「君では王太子妃にふさわしくない」と婚約破棄された聖女ですが、見た目が変わっただけで復縁を迫られたので八年分の重みを込めてお断りしました
八年間、王国を守り続けた。
その務めが終われば、ようやく愛する人の隣に立てる。
マリアンヌは、そう信じていた。
聖女マリアンヌ・フォン・グランベルクは、祭壇の中央に両手を置いていた。
足元には、淡い光を放つ魔法陣が広がっている。
かつては一日に一度の祈りで済んでいた。けれど、結界の老朽化が進むにつれ、必要な時間は少しずつ長くなった。
今では、朝から夕方まで祭壇を離れられない日もある。
その負担は、彼女の身体にも如実に表れていた。
祈りの前には、必ず食事が運ばれてきた。
「召し上がらねば、魔力も体力も保ちません」
神官たちはそう言って、皿を下げようとしなかった。
削られた分を、身体が自分で取り戻そうとしているようだった。
八年前には細かった腰は丸みを帯び、頬もふっくらとしている。昔のドレスは、もう一着も着られない。
それでもマリアンヌは、一度も祈りを欠かさなかった。
結界の向こうには、魔物がいる。
北の村にも、東の街にも、そこで暮らす人々がいる。
自分が手を止めれば、誰かが傷つくかもしれない。
その思いだけで、八年間続けてきた。
「マリアンヌ様」
祭壇の脇に控えていた神官が、静かに声をかけた。
「新しい結界装置の接続が完了いたしました」
マリアンヌは顔を上げた。
「……そうですか」
「これより、装置への移行を開始いたします」
魔法陣の光が、ゆっくりと変わっていく。
八年間、彼女を通して流れていた力が、新しい装置へと移されていった。
やがて、祭壇の光が消えた。
「移行、完了です」
神官が深く頭を下げる。
「長い間、本当にありがとうございました」
マリアンヌは祭壇から手を離した。
指先が、わずかに震えていた。
もう、明日からここへ来なくてもいい。
朝から晩まで祈り続けなくてもいい。
そのことが、まだ信じられなかった。
「……終わったのですね」
「はい。装置は正常に稼働しております」
マリアンヌは、小さく息を吐いた。
八年間。
長かった。
けれど、ようやく終わったのだ。
彼女は祭壇を振り返り、深く一礼した。
◇
祭壇から続く石段は、思っていたよりも長かった。
マリアンヌは手すりに手を添え、一段ずつ下りていく。
八年間、毎日のように上り下りしてきた階段だ。
けれど、今日ばかりは足が重かった。
「お手を」
不意に声をかけられた。
顔を上げると、石段の下に一人の騎士が立っていた。
濃紺の軍服に、銀の肩章。
王都の近衛騎士とは異なる、実用的な装いだった。
「……あなたは?」
「北方辺境騎士団所属、ヴォルフ・フォン・ライゼンと申します」
騎士は胸に手を当て、丁寧に一礼した。
「結界装置の移行に立ち会うため、北方より参りました」
「そうでしたか」
マリアンヌは、差し出された手を見つめた。
大きく、傷のある手だった。
「……重いですよ、私」
思わず、そんな言葉が出た。
騎士は少しも表情を変えなかった。
「存じています」
マリアンヌは目を伏せた。
けれど、続いた言葉に顔を上げる。
「あなたが八年間、何を支えてこられたのか」
騎士は、まっすぐに彼女を見ていた。
「北方では、結界が弱まるたびに魔物が押し寄せました。あなたが祈りを続けてくださったおかげで、救われた村がいくつもあります」
「……私は、ただ務めを果たしただけです」
「その務めに、私たちは命を救われました」
マリアンヌは、しばらく言葉を返せなかった。
王都では、結界があるのは当たり前だった。
誰もが、その向こう側に魔物がいることを忘れている。
けれど、この騎士は違う。
彼は、結界の外を知っている。
「……ありがとうございます」
マリアンヌは、差し出された手をしっかりと握った。
その手を支えに、最後の一段を下りる。
騎士の眉が、わずかに動いた。
けれど彼は何も言わず、支える腕は少しも揺らがなかった。
石段を下りきると、マリアンヌは手を離した。
「助かりました」
「お役に立てて光栄です」
騎士はもう一度、丁寧に頭を下げた。
その礼は、王太子の婚約者に向けられたものではなかった。
八年間、王国を守り続けた一人の聖女に向けられたものだった。
マリアンヌは、久しぶりに自然な笑みを浮かべた。
◇
王宮からの使いが訪れたのは、結界装置への移行を終えた翌朝だった。
マリアンヌは、久しぶりに朝の祈りをせずに食卓についた。
八年間、朝食はいつも祭壇へ運ばれてきた。神官たちは、祈りを始める前に必ず食べるようにと言った。
今日は、誰も食事を急かさない。
窓から差し込む朝日を眺めながら、ゆっくりと紅茶を飲む。
それだけのことが、ひどく贅沢に思えた。
「マリアンヌ様。王太子殿下がお呼びです」
侍女の言葉に、マリアンヌは顔を上げた。
「ジュリアン殿下が?」
「はい。午前十時に、王宮の応接室へお越しくださいとのことです」
「……分かりました」
マリアンヌは、そっとカップを置いた。
胸が少しだけ高鳴った。
昨日、ようやく八年間の務めが終わった。
これからは、婚約者として殿下と過ごす時間が持てる。
以前のように、一緒に庭を歩くこともできるだろう。
そんなことを考えながら、マリアンヌは衣装棚を開けた。
かつてジュリアンが褒めてくれた淡い青のドレスは、もう着られない。
代わりに、今の身体に合わせて仕立てた深緑のドレスを選んだ。
鏡の前で襟元を整え、マリアンヌは小さく微笑んだ。
久しぶりに、殿下とゆっくりお話しできる。
それが嬉しかった。
◇
王宮の応接室には、ジュリアンが先に来ていた。
机の上には、数枚の書類が並べられている。
「来たか、マリアンヌ」
「お呼びいただき、ありがとうございます」
マリアンヌが礼をすると、ジュリアンは椅子を勧めた。
「まずは、八年間の務め、ご苦労だった」
「……ありがとうございます」
「結界装置の移行も無事に終わったと聞いている。君の働きには、王家として感謝している」
マリアンヌは胸の奥が温かくなるのを感じた。
八年間。
ようやく、殿下から労いの言葉をいただけた。
「それで、今後のことなのだが」
ジュリアンは、机の上の書類を一枚、彼女の前へ滑らせた。
「婚約を解消したい」
マリアンヌは、書類を見つめた。
「……え?」
「君の聖女としての役目は、昨日をもって終了した。これに伴い、婚約の必要性を見直した」
「……必要性、ですか」
「ああ」
ジュリアンは、落ち着いた声で続けた。
「そもそも、我々の婚約は結界維持のために結ばれたものだ。君が王家に属することで、聖女の力を安定して確保する。それが当初の目的だった」
マリアンヌは、膝の上で両手を重ねた。
「ですが、殿下。私たちは……」
「もちろん、君個人に落ち度があると言っているわけではない」
ジュリアンは、もう一枚の書類を差し出した。
「八年間の功績に対する慰労金だ。王都郊外の離宮も、君が望むなら終生使用できるよう手配してある」
書類には、マリアンヌが見たこともない金額が記されていた。
これだけあれば、何不自由なく暮らせるだろう。
「生活の心配は不要だ。君の功績に対して、王家は十分な礼を尽くすつもりでいる」
「……そう、ですか」
「不満があるなら、条件は相談しよう」
マリアンヌは顔を上げた。
ジュリアンは、真剣な表情で彼女を見ていた。
怒っているわけでも、嘲っているわけでもない。
本当に、これで十分だと考えている顔だった。
「殿下」
「何だ?」
「私は、八年間……殿下と過ごせる日を、楽しみにしておりました」
ジュリアンは、わずかに眉を寄せた。
「気持ちは分かる。だが、事情が変わったのだ」
「……事情」
「結界は、今後装置によって維持される。王太子妃には、これから別の役割が求められる」
彼の視線が、マリアンヌの身体へと向けられた。
ほんの一瞬だった。
「外交、社交、そして王家の威厳を示すこと。君には長く神殿で務めてもらったが、今からそれらを身につけるのは難しいだろう」
「……はい」
「それに、王太子妃として人前に立つ以上、容姿にも一定の配慮が必要になる」
マリアンヌは、何も言えなかった。
深緑のドレスの裾を、指先がぎゅっと握る。
「君を責めているわけではない。結界維持のために身体が変わったことは、私も承知している」
ジュリアンは、穏やかに続けた。
「だが、率直に言おう。君では、王太子妃にふさわしくない」
マリアンヌは、ゆっくりと視線を落とした。
八年間、守ってきたものがある。
王国の結界。
そこに暮らす人々。
そして、いつか殿下の隣に立つという、小さな願い。
その最後の一つが、今、目の前で消えようとしていた。
「……承知いたしました」
マリアンヌは、静かに答えた。
「婚約解消を、お受けいたします」
ジュリアンは、ほっとしたように息を吐いた。
「理解してくれて助かる。君なら、そう言ってくれると思っていた。陛下には、私から改めてご報告する」
マリアンヌは、もう何も答えなかった。
差し出された書類を、静かに受け取る。
「慰労金と離宮の件は、追って担当者から連絡させる」
「……はい」
「長い間、ご苦労だった」
ジュリアンは立ち上がった。
話は終わったのだ。
マリアンヌも席を立ち、深く一礼した。
部屋を出る直前、彼女は一度だけ振り返った。
ジュリアンは、すでに次の書類に目を通していた。
八年間の婚約は、こうして終わった。
彼にとっては、書類を一枚片づけるのと変わらないことだったのかもしれない。
◇
王宮を出たマリアンヌは、馬車に乗らず、しばらく街を歩いた。
行き先は決めていなかった。
八年間、神殿と屋敷を往復するだけの毎日だった。王都の通りを歩くのは、いつ以来だろう。
店先には色とりどりの布が並び、焼きたてのパンの香りが漂っている。
人々は楽しそうに行き交っていた。
歩くたびに、膝が痛んだ。
今は、その痛みが胸の痛みを紛らわせてくれる気がした。
マリアンヌは、ふと足を止めた。
硝子窓に、自分の姿が映っていた。
深緑のドレスに包まれた、丸みのある身体。
ジュリアンの言葉が、耳に残っている。
『君では、王太子妃にふさわしくない』
八年間、王国のために祈り続けた。
その結果が、この身体だった。
けれど、この身体があったからこそ、八年間、王国を守ることができた。
もう祈る必要はない。
これからは、自分のために生きてもいいはずだ。
「……少し、変わりたいわ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
「それなら、ちょうどいいものがあるよ」
声がした。
振り返ると、薬屋の軒先に、一人の老婆が座っていた。
白髪を後ろで束ね、膝の上に古い本を広げている。
「……私に、おっしゃったのですか?」
「ほかに誰がいるんだい」
老婆は、マリアンヌを上から下まで眺めた。
「ずいぶん、無理をしてきた身体だね」
マリアンヌは、思わず胸元に手を当てた。
「……分かるのですか」
「薬師だからね。身体を見れば、多少のことは分かるさ」
老婆は立ち上がり、店の奥へ入っていった。
「おいで。話だけでも聞いていきな」
マリアンヌは、少し迷った。
けれど、足は自然と店の方へ向いていた。
◇
店の中には、乾燥させた薬草の香りが満ちていた。
棚には大小さまざまな瓶が並んでいる。
老婆は、その中から小さな硝子瓶を一つ取り出した。
中には、琥珀色の液体が入っていた。
「《剛健の霊薬》という」
「……剛健?」
「身体を、あるべき姿に整える薬さ」
老婆は瓶を卓上に置いた。
「ただし、誰にでも効くわけじゃない。長い年月をかけて、身体に余分なものを蓄えた者にしか効かない」
「余分なもの……」
マリアンヌは、自分の身体に目を落とした。
「痩せることも、できるのでしょうか」
「今の姿が変わることは確かだよ」
老婆は、ゆっくりとうなずいた。
「ただ、これは蓄えたものを捨てる薬じゃない」
「……捨てない?」
「蓄えたものを失わず、あるべき形に整える。そういう薬さ」
マリアンヌは、瓶を見つめた。
「では、私の身体に蓄えられたものは……」
「なくならない。形を変えて、お前さんのものになる」
老婆は、静かに続けた。
「ただし、何に変わるかは、その身体が何を必要としてきたかによる。長い間、何をしてきたか。何に耐えてきたか。身体は、ちゃんと覚えているものだからね」
マリアンヌは、両手を膝の上で重ねた。
八年間、毎日祭壇に立ち続けた。
食べても食べても、身体は疲れた。
それでも、祈りをやめるわけにはいかなかった。
「……私にも、効くでしょうか」
「効くだろうね。ただし、望んだ姿になるとは限らないよ」
老婆は、瓶を彼女の前へ押し出した。
「前に飲んだ娘の中には、鏡を見て泣いた者もいた。それでも、試してみるかい?」
マリアンヌは、すぐには答えなかった。
変わりたいと思った。
けれど、どんな姿になるのか分からない。
ジュリアンに認めてもらえるような、美しい姿になるとは限らない。
それでも。
「……はい」
マリアンヌは、顔を上げた。
「私、この身体を、もう一度好きになりたいのです」
老婆は、わずかに目を細めた。
「そうかい」
瓶の栓を抜き、マリアンヌへ渡す。
「なら、飲みな。お前さんが積み重ねてきたものは、無駄にはならないよ」
マリアンヌは、両手で瓶を受け取った。
琥珀色の液体が、窓から差し込む光を受けて輝いている。
八年間。
誰かのために使ってきた時間。
誰かのために変わってしまった身体。
そのすべてが、今度は自分のものになる。
マリアンヌは、静かに瓶を傾けた。
液体は、驚くほど温かかった。
喉を通り、胸の奥へ落ちていく。
やがて、身体の内側から、じんわりと熱が広がり始めた。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
老婆は、満足そうにうなずいた。
「効き始めたようだね」
マリアンヌは、胸元に手を当てた。
鼓動が、いつもより強く感じられた。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
「今夜はよく眠ること。それから、明日からは毎朝、身体を動かしなさい」
「身体を、ですか?」
「ああ。新しい身体には、慣れる時間が必要だからね」
老婆は、空になった瓶を受け取った。
「あの……お代は?」
「いらないよ」
老婆は、窓の外の北の空へ目をやった。
「生まれが北でね。あの結界には、昔ずいぶん世話になった」
その目が、マリアンヌへ戻ってきた。
「結界が装置に移ったのは、昨日だってね。そういう身体の娘が、その翌日に王宮のほうから歩いてくりゃ、あたしにだって察しはつくさ」
老婆は、わずかに口元を緩めた。
「八年間、よく頑張ったね。聖女様」
マリアンヌは、言葉を失った。
それから、深く頭を下げた。
店を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
まだ、何が変わったのかは分からない。
けれど、胸の奥には、久しく感じたことのない温かさがあった。
マリアンヌは、ゆっくりと歩き出した。
今度こそ、自分の人生を歩くために。
◇
翌朝、マリアンヌはいつもより早く目を覚ました。
寝台から身を起こす。
それだけの動作が、驚くほど軽かった。
昨日まで身体にまとわりついていた重さが、すっかり消えている。
膝の痛みも、もうなかった。
マリアンヌは、しばらく寝台の上に座っていた。
窓の外では、小鳥が鳴いている。
八年間、朝が来るたびに祈りの時間を気にしていた。
けれど、今日は違う。
急ぐ必要はない。
誰かに食事を勧められることも、祭壇へ向かうこともない。
マリアンヌは寝台から下り、寝室の扉へ向かった。
八年間、重い身体ごと押し開けてきた扉だった。
取っ手に手をかけ、いつものように押す。
扉は思いがけない勢いで開き、壁に当たって鈍い音を立てた。
「……え?」
マリアンヌは、思わず手を止めた。
取っ手を見つめ、首をかしげる。
けれど、扉が壊れたわけではない。
彼女はそっと扉を閉め、廊下へ出た。
廊下の先には、大きな姿見が置かれている。
その前を通りかかったとき、マリアンヌは足を止めた。
鏡の中に、一人の女性が立っていた。
頬の丸みは消え、顔立ちは以前よりもすっきりとしている。
八年前の自分に、少し似ていた。
けれど、同じではなかった。
マリアンヌは、鏡の中の自分を長いあいだ見つめていた。
もう、誰かに守ってもらうのを待たなくていい。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
八年間、誰かのために使ってきた身体。
その身体が、今は自分のものになった。
マリアンヌは、鏡の中の自分に微笑んだ。
「……ありがとう」
胸の奥にあった重たいものが、少しずつほどけていく気がした。
マリアンヌは涙を拭った。
今日からは、自分のために生きよう。
◇
結界装置への移行を終えてから、三日が過ぎた。
この三日、マリアンヌは毎朝庭を歩いた。日ごとに、歩く距離が延びていった。
その日の午後、彼女は王宮から届いた慰労金の書類に目を通していた。
離宮の使用許可証と、婚約解消を承認する国王の書状も添えられている。
ジュリアンは、約束した手続きを滞りなく進めていた。
その丁寧さが、今は少しだけ寂しかった。
「マリアンヌ様。お客様がお見えです」
侍女が告げた。
「北方辺境騎士団の、ヴォルフ・フォン・ライゼン様とおっしゃっています」
マリアンヌは顔を上げた。
「……ヴォルフ様が?」
祭壇の石段で手を差し出してくれた騎士。
八年間の務めを、初めて自分の言葉で認めてくれた人だった。
「北方への帰還を前に、ご挨拶に伺いたいとのことです」
「分かりました。お通ししてください」
マリアンヌは立ち上がった。
鏡の前で髪を整え、応接間へ向かう。
◇
ヴォルフは、窓辺に立っていた。
濃紺の軍服に、銀の肩章。
初めて会ったときと同じ装いだった。
「突然の訪問、失礼いたしました」
「いいえ。お越しいただけて嬉しいです」
ヴォルフは一礼した。
顔を上げた彼が、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
「……お元気そうで、何よりです」
「ありがとうございます」
マリアンヌは微笑んだ。
「少し、身体が軽くなりました」
「それは、よかった」
ヴォルフの表情が和らいだ。
しばらく、北方の話を聞いた。
結界が弱まるたび、騎士たちが夜を徹して警戒していたこと。それでも村々が、毎年きちんと春を迎えてきたこと。
マリアンヌには、初めて聞く話ばかりだった。
「私は、何も知らなかったのですね」
「知らなくて当然です。あなたは王都で、私たちは北方で、それぞれの務めを果たしていました」
ヴォルフは静かに答えた。
「だからこそ、一度きちんとお礼を申し上げたかったのです」
マリアンヌは、膝の上で両手を重ねた。
「……ありがとうございます」
それから、少し迷って口を開いた。
「実は、婚約が解消されました」
ヴォルフは、すぐには答えなかった。
「……そうでしたか」
「驚かれましたか?」
「はい」
彼は、正直にうなずいた。
「八年間の務めを終えられたばかりだというのに」
それ以上、ジュリアンを非難することはなかった。
マリアンヌは、少しだけ肩の力を抜いた。
「これから、どうなさるおつもりですか」
「……まだ、分かりません」
彼女は窓の外を見た。
「八年間、明日の予定を考える必要がありませんでした。朝になれば祭壇へ向かい、日が暮れるまで祈る。それだけでしたから」
「そうですね」
「今は、何をしてもいいと言われても……何をしたいのか、分からないのです」
ヴォルフは、しばらく考えていた。
「でしたら」
彼は、穏やかに言った。
「探すお手伝いを、させていただけませんか」
マリアンヌは顔を上げた。
「……私の、ですか?」
「はい。北方には、王都とは違う景色があります。山も、湖も、広い草原も。あなたが守ってくださった場所を、いつか一度ご覧になっていただきたいのです」
マリアンヌは、思わず微笑んだ。
「……素敵ですね」
「もしよろしければ、明日、王都の外れにある湖までご案内します。北方ほどではありませんが、静かな場所です」
「ぜひ、お願いします」
ヴォルフは、嬉しそうに笑った。
◇
翌日、二人を乗せた馬車が、王都の外れの湖に到着した。
マリアンヌは、動きやすい外出着を選んでいた。湖のほとりを歩くなら、そのほうがいいと思ったのだ。
馬車の扉が開く。
先に降りたヴォルフが、手を差し出した。
「お手を」
マリアンヌは、その手を見つめた。
もう、支えてもらわなくても馬車を降りられる。
けれど。
「……ありがとうございます」
彼女は、差し出された手を取った。
その瞬間、ヴォルフの目がわずかに見開かれた。
けれど、彼は何も言わなかった。
ただ、彼女が地面に降り立つまで、その手を離さなかった。
マリアンヌも、すぐには手を離さなかった。
◇
夜会の招待状が届いたのは、湖を訪れてから五日後のことだった。
王宮で開かれる、結界装置の完成を祝う夜会。
招待状には、八年間にわたって結界を支えた聖女への謝意を表する、と記されていた。
マリアンヌは、しばらくその文字を見つめていた。
婚約を解消してから、初めての王宮だった。
「お断りになりますか?」
侍女が尋ねた。
「……いいえ」
マリアンヌは、招待状を静かに置いた。
「私も、結界が完成したことをお祝いしたいわ」
八年間、守り続けた王国。
その役目を終えた今も、そこで暮らす人々の幸せを願う気持ちは変わらなかった。
◇
夜会の前日、仕立て屋が最後の仮縫いに訪れた。
マリアンヌは、姿見の前に立っていた。
淡い青のドレスが、身体の線に沿って柔らかく広がっている。
「お色はいかがでしょう?」
「とても気に入っています」
「以前も、お召しになっていたお色ですね」
「ええ。昔から、好きな色なのです」
仕立て屋は、背後に回って布地を確かめた。
「背中のあたりを、少し調整いたしましょう」
「お願いいたします」
「以前とは、ずいぶんお身体が変わられましたね」
「ええ。私も驚いています」
仕立て屋は小さくうなずき、布地に印をつけた。
マリアンヌは鏡の中の自分を見つめた。
かつて、ジュリアンが褒めてくれた色だった。
けれど、今この色を選んだのは、自分自身だ。
マリアンヌは、そっと微笑んだ。
◇
夜会の当日。
王宮の大広間には、華やかな音楽が流れていた。
マリアンヌが姿を現すと、近くにいた人々が振り返った。
八年間、ほとんど社交界に姿を見せなかった聖女。
祈りのために姿が変わったという噂だけが、王都には流れていた。
その噂を知る者たちは、驚きを隠せなかった。
「……マリアンヌ様?」
「まあ、なんてお綺麗に……」
小さな囁きが広がっていく。
マリアンヌは、落ち着いた足取りで広間を進んだ。
淡い青のドレスが、灯りを受けて柔らかく輝いている。
「マリアンヌ様」
声をかけられ、振り返った。
ヴォルフが立っていた。
今夜は濃紺の礼装を身につけている。
「お越しになったのですね」
「はい。ご招待いただきましたので」
「お会いできて嬉しいです」
ヴォルフは、穏やかに微笑んだ。
「そのドレス、とてもお似合いです」
「ありがとうございます。私も気に入っているのです」
マリアンヌは、嬉しそうに答えた。
ヴォルフは彼女の隣に立ち、広間を見渡した。
「今夜は、あなたが守ってこられたものを祝う夜です」
「……そうですね」
マリアンヌも、広間に目を向けた。
笑い声が聞こえる。
音楽に合わせて踊る人々がいる。
八年間、守り続けてきた日常が、そこにあった。
◇
「マリアンヌ」
聞き覚えのある声がした。
ジュリアンだった。
王太子の正装に身を包み、数人の貴族を従えている。
彼はマリアンヌを見ると、足を止めた。
「……見違えたな」
「お久しぶりでございます、殿下」
マリアンヌは、丁寧に一礼した。
ジュリアンの視線が、淡い青のドレスに向けられる。
「その色を、覚えていてくれたのだな」
「……はい。昔から好きな色ですので」
ジュリアンは、満足そうにうなずいた。
「そうか」
彼は、隣に立つヴォルフを見た。
「ライゼン卿。少し、彼女と話がしたい」
ヴォルフは、マリアンヌに目を向けた。
彼女は小さくうなずいた。
「構いません」
ヴォルフは一礼し、数歩離れた。
ジュリアンは、マリアンヌへ向き直った。
「君に、話しておきたいことがある」
「何でございましょう」
「婚約の件だ」
マリアンヌは、静かに彼を見つめた。
「解消の手続きなら、すでに……」
「その件を、見直したい」
ジュリアンは、落ち着いた声で言った。
「君を、再び王太子妃として迎えたいと考えている」
マリアンヌは、しばらく言葉を返せなかった。
ジュリアンは続けた。
「君の功績は、今夜改めて高く評価された。社交界への復帰も、問題ないだろう」
「……殿下」
「もちろん、以前の条件のままではない。王太子妃教育には専任の教師をつける。公務についても、当面は負担を軽くするつもりだ」
彼は、少し声を落とした。
「それに、ライゼン辺境伯家から、君との婚姻の打診があったと聞いている」
マリアンヌは目を見開いた。
「……婚姻の、打診ですか?」
「ああ。君にはまだ正式な話が届いていないのだろう」
ジュリアンは、彼女の反応を確かめるように続けた。
「結界を守った聖女が、北方の有力な武門と結びつく。それは、王国にとって慎重に扱うべきことだ」
「……それは」
「王家としても、君の功績を適切に遇する必要がある。だからこそ、婚約を戻すのが最善だと考えた」
マリアンヌは、ゆっくりと息を吸った。
「殿下」
「何だ?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「殿下は、私と結婚したいのですか?」
ジュリアンは、わずかに眉を寄せた。
「だから、そう言っているだろう」
「王太子妃としてではなく、私と、です」
ジュリアンは、答えなかった。
広間には、変わらず音楽が流れていた。
やがて彼は、静かに口を開いた。
「王太子の結婚に、個人の感情だけを持ち込むわけにはいかない」
マリアンヌは、小さくうなずいた。
「……そうですね」
その声には、もう迷いがなかった。
「殿下のお申し出には、何の不足もございません」
ジュリアンの表情が、わずかに和らいだ。
「そうだろう。ならば――」
「ただ、私がもう殿下をお慕いしていないだけです」
ジュリアンの言葉が止まった。
マリアンヌは、静かに続けた。
「八年間、私は殿下の隣に立つ日を待っておりました。でも、もう待っておりません」
「……マリアンヌ」
「今は、自分の人生を歩きたいのです」
ジュリアンは、彼女を見つめた。
「君は、何を言っている?」
「復縁のお申し出は、お断りいたします」
「条件が不十分なら、さらに検討する」
「条件の問題ではないのです」
「では、何が問題なのだ」
マリアンヌは、まっすぐに彼を見た。
「私の気持ちです」
ジュリアンは、何も言わなかった。
その沈黙の中で、彼の表情が少しずつ変わっていった。
「……待て」
マリアンヌが一礼して立ち去ろうとした、そのときだった。
ジュリアンが、彼女の手首を掴んだ。
「まだ話は終わっていない」
マリアンヌは足を止めた。
「お放しください」
「君は、状況を理解していない。北方辺境伯家との婚姻が、どれほど大きな意味を持つか――」
「殿下。お放しください」
ジュリアンは、手を離さなかった。
周囲の人々が、異変に気づき始めた。
音楽が止まる。
広間の中央に、静けさが広がっていった。
人垣の向こうで、ヴォルフが一歩踏み出しかけた。
けれど、止まった。
マリアンヌは、ジュリアンの手を見つめた。
かつては、その手を取る日を夢見ていた。
けれど、今は違う。
「……最後に、もう一度だけ申し上げます」
マリアンヌは顔を上げた。
「その手を、お放しください」
「マリアンヌ、私は――」
八年間、王国のために使ってきた力を、今、初めて自分のために使う。
マリアンヌは、空いている方の手を握りしめた――。
鈍い音がした。
ジュリアンの身体が、床を離れた。
そのまま後方へ飛び、広間を横切った。
人々が道を開ける間もなかった。
王太子は長い絨毯の上を滑るように進み、壁際に置かれていた長椅子へ背中から倒れ込んだ。
長椅子が大きく傾き、花瓶が床に落ちた。
誰も声を上げなかった。
マリアンヌは、突き出した自分の手を見つめた。
「……あら」
レースの袖の下で、二の腕が硬く盛り上がっていた。
それでも、青いドレスは縫い目ひとつほつれていなかった。
静まり返った広間のどこかで、誰かがかすれた声で呟いた。
「……筋肉?」
薬師の言葉が、ふと蘇る。
『蓄えたものを失わず、あるべき形に整える』
八年分の重みは、消えてはいなかった。
マリアンヌは、ゆっくりと拳を開いた。
指先は、少しも痛まなかった。
ジュリアンは長椅子にもたれたまま、呆然と彼女を見つめている。
マリアンヌは、その視線を静かに受け止めた。
そして、もう一度だけ告げた。
「殿下。謹んで、お断りいたします」
広間の向こうで、衛兵たちがようやく動き出した。
彼らはまず王太子のもとへ駆け寄り、それから、ためらうようにマリアンヌを見た。
その前に、ヴォルフが静かに進み出た。
「殿下は、この方の手首を掴んで離されなかった。この方は三度、放すよう求めておられた。――皆様、ご覧になっていたはずです」
誰も、異を唱えなかった。
◇
王太子ジュリアンは、すぐに王宮医師の診察を受けた。
医師の見立てでは、肋骨に一本ひびが入っていた。全治には、ひと月ほどかかるという。
広間にいた人々も、ようやく息をついた。
結界装置の完成を祝う夜会は、思いがけない形で幕を閉じた。
マリアンヌは、事情の聴取が済むまで、王宮の庭園で待つよう言い渡されていた。
夜風が、火照った頬を冷ましていく。
遠くから、衛兵たちの声が聞こえていた。
王太子を殴ってしまった。
その事実は、まだ消えない。
けれど、不思議と後悔はなかった。
「マリアンヌ様」
声に振り返ると、ヴォルフが立っていた。
「……ヴォルフ様」
「こちらにいらしたのですね」
「はい。少し、風に当たりたくて」
ヴォルフは彼女の隣に立った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、ヴォルフが静かに尋ねた。
「お手は、痛くありませんでしたか?」
マリアンヌは、自分の右手を見つめた。
指を開き、もう一度握る。
痛みはなかった。
「いいえ。少しも」
「……それは、よかった」
ヴォルフは、ほっとしたように微笑んだ。
「先ほどは、助けに入るべきか迷いました」
「……お気づきでしたか」
「はい。ですが、あなたがご自分で決めようとしているように見えましたので」
マリアンヌは、彼を見つめた。
「怖くは、ありませんでしたか?」
「正直に申し上げれば、少し」
ヴォルフは、穏やかに答えた。
「ですが、あなたを止める理由にはなりませんでした」
マリアンヌは、少しためらってから尋ねた。
「……驚かれましたか?」
「いいえ」
ヴォルフは、少しだけ笑った。
「石段でお手を取ったときから、強い方だと思っておりました。湖で、確信いたしましたが」
マリアンヌは、思わず笑みをこぼした。
「……ありがとうございます」
ヴォルフは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、少しだけ姿勢を正した。
「マリアンヌ様。お話ししておきたいことがあります」
「何でしょう」
「実は、ライゼン家から王宮へ、あなたとの婚姻について打診をしております」
マリアンヌは目を見開いた。
「……婚姻、ですか?」
「はい」
ヴォルフは、まっすぐに彼女を見た。
「正式な申し入れではありません。あなたが長く王家の庇護のもとにいらしたため、まずは王家との関係を確認しておくべきだと考えたのです」
「……そうだったのですね」
「ですが、何より大切なのは、あなたのお気持ちです」
彼は、静かに続けた。
「王宮への打診によって、あなたに何かをお約束いただくつもりはありません。もしご迷惑でしたら、この話はここで終わりにいたします」
マリアンヌは、ゆっくりと首を横に振った。
「迷惑だなんて……そんなことはありません」
ヴォルフの表情が、少しだけ和らいだ。
「私は、北方であなたの祈りに何度も救われました」
彼は、夜の庭園へ目を向けた。
「初めてお会いしたとき、あなたがどれほどのものを背負ってこられたのか、ようやく分かった気がしました」
マリアンヌは、静かに聞いていた。
「そして、湖でご一緒したときには、もっとあなたのことを知りたいと思いました」
ヴォルフは、彼女へ向き直った。
「これから先の時間を、私と共に過ごしていただけませんか」
マリアンヌは、すぐには答えなかった。
八年間、誰かの隣に立つ日を待ち続けた。
その願いは、一度失われた。
けれど今、目の前の人は、彼女が何を望むのかを尋ねてくれている。
「……ヴォルフ様」
「はい」
「私、まだ自分が何をしたいのか、分からないのです」
「存じています」
その言葉に、マリアンヌは小さく笑った。
初めて会った日も、この人はそう答えた。
「それでも、よろしいのですか?」
「もちろんです」
ヴォルフは、静かに微笑んだ。
「答えを急ぐ必要はありません。あなたが望む道を、あなた自身で選んでください」
マリアンヌは、しばらく彼を見つめていた。
それから、そっと手を差し出した。
「……では、まずは、もう一度湖へ連れていっていただけますか?」
ヴォルフは、その手を取った。
「喜んで」
大きな手が、彼女の手を優しく包んだ。
今度は、どちらもすぐには離さなかった。
◇
数日後、王都には穏やかな日差しが降り注いでいた。
国王は、居合わせた者たちの証言から、王太子が再三の制止を無視して彼女の手首を掴み続けたことを重く見て、夜会での一件を不問とした。
王太子には、しばらくの謹慎が命じられたという。
新しい結界装置は、変わらず正常に稼働していた。
北の村も、東の街も、いつもどおりの朝を迎えていた。
マリアンヌが八年間守り続けた日常は、今日も続いている。
そして彼女もまた、自分のための新しい一日を歩き始めた。
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