下北沢は破滅の始まり
2020年6月のほどよく暖まった午後、住宅街の静かな日の当たるアスファルトの上では、猫が気持ちよさそうに眠っていた。
ここは学生からサラリーマンまで様々な人でにぎわう街、世田谷区下北沢、猫が多い街としても知られている。人通りの多い商店街も一歩わき道に入れば、そこはもう閑静な住宅街が広がっていて、まったりとした時間の流れる散歩コースとなる。
ナインティナインの矢部のようにひょろっとしている滝沢春彦は、一番街商店街を登りきったところにある私立高校へ通う高校3年生で、現在は引きこもりの登校拒否中であった。
今日も、19才になる春彦はボランティアに手を引かれながら商店街の雑踏の中をぼ~うっと歩いている。
春彦は父が不動産経営をしている裕福な家庭で育ち、聡明で快活な小学生時代を過ごしてきた。もちろん十分な教育も受けており、首都圏の激しい受験戦争の中を勝ち抜いて両親の期待に十二分に応えるだけの成果をあげていた。春彦は確かに勉強はしたが、ガリ勉というタイプではなく、テニス少年で世田谷区のジュニア大会では上位入賞の常連であったし、文武両道を鼻にかける事もしなかった。
5年生の時、色白でおとなしい恵子という女の子と同じクラスになった。その子は成績はあまりかんばしくなかったし、内向的な性格で人と話すことをしなかったため、いじめの対象になりやすい子ではあった。小学生になってから4年間、いじめられ続けていたためすっかり萎縮しており、いつも下を向いたままで誰とも話もせず、女子の親しい友達もいなかった。
(きっと、私は5年生になってもこれまでと同じようにいじめられるんだろうなあ)
恵子はそう思っていた、
「今度はきっと大丈夫よ」
先生や親の慰めのセリフは、毎度ことごとく裏切られることを知っていた。希望を持てば持つほど後が苦しくなることを身をもって知っている恵子は、悪い方に考えることで《後に起こるショックを少しでも和らげよう》という意志が働くようになっていた。このため、新5年生になる時にも先生にお願いして、教室の窓側の一番後ろの隅の席に座らせてもらっていた。
なぜなら、小学校では男女交互の座席になっているため、ほかの席だと一日中、前後左右の男子生徒からいじめられるからである。特に後ろの席からのいじめは精神的にもキツイものがあった。その点一番後ろの、しかも隅っこなら、前と隣だけになっていじめは半減するし、窓の外の景色を見ながらひたすら一日中耐えていればいいのである。授業を聞いている場合ではないのだから成績が良くないのは当然で、とにかく下を向いてイラストを描いて学校生活の一日一日を耐えてきていた。
さて、ゴールデンウィークが終わって夏休みが近くなってくると、都内の5年生は中学受験のための本格的な受験体制に突入する。ライバル意識が強くなってきて、全校生徒がイライラしはじめ、ささいなことからいじめがエスカレートしやすい時期となってしまうのだ。5月の終わりの給食時間のことであった、一部の男子生徒が発端となり、やはり恵子へのいじめが始まった。
「うぇ、恵子にさわられた、汚いなぁ、手洗ってこよ」
何気ない男子生徒の一言が発端となり、いじめが教室中に広まっていった。これを見ていた春彦は静かに席を立つと、親友の佐々沢穣を連れて二人で教室を出て行った。
「みんな、近寄らないほうがいいぞ、こいつなんか臭いぞ」
こういうことは小学校ではよくあることで、先生も「いじめ」というより「からかっているだけ」という事なかれ至上主義の認識なので、あまり構わないでいる。周りの女の子も、
「もう、やめなさいよ。恵子がかわいそうじゃない」
と一応止めはするが、それ以上ではない。どうせそれでやめる男子生徒ではないし、むしろ火に油を注ぐようなものだ。
「だって、臭いし、汚いし、一緒に給食なんて食べられないよなぁ」
「そうだよ、お前、あっちいけよ、外で食べろよ」
「そうだ、そうだ」
遠巻きの男子生徒から罵声を浴びせられても、恵子は黙ってうつむいているしかなかった。
(やっぱりまた始まっちゃった)
そう思った恵子は、何も言わずに下を向いて震えていた。そして言われるがまま、ベランダへ出るために黙って席を立とうとした。
その時、、、
「恵子、ここ座っていいかぁ」
教室へ戻ってきた春彦が、給食のトレイを抱えて恵子のとなり、汚いといって誰も近寄らなくて空いている席に来て言った。
「え、うん」
うつむいたまま、静かに応える恵子。クラス中の生徒が春彦に注目する中、春彦は周りのみんなに聞こえるように言った。
「一緒に食べようぜ」
(え、いいの?)
恵子はそう言いたかったが涙がのどにつかえて、しかもうつむいたままだったので声にならなかった。そのかわり深くうなずいてみせた。春彦はごく普通に隣に座り、普通に恵子に話しかけていた。
「恵子さぁ、天気いい日は窓際っていいよなぁ。ここいいじゃん、気持ちいいなぁ」
そばにいた女子生徒たちはほとんどが春彦ファンである。彼女たちには《恵子のくせに、あいつ生意気だわ》という思いが膨れ上がってくるのであるが、
そんな事は春彦はお見通しで、女子生徒の方を見ると笑顔で目を合わせてきて《こっちへ来ないか》というそぶりを見せた。こうなると、逆に彼女たちは恵子への”いいがかりのようないじめ”に半ば同調していたことを春彦に見透かされることを恐れはじめ、春彦の誘いに乗るように、
「ほんとね、恵子の周り暖かい」
といっては、春彦の周りに集まってきた。そこで春彦が、
「だろう、桃子。こっち座んない?」
看護師を目指している桃子が春彦の前をとった。これで、春彦の周りに残された席はあと三席となった。ここまでくると、女子生徒たちは恵子のいじめより椅子取りゲームに夢中になる。
そして、
「いいなぁここ、ピクニックみたいじゃん、俺たちも来ちゃったよ」
タイミングを見計らって、佐々沢穣が後ろの方から、いじめに参加したくないと思っている男子生徒を集めてやってきた。
こうして、恵子を中心としたランチの輪が出来上がったのであった。
恵子にとっては夢のようなランチである。なんといっても相手はあの人気ナンバーワンの滝沢春彦なのだ、いままで心の底に閉じ込めてきた希望とか期待というものをもう一度取り出してこようかと思うほどであった。しかし、恵子はまだ不安であった。このあとの女子生徒からの仕返しのような、新しいいじめが必ずくると思ったからである。
しかし、春彦と穣はこれをただのランチで終わらせようとは思っていなかった。春彦は頃合いを見計らって、
「そういえば、恵子って休みの日って、教会でイラスト描くボランティアやってるんだよなぁ」
何気なく春彦が恵子に話しかけた。驚いた恵子は思わず顔を上げて、今度ははっきり声に出して言った。
「え、なんで知ってるの?」
春彦は、驚きと不安が入り混じった目で自分を見つめる恵子に、笑って教会の絵が描かれたブックカバーを見せた。それは、恵子が描いたものだった。つられて恵子も笑った。春彦の笑顔がこれまでの消極的な恵子の性格を吹き飛ばしたかのようだった。
(私って、笑えたんだ)
4年間笑ったことのない恵子にとっては、この日は一生忘れない日になったであろう。そして、こんどは周りの女子生徒達が話しかけてきてくれるようになった。
「何、恵子、イラスト?」
「うん、神様とか教会のイラストを描いたりしているの、イラスト描くの好きだから」
「へぇ、ボランティアやってるんだ。すごいじゃん、ねぇ、私にも描き方おしえてよ」
「ちょっと私にもよぉ」
「うん、いつでもいいよお」
「え、これ描いたの、すっご~い」
今まで少なくとも4年間はうつむいて、友達と目を合わせず暮らしてきた恵子が、今日初めてみんなの顔を見ながら笑った。この時から、間違いなく恵子の人生は180度変わったのである。いとも簡単にこのようなことをやってのける春彦であった。
「いこうぜ」
穣がそう言うと、二人は恵子を中心とした憩いの輪から静かに離れた。二人は校庭でサッカーを始めた。
「春、お見事。ほらっ」
穣が春彦へ、ヘディングでボールをパスした。
「お見事なのは穣のデータだろ。恵子はやさしくていいやつだ、みんな仲間だ、よっと」
何気なく応える春彦がヒールキックでパスを出すと、今度は穣が右足で受けてそのままリフティングをやりだした。
「仲間か、それが春のいいところさ。俺のデータも役に立つってわけですよ」
「いつも役に立ってるよ、穣のデータは。よく恵子のボランティアのことまでわかるもんだ」
佐々沢穣は春彦の親友であり、学校の成績は全国でもトップクラスで春彦とワンツーコンビと言われていた。穣はもともと一度聞いたことは二度と忘れない秀才で、小学生とは思えないほど情報工学に長けていた。パソコンおたくというより、既にハッカーに近いスキルを持っていたのである。
「春ねぇ、おおよそ人間が知りたいと思う情報は世界中のネットの中に分散して存在しているんだよ、ネット上にデータとしてあるにはあるんだ。それを意味のある情報として取り出すためにデータマイニングをするのさ、そして上手くマイニングできたら役に立つ情報になるってわけ、大した事ないだろ」
「穣、おまえやっぱり天才だと思うよ。おっと、ほらパス、あ、上がっちゃった」
「春には負けるよ、っと、シュート」
「おい、ここでオーバーヘッドかよ!やっぱ、穣、天才っす」
「一点どうもで~す。帰りに悪童堂でガリガリ君ね」
春彦は正しいと思うことを大胆に決断し繊細に実行できる、小学生にしては確かに優れた素質を持っていた。もちろん友達も多かったが、ねたむ者も少なからずいた。それでも春彦は自分をねたむ者も友人と言ってはばからないし、一緒に遊ぶことを善しとしていた。素質だけでなく、器も優れていたのである。
ところが、、、
6年生になると塾の講師や学校の先生から太鼓判を押されるほどの優秀な成績となっており、最難関といわれる近くの国立大学附属中学を第一志望にしていた。もちろん模擬試験の結果は穣と二人で常にA判定であった。しかし受験というものは何が起こるかわからないものであり、絶対大丈夫という生徒が不合格になったり、記念で受験したら合格してしまったという事もある。春彦の場合はそれにしても信じられない最悪の結果となってしまった。信じられない結果というのは、春彦にとっては手ごたえのある試験内容であったにもかかわらず、第一志望が不合格になったというだけではない。全問正解で合格と思っていた滑り止めの私立も含めてすべて不合格であったことである。母親は、しばらくの間外に出ることを嫌がっていたほどショックを受けていた。もちろん小学6年生の春彦にとってもショックであったが、なにより両親を愛している春彦にとっては、その大切な両親の嘆きが耐えられなかった。この両親の嘆きが春彦をとことん追い詰めてしまい、春彦は時期的に合格発表がもっとも遅い国立の発表の後すぐにチック症にかかり、まもなくして重い自閉症になってしまった。そして3ヶ月ほど入院を余儀なくされていた。
意図的とも思えるような受験の失敗から全てが変わっていった。2学期の途中から編入させてもらって通うことになった近くの私立中学であったが、通学するようになって半月もしないうちに登校拒否をするようになり、補習や家庭教師で単位をつなぎながら高3になる現在まで引きこもりの生活を送っているのであった。家族からも次第に厄介者扱いされるようになっていた。春彦の友達ももちろん高3で、大学受験を目前に控えて夏休み返上で受験勉強に必死となっている時期である。
(こんな自分にかまう友だちなんか一人もいない)
春彦にも十分に分かっていた。そして、下北沢の商店街を自分の手を引っ張って歩いてくれているボランティアに対してもほとんど無関心であった。そもそも春彦は、夜は寝付きが悪く朝までほとんど寝ることができない。朝になると体が重くなかなか起き上がれない。昼間は偏頭痛でめまいが止まらず、部屋から出ようとすると胸が締め付けられ動悸が激しくなって部屋から出る事が難しい。家庭からも孤立してしまっている春彦はどんどん自分の殻に閉じこもっていって、ひどいうつ状態となっていた。一人では部屋から外に出ることもままならない春彦なのだが、日に一度だけ下北沢の商店街を出歩く事を日課にしていた。茶沢通りにある神経内科にカウンセリングに行くためである。とはいえ一人で外を自由に歩くことなど今の春彦には無理なことである。春彦は、そのためにボランティアが迎えに来てくれて自分を引っ張って病院に連れて行ってくれていると思っていた。
神経内科の先生は母親よりもかなり年上で、春彦の治療に5年間も付き合ってくれている。
「今日は少し調子いいんじゃないの。天気がいいからちょっと遠回りしてから家に帰るといいわ」
「うっ」
「大丈夫、無理しないでゆっくりやりましょうね。じゃあ、また明日きてね」
カウンセリングといっても特に治療をするわけでもなく30分ほど先生と話をするだけであった。
「なっちゃん終わったわよ」
先生が待合室でぶつぶつ言いながら英単語を覚えている女の子に声をかけた。
「あ、先生ありがとうございました。春っち帰ろう」
この女の子は島田奈津子、19才、世田谷線沿線にある名門女子高の3年生である。ジャズ喫茶でバイト中で、春彦の通院に毎日付き添ってやっている。つまり、ボランティアでもなんでもない、彼女は春彦の幼馴染なのだ。春彦が奈津子のことをうまく思い出していないだけであって、彼女の献身的な介護のおかげで春彦は通院が成り立っていたのだ。
下北沢南口商店街を駅に向かって登っていき、ドーナツ屋の角を左に曲がると、真空管をディスプレイした古いジャズ喫茶がひっそりと佇んでいる。ここが奈津子のバイト先のジャズ喫茶である。
「カラン~カラ~ン」
ドアをあけると春彦がいつもの席に黙って座った。ちょっと暗めの店内には真空管アンプでドライブするJBL4343から大きめの音量でジャズが流れている。アナログレコードのスクラッチノイズがなんとなく懐かしく、気持ちを落ち着かせてくれる。
「いらっしゃいませ、お決まりですか」
釈由美子に似た綺麗なバイトの女の子が迎えてくれた、エプロンを着けてバイト姿で出てきた奈津子である。他のお客に気兼ねするわけでもなく奈津子が隣に座った。
「な~んてね、春っち」
「うっ、、」
春彦はこれ以外の言葉を口にしたことが無い。
「はぁい、アイスコーヒですね」
奈津子が勝手に注文を取ると、春彦にそっと話しかけた。
「ねぇ春っち、私、5時にあがるから」
「うっ、、」
春彦は(こんな自分にかまう友だちなんか一人もいない) と思い込んでいた。しかし名門女子高の3年生が、大学受験でもっとも大切な夏休みに毎日喫茶店でバイトし続けながら春彦の通院の介護をするなんてあり得ない事である。春彦は、奈津子が今なぜここにいるのか、全く気づいていないし、分かろうともしていない。春彦にとって奈津子は、見たことのある自分のリハビリを担当してくれているボランティア、くらいのものだった。それ以上奈津子への関心がなかったし、それだけではなく、家族も友人も、そもそも世の中のこと全てに関心がなかった。
小学生の時すでに目立つほど可愛かった奈津子は、人気もあったがそれだけにイタズラやイジメも多かった。雪の降る朝、下駄箱の上履きには泥水が入っていたことがあった。泣きべその奈津子に、
「大丈夫だよナッチン、こんなの平気だよ」
と笑いかけていた。手を真っ赤にして、冷たい水で上履きを洗い、宿直室に忍び込んでストーブで乾かしたのは春彦だった。塾の帰りに中学生に囲まれて、いたずらされそうになった時には、自転車で突っ込んでいって奈津子を助け、逆にボコボコにされたのも春彦だった。泣きべその奈津子を、春彦はいつも全力で助けていた。しかし、今の春彦は自分で作った殻に閉じこもったままで、奈津子をただのリハビリの介護人としてしか見ていない。
それでも奈津子はずっと春彦のことを信じてきた、、、今でも。彼女は春彦の負担にならないよう、ひっそりと信じ続けている。5時を過ぎると下北沢の街並みを奈津子に引っ張られて歩く春彦がいた。
「春っち、今日は天気よくていいね。明日も迎えに行くからね」
二人だけの時間は奈津子にとって、切ない思いをつなげていられるひとときであり、辛いことも、将来の不安も、全てを明日の元気に変えられる時間であった。
奈津子のそばにはね、いつもあなたがいたのよ
春っちの まっすぐなところがすき
春っちの やさしいところがすき
春っちの 全てがね、、、好きよ
原宿を歩いていて、スカウトされたこともある、釈由美子に似た、美少女の気持ちは、春彦には全く届いていなかった。
「春っち、おなかすいたぁ、カレー食べよっ」
「うっ」
バイト先の喫茶店から、南口商店街に戻って茶沢通りに向かって下っていくと、大衆中華料理店の向かいに、まわりの風景とは似合わない八百屋がある。その八百屋の斜め前には、同じ名前の駄菓子屋があって、そこは春彦が奈津子を毎日連れて行った店である。今ではすっかり珍しいレトロな感じをかもし出している駄菓子屋で、まだ残っているとは懐かしい、と大人のリピータも多い。この駄菓子屋の手前の角に、「カレー屋は右」と書かれた小さな看板が置かれている。
この看板を目印に角を曲がって路地に入ると、すぐにおいしそうな匂いが、お店が近いことを知らせてくれる。路地の左手には奈津子の行きつけのカレー屋さんがあるのだ。奈津子のおじさんがやっているカレー屋で、小さい頃から二人で通っている、奈津子と春彦のお気に入りのお店であった。そして奈津子は、カレーもおいしいがそれよりロジャースのBBCモニタスピーカから流れるクラッシックの方も気に入っていた。英国製のQUADがドライブするLS3/5Aという小さいスピーカであるが、上品で繊細なクラッシク音楽を奏でていて、エネルギッシュなJBLとは全く違うバロック音楽を楽しめるのだ。
「やあいらっしゃい、お二人さん。いつものかな」
「ええ、おじさん。お願いねっ」
明るい笑顔の奈津子を見ると、がんこ者で通っているおじさんの顔も思わずほころんでしまう。
受験勉強と両立させながらのバイトと病院への付き添いは、友達と遊びたい盛りの女子高生にはかなりの負担になっているはずである。奈津子は確かに最初はそうであった。愛する春彦が引きこもりになったのは自分の責任もあるという勝手な思い込みで、春彦への申し訳ないと思う気持ちだけが彼女を動かしていた。
苦痛の日々があったのは事実であったし、家族や周囲の人たちも、いつまでも続くわけはない、とそう思っていた。しかし、実際にはそうではなかった。不思議なことかもしれないが、今の奈津子は毎日が充実していて、勉強も春彦のことも上手く両立できており、このままやっていける自信に満ち溢れていたのである。
誰からも離れてしまった愛する春彦の気持ちを完全に一人占めできることの満足感、この満足感が奈津子にもたらす至福の感覚はまるで麻薬のようで、精神的な負担だけでなく、肉体的な苦痛までも吹き飛ばして余りあるものとなっていた。
感情を持たない春彦ではあったが、彼と一緒にいるときの奈津子は、愛する人の全てを独占できているという充実感と幸福感に包まれていて、こぼれる笑みをこらえることなど到底不可能なほど幸せであった。
「春ちゃんと一緒にいるときのなっちゃんはいつもいい顔してるねぇ」
「うん、だって嬉しいんだもん。ねぇ~春っち。 おじさん、ご馳走様。おいしかったわ、まったね~。」
二人は野菜カレーを堪能し、奈津子は春彦の自宅までの残りわずかな至福のデートのためにゆっくりと店を出た。そして春彦の手をとって歩きだしたその瞬間であった。春彦が突然、キラっと輝く光を2、3個見た、誰も知らない光を。
「うっ、何?」
誰も知らない光を見た、次の瞬間、
「ブチッ」
という鈍い音と共に奈津子が春彦に倒れかかってきた。
「うっ、何?」
2020年の下北沢、人類は破滅に向かって動き出していった。