「泥棒猫」と罵られましたが、私も婚約者もあなたを存じ上げません
選んでいただきありがとうございます。
ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
26.7.10 感想でのご指摘を頂き、近々改稿予定です。しばらくお待ちください。
26.7.11 改稿させていただきました。
「あら、見苦しい姿でまだこの学園にしがみついているのね、留年令嬢」
きつい香水の香りと共に、甲高い声が降ってきた。
学園のサロンの隅にあるソファで一人、自身の魔法研究のメモ帳である『写本』を整理していたアメリアは、ゆっくりと顔を上げた。そこには豪華に着飾った侯爵令嬢セレーナが、数人の取り巻きを引き連れて勝ち誇ったように立っていた。
「本ばかり読んでアカデミーを留年した挙句、元婚約者にすら愛想を尽かされて放逐された傷物令嬢。そんな恥ずかしい経歴を持ちながら、よくもまあ何食わぬ顔でサロンに出入りできるものですわ」
セレーナの挑発的な物言いに、サロンにいた他の貴族たちも興味深げに視線を向けた。
アメリアはゆっくりとメモ帳を閉じ、膝の上に置いて、貴族としての丁寧な姿勢を保ったまま口を開いた。
「……申し訳ございません。私、人の顔と名前を一致させるのが極端に苦手で……。失礼ですが、お家名か、あるいはご所属の学術派閥を伺ってもよろしいでしょうか。私のお友達や、研究の参考書に載っているお名前でしたら、記憶から引き出せるかもしれないのですが」
サロンが、水を打ったように静まり返った。
セレーナの顔が、怒りと戸惑いでみるみる朱に染まっていく。
周囲の貴族たちから、くすくすと忍び笑いが漏れ始めた。それはアメリアを笑ったのではなく、自分だけがサロンの主役であるかのように大仰に振る舞っていたセレーナが、相手に存在すら認識されていなかったという滑稽さに対するものだった。
アメリアにとって、本を読むことは呼吸と同義だった。物語から魔導理論、歴史書から古い戯曲まで、文字が並んでいれば何でも貪り食った。その結果、授業に出るのをすっかり忘れ、気がつけば留年が決まっていた。普通なら絶望するところだが、アメリアは「これで新刊をもう一年、誰よりも早く図書室で読める!」とガッツポーズをしたものだ。
そんな異端児であるアメリアを、両親は頭を抱えて心配していた。
『アメリア、お前は本当に可愛いのに、どうしてそう人間関係に協調性がないんだ……。このままでは一生、誰とも心を通わせずに孤独に過ごすことになるぞ』
実家が決めていた以前の婚約者の殿方からも、ある日突然、「君のように社交をサボって本ばかり読んでいる女は、我が家の妻にふさわしくない。婚約はなかったことにさせてくれ」と言われた。アメリアは「分かりました。手続きはお任せします」と、本から目を離さずに即答した。
アメリアにとっては、お茶会や夜会に強制参加させられる義務が消え、読書時間が増えるだけの「円満な婚約解消」だった。しかし、世間やセレーナのような人間にとっては、どうやら「無能ゆえの婚約破棄」という大層な瑕疵に見えるらしい。
「な、何ですって……!? この私を、セレーナ・ヴァルハイト侯爵令嬢を知らないというの!? そんな見え透いたとぼけ方で、恥を誤魔化せると思わないことですわ!」
「いえ、とぼけているわけでは……」
アメリアは本当に困惑して眉を下げた。
「だいたい、あなたが不手際で婚約破棄された傷物のくせに、公爵令息であるディートリヒ様にすり寄るなんて身の程知らずですわ! ディートリヒ様があなたのような地味な留年令嬢を相手にするはずがありませんのに!」
セレーナが声を荒らげた、その時だった。
「私の名前が呼ばれたようだが、何か用かい?」
サロンの入り口から、冷徹な空気を纏ったディートリヒが入ってきた。
「ディートリヒ様!」
セレーナは顔を輝かせ、アメリアを指さして言った。
「ちょうど良いところに! この令嬢が、私に無礼な態度を取るのですわ! それに、この女はあなたに付きまとっている泥棒猫です!」
だが、ディートリヒはセレーナを一瞥することもなく、アメリアの前に立つと、その細い肩を優しく引き寄せた。
「怪我はないかい、アメリア」
ディートリヒの低い、しかしアメリアにだけは甘い声が、サロンのざわめきを静めさせた。
「はい、ディートリヒ様。ただ……」
アメリアの戸惑うような視線を追うように、ディートリヒは初めてセレーナたちに向き直った。しかし、怪訝そうに眉をひそめ、アメリアに尋ねる。
「アメリア、失礼だが……この方はどなただい? 君が所属している魔導研究会の、新しい助手か何かかい?」
「いいえ、ディートリヒ様。私も今、お名前と所属を伺おうとしていたところですの」
アメリアが淡々と答えると、サロンが今度こそ水を打ったように静まり返った。
セレーナの顔が、絶望と怒りで急速に真っ白になっていく。
「な、何ですって……!? ディートリヒ様、この私を、セレーナ・ヴァルハイト侯爵令嬢をお忘れとおっしゃるのですか!? 先日の夜会でご挨拶させていただいたときに、優しく微笑んでくださったではありませんか!!」
ディートリヒは困惑したように首を傾げた。
「ううん、確かに夜会で挨拶はしたかもしれないが、あいにくアメリア以外の顔と名前を一致させるのが苦手でね。本当に記憶にないな」
悪気など微塵もない、あまりにも当然といった口調。ディートリヒもまた、アメリアに負けず劣らず「アメリア以外の人間関係に興味のない本の虫」だったのだ。
「そ、そんな……うそよ……」
セレーナの唇が、がたがたと震え出す。
ディートリヒはセレーナを一瞥することもなく、アメリアの肩をそっと抱き、静かに言葉を重ねた。
「いずれにせよ、アメリアがかつての婚約者と婚約を解消したのは事実だが、それは『破棄』や『放逐』などという無作法なものではない。お互いの実家が合意した円満な解消だ。そして、私たちは新たな婚約関係にある。アメリアは私の大切な婚約者であり、決して泥棒猫などではない。これ以上、根拠のない侮辱を続けるなら、私から学園とヴァルハイト侯爵家へ正式に抗議する」
アメリアが、なぜ公爵令息であるディートリヒと婚約することになったのか。
理由は単純だった。彼もまた、重度の「本の虫」だったからだ。
ディートリヒは公爵家次期当主という重責の中で、自分と同じレベルで本を深く語り合える相手が周囲に一人もおらず、ずっと孤独を抱えていた。そんな彼にとって、図書室の最奥で難解な魔法理論書を睨みつけるアメリアとの出会いは、まさに奇跡だった。
最初は、同じ本を狙って手が重なっただけだった。次に、その本に書かれた古代魔法理論の矛盾点について、お互いに一歩も譲らずに議論を交わした。気がつけば、彼らは図書室で毎日顔を合わせるようになっていた。
『この著者の理論は、基礎術式の構築が雑だ。読むに値しない』
『あら、でも三章の術式展開はとても美しいわよ。実践向きではないけれど、芸術的価値はあるわ』
そんな会話が、何よりも楽しかった。誰にも理解されないオタク話。沈黙すらも、お互いにページをめくる音だけが響く空間は、空気のように心地よかった。
ある日、二人が仲良く同じテーブルで頭を突き合わせて難解な書物を読んでいる姿を発見した両家の親は、その場で抱き合って涙を流した。
『あの協調性のない我が子が、まさか人と会話しているなんて……!』
『しかも、あんなに嬉しそうに……!』
公爵家と伯爵家の親同士は、がっちりと熱い握手を交わし、本の虫たちの意見も聞かずに「とっとと正式な婚約者にしてしまおう」と、光の速さで手続きを済ませてしまったのだ。
「それから、ヴァルハイト侯爵令嬢。このサロンは学園の公共の場だ。他者を一方的に侮辱し、根拠のない虚偽の噂を故意に広めて大声を上げる行為は……はしたないと思うが?」
セレーナは周囲の冷ややかな視線と、ディートリヒとアメリアの二人から「存在すら認知されていない」という決定的な絶望に叩きのめされ、言い訳もできずに青ざめた顔でサロンから逃げ出すように立ち去っていった。
静寂を取り戻したサロン。
アメリアはディートリヒの胸元を見上げ、不思議そうに尋ねた。
「ディートリヒ様。ヴァルハイト侯爵令嬢……あの方は、どの魔導研究会に所属されている方なのでしょうか?」
ディートリヒはアメリアの髪を愛おしそうに撫で、穏やかに微笑んだ。
「彼女は魔導研究会には所属していない。社交界での評判を何より重んじる方のようだね。君が心を乱される必要はないよ。それよりアメリア……今日の分のタルトは、まだ東屋に残っているけれど、あそこに戻って続きを食べようか?」
「はい、ディートリヒ様」
二人はサロンを後にし、緑豊かな裏庭の東屋へと移動した。
東屋のテーブルの上には、木製の書見台に載せられた古代魔法言語の『写本』が置かれていた。ディートリヒはアメリアの写本にそっと栞を挟み、パタンと閉じた。さらに、万が一にも本を汚してしまうことのないよう、丁寧に保護用の布をかけて机の端へと避ける。
「本を大切にする君だからこそ、読書と食事は分けるべきだよ。さあ、手を拭いて、温かいうちに食べるといい」
「……そうですわね。ありがとうございます、ディートリヒ様」
アメリアは手袋を外し、ディートリヒが差し出した濡れタオルで指先を清めてから、フォークを受け取った。小皿の上には、アールグレイの茶葉と洋梨をふんだんに使った焼き立てのタルトが一切れ、綺麗に並んでいた。
そして、婚約者となったディートリヒの愛と「凝り性」な部分は、アメリアの予想を遥かに超えて重かった。
ある日、ディートリヒに「アメリア、君はどんな食べ物が好きなんだい?」と聞かれ、アメリアは「タルト、かしら」と答えた。
その翌日、ディートリヒ公爵邸の食堂に招かれたアメリアは、言葉を失った。
長い大理石のテーブルの端から端まで、色とりどりのタルトが整然と並べられていたのだ。イチゴ、ブルーベリー、洋梨、レモン、チョコレートにチーズ、ナッツ――その数、実になんと三十種類。
『君の好みのタルトの定義が分からなかった。フルーツの酸味比率、生地の焼き加減、クリームの糖度、それらの組み合わせを網羅するには、最低でもこの三十パターンが必要だった』
大真面目な顔で、まるで難解な魔法理論の実験データを並べるかのように熱弁するディートリヒ。その「凝り性」のベクトルが自分に向けられた結果としての山のようなタルトを前にして、アメリアは嬉しさよりも先に、彼の極端すぎる愛の物理的な質量に少し驚いた。
その中からアメリアが「アールグレイの茶葉と洋梨の組み合わせが一番好き」と答えたことで、ようやくタルト研究は終息した。今日の皿の上にあるのも、彼が専属の料理人に特注して作らせた、アメリアお気に入りのタルトだった。
アメリアはタルトを一口含み、洋梨の優しい甘みとアールグレイの華やかな香りに目を細めた。
「本当に美味しいですわ。ディートリヒ様、今度はあの本に載っていた魔術式について、もっとお話ししたいですわ」
「ああ、いくらでも付き合うよ」
二人の穏やかな声は、優雅な紅茶の香りと共に、再び緑豊かな裏庭の光の中へと消えていくのだった。
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