新たな脅威
オーストリアでは11月ともなると、もう寒くてコートなしでは出歩けない。2125年11月、天気の良い昼間でも平均最高気温8度という寒さの田舎町、《メルク》では国際栄養学会の学術講演会が開催されていた。メルク修道院で有名なこの町は、こじんまりとした中世のとても美しい町並みが特徴で、世界から多くの観光客が訪れてくる。ツアポストなどのかわいいホテルが立ち並ぶメインストリートでは、そんな美しさを満喫し、心身ともにリフレッシュしたいと望む観光客でにぎわっている、、、はずであったが、今はどちらかといえばこの雰囲気をぶち壊しにするようなダークスーツという場違いな服装を身にまとった科学者と政府の関係者が街中を闊歩していた。このメルクの町の小高い丘の上には、豪華絢爛といえる旧メルク修道院が建っている。この旧メルク修道院の中には高い天井にフレスコ画の素晴らしい礼拝堂があり、ここは今では会議ホールとなっている。そして今その壇上では若き昆虫学者、フレデリック・レイモンド・スミスが人類の危機を訴えていた。
「なぜ突然昆虫が肉食となり人間を襲うようになったのか、あのウィルスは昆虫へも感染するものと思われ、感染後は体内で崩壊するたんぱく質を補給するために自然と肉食へと環境適応したものと考えられます。そして、更に驚異的なものはその成長力です」
フレデリックの発表も後半にさしかかり、彼の携帯パソコンから3次元パワーポイントの世界地図が立体ホログラムに映し出された。
「この図は現在のもの、そしてこちらが5年後、2130年のシミュレーション結果です」
「う~む」
低い歓声の後、沈黙が続いた。世界地図に赤い点が置かれていた、その赤い点は世界地図の湾岸部をほとんど埋め尽くしていた。
「2130年は世界中に昆虫が繁殖する150年に一度の大繁殖期にあたります」
テクノクラートだけでなく学会参加者のほとんどはこのフレデリックの学説はたわいもないイナゴ繁殖を大げさに言って見せているだけとしか写っていなかった。肉食昆虫の被害など取るに足りないもので、蚊やゴキブリ退治の方がよっぽど価値があると思われていたのである。ごく少ないうめき声を上げた科学者を除いて、、、。
赤い点の場所と肉食昆虫による被害との相関を理解している人間はごく少ない関係者だけである。フレデリックはこの情報規制に世界政府が絡んでいると考えており、事は各国の政府首脳が主導的に動かなければならないほど深刻な状況にあるということを訴えたかった。
「1980年の大繁殖では、イナゴと蟻の発生くらいで済みましたが、今回は違います。巨大化した肉食昆虫が世界中で大量発生するのです。この赤い点が肉食昆虫を発見した場所です。肉食化した昆虫は今、世界中に広がっています。つまり2130年に人類は昆虫のエサになってしまうのです。」
一般には信じがたくとっぴな内容ではあったが、データできちんと裏付けされており、政府の公式発表やメディアの報道とはかなりずれていた。フレデリック博士は真剣に訴えていた、彼の今回の学術講演の目的はこれであったからだ。人類の危機を回避するため事実を公表しすぐに対応しなくてはならないということである。彼は、壇上で最後に、
「2125年の今、各国で肉食昆虫撲滅に向けた積極的な活動が必要です。政府は状況をきちんと分析しその結果を隠すことなく国民に伝え、非常事態宣言をするべきなのです。各国が協力しあって対策を講じなくてなりません」
とはいえ、たかが昆虫である。肉食昆虫といえどもイナゴの大発生程度を思う人間の方がはるかに多いこの状況で政府はあいかわらず
「特にそのような深刻な事態という報告はありません」
と突っぱねるだけであった。
ところが、この講演をひっそりと聴いている二人の科学者がいた。ロバート・ケインズ、世界政府総裁、73才。もう一人は、小山内栄二、MIT名誉教授(このときは世界政府管理下の研究所主幹研究員)、61才であった。小山内は、
「肉食化の原因はあの謎のウィルスではなくて、私の作ったGプロテインだ。原因は間違っていたが、それ以外のフレデリック博士の分析は正しいと思う。彼のプランは直ちに実行されるべきだ。私は彼に直接あって、Gプロテインの事をつたえ特別ミッションを立ち上げて、そのミッションに参加してもらうよう要請しようと思う」
とケインズに訴えた。ケインズは少し間をおいて、
「そうか小山内、止めても無理なようだな。私もなんとかしてみよう、まずはこのことで早急に閣議を開く。対策プランを立てて、世界へ公表し、プランの即実行を約束させよう。それより君は早くアメリカへ戻りたまえ」
と答えてくれた。
そして翌日の朝、小山内はツアポストの部屋で少し遅く目を覚ました。時間を確認するとすぐに航空会社へ電話した。
「すいません、1便を予約していましたが、まだホテルで。今からだと間に合いません、2便への変更をお願いします」
いつもの朝寝坊の習慣がそう簡単に治るわけではない、ホテルの朝食も、朝のニュースも聞く間もなくオーストリアを出発するはずであったが、ここで、2時間の余裕ができてしまった小山内であった。アメリカへの帰国準備を簡単に済ませ、遅い朝食をゆっくり頂こうと部屋のテレビにスイッチを入れると、朝のニュースが酔っ払いの事故死を告げていた。それは本来飛行機の中で知るはずのない出来事であり、小山内が知るべきではなかった事実である。
事故死はフレデリック博士であった。学会発表の夜、フレデリック博士は飲みすぎでレストランの階段を踏み外し転落死してしまっていたのだ。飲みすぎによる事故死、それはケインズの指示によるものなのか、テクノクラートの暴走なのか、いずれにしても世界政府は真実の隠蔽に必死になっており、人類を滅亡の危機に招いているようであった。
(えっ、昨晩事故死だって!世界政府はここまで手を回してくるのか。ケインズが、、本当に何をしようとしているのだろう?人類滅亡を本気で考えているのだろうか、人類の滅亡が世界政府の目的?そんな馬鹿な、あり得ない。あのケインズ博士に限ってこんな馬鹿なことが)
フレデリック・レイモンド・スミス、実はフレデリックと小山内は彼の発表直後に会っていた。Gプロテインのことを話し、肉食昆虫撲滅のための特別ミッションに参加してもらうためである。
「フレディ、大変興味ある話をありがとう。ちょっと一杯やりながら話しませんか」
と誘う小山内に、彼はこう答えていたのだ。
「これは小山内先生お話できるとは光栄です。ただ私はアルコールが飲めないし菜食主義者なので、そこのレストランでサラダとコーヒーでどうでしょうか」
つまり、フレデリックは酒を飲まないのである。
(酒を飲まない彼がどうして飲みすぎで転落死などするものか。ケインズとテクノクラートたちは自分の意見に反対する目障りな人物を次々に始末し始めている)
小山内は思った。
(次は私だな。急がないともう間に合わないかもしれない、、春美)
ケインズには小山内の考えが手に取るように分かる、そして既に小山内には警告していたのだった、というのも、小山内はGプロテインの製造を阻止された後、それでもあきらめずにその製造方法を全世界へばら撒こうとしていたからである。肉食昆虫の危機が公表されることを極端に嫌がる世界政府の企みがなんであるのか、小山内はケインズに何度も聞いていたが、ケインズはいつも、
「肉食昆虫とウィルスと、どちらも人類滅亡の危機だと宣言すればどうなる、世界はただパニックになるだけだ。肉食昆虫の方は秘密裏に対策を打つ必要があるんだ」
といっていたが、ケインズならその両方の危機を乗り越えるような策を打ち出すはずである。小山内はケインズというよりテクノクラートの考えそうな浅知恵だと考えていた。
(ケインズはテクノクラートに操られているに違いない)
そう信じて疑わなかった小山内であったが、ここにきては、もはや自分の死を覚悟しなくてはならなかった。
(ケインズとテクノクラートはもしかして、、、)
小山内はゆっくり自宅へ電話をかけた。おそらく、この電話も盗聴されているであろうことは、小山内にも察しがついていた。
「ああ布裕美かい、今から戻る。オーストリアはもうすっかり寒くてね、メルクの美しさは格別で、この次は一緒に来れると良かったんだが残念だ。ところで、ナオミは、まだ寝ているのかい?」
布裕美はこの電話で全てを感じ取ろうとしていた。なぜなら、小山内はめったに自宅への帰るコールなんかしない、だいたい気が付いたら朝という生活であったからだ。なので電話をするときはたいていとんでもない事態が発生した場合だけである、しかもそんな時にでも布裕美への配慮は忘れることはなく、こんな早朝に寝ている布裕美を起こすようなことは一度もなかったのである。2年前にメルクからドナウ川下りを布裕美と一緒に楽しんだばかりなのに、メルクの美しさをわざわざ朝起こしてまで電話してくるとは。布裕美は、小山内の《時が来た》という覚悟を感じ取った。
「、、、、。早くお帰りになって、待ってます。栄二さん、会いたいわ」
凛とした布裕美の声は、小山内と同じ覚悟の証であった。
小山内がローガン空港に着いたのは夜であった。
(死ぬのならせめて布裕美といっしょに)
そう思い極めながら最後の時に向かって空港から自宅に戻る途中、春彦からのメッセージが届いた。最後のメッセージとなるのだと思うと、小山内は急遽、研究室に立ち寄った。これによって小山内の帰宅が30分遅れたことが、世界政府にとっては誤算であった。やがてこの小さな誤算が大きな変化となって世界政府へ襲いかかることになる。
黒塗りのバンが数台、小山内の自宅周りに停まっていた。
「ピンポーン」
小山内の自宅の玄関には見慣れない宅配業者が立っている。
「は~い」
布裕美が出た。
「小山内栄二さんに小包です。本人の署名が必要なんですが」
小山内はまだ戻ってきていなかった。
「あら、そう、ちょっと困ったわねぇ」
業者の男が尋ねた。
「ご主人はいらっしゃるのですか?」
この瞬間、稲妻のような戦慄が布裕美を襲った。布裕美が最後を覚悟した瞬間だった。
(ついに来たわ、今、栄二さんを死なせるわけにはいかない。日本にいる春美と会わせなくては)
ちょうどこの頃小山内は大学の研究室で春彦のメッセージに応えるイメージを作成しフラーレンへ情報をセットアップしていたのであるが、布裕美は咄嗟に、
「はい2階にいますよ、オーストリアから戻ってきたところなの、ちょっと待ってくださいね。あなた書類よ、サインして~。あなたったら~。すいません、どうもウィーンの学会ですごい発表があったみたいでね、研究資料のまとめに没頭しているみたいです。ちょっとサインもらってきますね」
布裕美は玄関で待っている宅配業者にそういうと、2階へ駆け上がって行き、逆に小山内の書斎に鍵をかけ、ナオミを起こした。ナオミに裏口から買い物に行くように言いつけて。自分は玄関へ戻って来ると業者へ、
「2階の書斎にね、居るんですけど。鍵がかかっちゃってて、。もう、ああなったら、食事でもなんでも、わかんなくなっちゃうんですよ、困ったものです。こないだもね、これからピクニックに行くっていうのに、書斎に入ってしまって、も~大変だったんですよ。それにね、、、」
しゃべりまくる布裕美に、業者はとうとう。
「あの、ご主人がいらっしゃるのでしたら、他の方のサインでもかまいませんので」
布裕美のしゃべりをさえぎりながら、小山内の在宅をしっかり確認してきた。
「あら、私のサインでいいかしら。じゃあはい、どうもご苦労様。あなた~、今もっていきますね~」
布裕美は、玄関を閉めると、小山内の携帯へメールを打った。
「来たわ、春美をよろしく」
布裕美がリビングへ入ったとき、そこには、気を失って倒れているナオミがいた。叫び声をあげる余裕はなかった。世界政府の秘密警察が布裕美に襲いかかっていた。遠のく意識の中で布裕美は思った。
(少しだけだけど、日本へ脱出する時間は作りました。栄二さん、あなたと暮らせて幸せでした。春美のことをよろしくお願いします。結局誰も助けることはできませんでした。ナオミすら、春美にはつらい思いをさせてしますねぇ。)
まもなく、自宅は爆発音と共に炎上した。翌日警察は失火と報道していた。失火で爆発音などするはずがない。小山内は、自らの世紀の大発明により、最愛の家族を失ってしまったのである。
「すべては、私が原因だ。布裕美、ナオミ、私がケインズを必ず止める」
小山内は怖かった。家族を失った悲しみと、ケインズへの復讐心、テクノクラートへの憎悪が、これからの小山内を支えるすべてとなっていくのだということが。