないのか」
「ふふ、そうね。でもほら、今の世界は変わってないでしょ。それはあなたは2021年に死んだ人間で、私も2033年に死んでいるからよ。」
「えっ。どういうこと?」
春彦は驚いた表情を隠せなかった。
「本当はね、私は、植物状態のまま、2032年に人工授精で、亜紀奈をこの世に残すことが、ケインズ博士が想定した歴史だったのよ。ところが2033年に、亜紀奈が原因不明の病気になったとき、ケインズ博士が亜紀奈を助けてしまったの。もし私が2033年に生存していたら、その歴史が変わって、亜紀奈を私が助けることになるわ、そしたらケインズが関与できなくなる。あの病気は原因不明の不治の病なので、それだと亜紀奈が死んでしまうのよ」
ケインズ博士の唯一のミスは愛を理解していなかった事にある。
「だから、私は生きたのよ。春彦のいない世界に生きたいなんて思っていなかったわ。でも、春実さんや未来の人類のために。 DNAの世代間情報伝達に必要なものは、単なる遺伝子の交配だけじゃ駄目なの。愛が必要なの。愛がパスワードとなって、遺伝子の交配結果が変化するのよ。」
春樹には驚くことばかりの、夏子の告白であった。
「だから愛がなければ、正しい継承ができないようになっているの。亜紀奈は、私が生きた証。亜紀奈は、私と春彦の愛の証。でも、その後、私は存在してはならなかったの。2033年に存在してはならなかったのよ」
春美と奈津子、時空を超えた、二人の絆は、これほどまでに強いものであったのか。春美のために生き、そして使命のために命を絶った、奈津子。奈津子の意思の強さ、それは春彦への想い、ひたむきな愛であった。
「だから、今は、春彦も私も存在していないのよ。そして春美もさっき、、消滅したわ。私は、春美の体に奈津子の記憶。私たちは、人類の歴史から離れた存在なの。未来に向けて歴史に影響を与えない限り、何をやっても自由よ。本当は、たぶん、神に制御された生活になっているはずだけど。でも、私たちは、それを感じることはないわ。小山内博士はテクノクラートに殺されたの。でも、ケインズ博士は、全てを予測していて、小山内博士と春美と春彦の三体のクローンを用意していたのよ」
奈津子は続けた。
「つまり、今朝の小山内博士はクローンなのよ。心配しないで、人類はまだ生身の人間よ、クローン技術は、今の時代では、実現が無理な技術なの。クローンは、もっと未来から来たものよ。今では、私たちを含めて数人しかいないわ。」
2021年にはフィーッシャーマンズ・ワーフへ向かうフェリーの桟橋だった場所も、130年経つと電界モーターカーの発射ステーションになっていた。30分の観光船の旅も、今ではたった7秒で、終わってしまうそうだ。桟橋近くの三角地帯に、二人で寝転がった。緑の芝生が気持ちいい。奈津子は晴れ渡った空を見上げて言った。
「ケインズは、最後に分かったようだって、小山内博士が言ってたわ。ケインズが最後に理解したもの、それはDNAの制御よ。ケインズは、DNAを高度なテクノロジで操作しなくてはならないと最初は考えていたのね。人類の遺伝子に巧みに隠されたDNAをコントロールするものは、テクノロジじゃないの。それが、、愛なのよ。愛のない結果と、愛した結果とでは、同じ遺伝子でも、塩基配列が異なるように制御されているの。愛は、偶然じゃなくて必然なの。神にとって、愛は、人間の行動をコントロールするための可制御パラメータなのよ。子供じみたテクノクラート達には、子孫を残すということと、愛の関係が理解できていなかったようだわ」
奈津子は、春彦を見つめて言った。
「結果的に、世界は一つになって世界政府が誕生したわ。歴史を狂わす危険なテクノクラートのクローンたちもいなくなって、政権は安定する。中近東での戦争もなくなった。これが神が望まれた結果だったんだと思う」
春彦にとっては納得しがたい神の説明であったが、奈津子は間違いなく目の前の奈津子であった。ゴールデンゲートの先に、夕日が沈む頃、二人はゆっくりと起き上がった。上空をロケット雲が何本もよぎっていた。春美が完成させたGプロテイン分解酵素を世界各国の中央空軍基地へ運んでいるらしい。
「分解酵素で、Gプロテインを摂取した昆虫とテクノクラートは、細胞分解して土に還るわ」
「え、どういうこと?テクノクラートって誰なんだ」
「誰じゃないわ、彼らは人間ではなくて異常なクローンよ、人類を支配しようとしているやつらよ。そいつらが人類滅亡の元凶だったのよ」
「分解酵素で、テクノクラートもやっつけられるのかい?」
「ええ、そうよ。欲に駆られたテクノクラートはGプロテインを一般人には渡さず、自分たちだけのものとしていたのよ」
「なるほど、それで肉食昆虫とクローン人間が分解酵素で繁殖期前に絶滅するってわけだ。でも世界中の高官が突然死ぬんだろう、パニックになるんじゃないのか」
「いいえ、それがそうでもないのよ。分解されるテクノクラートたちは全て、スーパー・ヘパ・シティの中にこもって、肉食昆虫の異常繁殖から逃れようとしているの。だから、スーパー・ヘ・パシティの中では大変なパニックになるでしょうね、テクノクラートたちがどんどん分解していくんだから。でもこの件が一般人に漏れることはないの。ヘパ・シティの中は大変なことになっているでしょうが、外へは一切漏れない」
奈津子の言ったとおりである、実際、スーパー・ヘパ・シティから外へ漏れる通信網の制圧と、ゲート封鎖だけで特別な政策は必要なかったのだ。テクノクラートたちは、異常伝染病として片付ければいいのである。そして、ケインズの意思を継ぐ者が全てを実行してくれていた。
同時に大気中のウィルスもあと数分で死滅する。拒たんぱく質症も、風邪よりもずっと弱い、アレルギーだから数日間で自然治癒するはずだ。サンフランシスコ湾が赤紫に染まっていく。2020年から110年経っても景色は何も変わっていない。人類も、愛も、何も変わってはいなかった。全てはこの時のために、そして未来のために、、、。
愛を理解した、ケインズ博士の粋な計らいにより、時空を経て結ばれた二人。
「春っち、おなかすいたぁ、カレー食べよっ。」
「ナッチン、おまえなぁ。」
二人の時間はあの時から、また動き始めた。歴史から隔離された二人の恋人は、肩と腰に手を回してサウサリートの急な西斜面へ向かっていった。
「春っち!」
「あぁ?」
「会いたかったわ。」
(完)