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『隣国の大商人、とんかつの独占販売権を買いに来て三時間で人生を見つめ直す』 ~銀貨三枚の意味を理解した男が、金貨千枚を置いて帰った話~ ep-9

掲載日:2026/05/02

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。

「大陸中の物価を動かしてきた俺が、銀貨三枚の前で完全に敗北した」


 資産は王国一つ分。動かす商品の総量は、港町三つを養える規模。

 グスタフ・メルヒオール。黄金天秤商会の総帥。この男が動けば、大陸の物価が揺れる。

 その男が今朝、馬車を三台連ねて王都に乗り込んできた。


 目的は一つだ。

「とんかつの独占販売権を買う」

 先月、取引先の貴族から話を聞いた。路地裏の怪しい店が、王都中の話題をさらっている。食べた者が全員泣く。貴族も平民も関係なく、銀貨三枚で魂を取り戻す料理がある、と。

 グスタフは即座に計算した。

 この料理を独占できれば、大陸全土に展開できる。一皿の値段を金貨一枚に設定して、王侯貴族専用にすれば——。

 だが、敗北した。

 銀貨三枚に。

 その理由を、これから話す。


 ◇


「馬車を止めろ」

 路地裏の入口で、グスタフは降り立った。

 従者が三人、後に続く。

 暖簾が一枚、風に揺れていた。

 グスタフは暖簾を見た。

 煤けている。字が汚い。看板が小さい。

(……こんな店が、大陸を変える料理を出しているのか)

 信じがたい。

 だが鼻が、言っている。

 本物だ、と。

 グスタフは暖簾をくぐった。


 ◇


 カウンターの奥で、男が振り向かずに言った。

「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」

 グスタフは店内を見回した。

 狭い。カウンターが六席。テーブルなし。厨房は一人で回している。従者三人が入ったら、もう満員だ。


「貴方が店主か」


「そうだ」


「グスタフ・メルヒオールだ。黄金天秤商会の総帥として、折り入って話がある」


「定食を食うか食わないか、どちらだ」


 グスタフは一瞬止まった。

 二十年間、自分の名前を言って会話が止まらなかったことはない。


「……食う。だが話も——」


「食ってから話せ」


 グスタフは席に着いた。

 従者が続こうとしたとき、揚太郎が言った。


「三人は外で待て。席が埋まる」

 従者が顔を見合わせた。

 グスタフが手を振った。

「外で待て」

 従者が出ていった。


 ◇


 皿が出てきた。

 グスタフは商人の目で、まず皿を見た。

 食器は普通だ。盛り付けに装飾がない。添え物の野菜が細く刻まれているだけで、見た目は地味だ。

 金貨一枚の料理に見えない。

(……やはり過大評価か)

 だが鼻が、また言った。

 本物だ、と。

 グスタフは箸を持った。

 この国の料理はナイフとフォークで食べる。箸は初めてだ。うまく持てない。

 揚太郎が振り向きもせずに言った。


「こう持つ」

 見もせずに、箸の持ち方を言葉だけで説明した。

 グスタフは三回試して、なんとか持てた。

 一口、食べた。


 ザクゥゥゥッ。

 グスタフの思考が、止まった。

 二十年間、世界中の料理を食べてきた。

 王侯貴族の晩餐会。秘境の珍味。幻の食材。金貨百枚の一皿。

 全部食べた。

 全部「美味しい」と思った。

 だが今、「美味しい」という言葉が出てこない。

 別の何かが、胃の底から直接湧き上がってくる。

 商会を起こす前、まだ何者でもなかった頃。市場の端の屋台で、父親と二人で食べた、安くて温かいあの飯。

 あの頃はまだ、食べ物を「商品」として見ていなかった。

 ただ、腹が満たされた。

 それだけで十分だった。


「……ッ」

 グスタフは箸を置いた。

 目の奥が、じわりと熱くなった。

 二十年間、人前で感情を見せたことがなかった。

 だが今、従者がいなくて、本当によかったと思った。

 揚太郎が、振り向かずに言った。


「どうだ」


「……うまい」


「そうか」

 それだけだった。

 グスタフはしばらく黙って、残りを食べた。

 皿が空になった。

 グスタフは背筋を伸ばして、口を開いた。

「折り入って話がある」


「聞く」


「この料理の独占販売権を買いたい。金貨千枚を用意している」

 沈黙。

 揚太郎が振り向いた。


「独占販売権?」


「そうだ。大陸全土に展開する。一皿金貨一枚で、王侯貴族専用の料理として——」


「断る」

 即答だった。


 グスタフは止まった。

「……理由を聞かせてもらえるか」


 揚太郎は布巾で手を拭いた。

「金貨一枚の料理にしたら、誰が食える」


「王侯貴族が——」


「ハンスが食えるか」


「……誰だ」


「十歳の孤児だ。先週銀貨三枚分働いて、ここで飯を食った」


 グスタフは黙った。

「カトリーヌが食えるか。不当解雇されて銀貨三枚しか持っていなかった騎士だ。リーネが食えるか。追放されて路地裏に来た聖女だ」


 揚太郎は鍋に向き直った。

「銀貨三枚で来られる奴が、この幸せを手に入れられる。それが俺の店だ。金貨千枚あっても、それは変わらない」


 グスタフは長い間、黙っていた。

 店内に、油の音だけが響いている。

 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 次の客のための、一枚が揚がっている。

 グスタフは懐から財布を取り出した。

 銀貨を三枚、カウンターに置いた。


「……もう一杯、食えるか」


「食える」


「では頼む」

 二杯目の皿が出てきた。

 グスタフは今度は箸の持ち方を間違えなかった。

 黙って、全部食べた。

 皿が空になった。

 グスタフは立ち上がり、深々と頭を下げた。


「……失礼した。的外れな話を持ち込んだ」


「別にいい」

 グスタフは出口に向かいかけて、止まった。


「一つだけ聞いていいか」


「なんだ」


「貴方は、なぜ銀貨三枚なんだ」


 揚太郎は少し間を置いた。

「日本にいた頃、千円のとんかつを食うために三時間残業した夜がある」


「……千円?」


「銀貨三枚くらいの値段だ」


「その値段で、三時間残業したのか」


「した。それが正解だったから」


 グスタフはしばらく揚太郎を見た。

 それから、もう一度頭を下げた。

 今度は商人としてではなく、ただの客として。

 店を出ると、従者三人が飛んできた。


「総帥、交渉の結果は!?」


「断られた」


 従者が顔を見合わせた。

「で、では次の手を——」


「要らない」

 グスタフは馬車に乗り込んだ。


「帰るぞ」


「え? それだけですか!?」


「それだけだ」

 馬車が動き出した。

 窓の外に、路地裏の暖簾が見えた。

 風に揺れている。

 煤けて、字が汚くて、小さい看板。

 だがその向こうから、あの匂いがする。

 グスタフは窓から顔を引っ込めた。


 手帳を開いて、一行書いた。

「銀貨三枚の意味、理解した。商売にならない理由、理解した」

 少し考えて、もう一行書いた。


「来週また来る。今度は一人で」

 手帳を閉じた。


 ◇


 翌週。

 グスタフは一人で路地裏に来た。

 従者なし。馬車なし。

 懐に銀貨三枚だけ持って。

 暖簾をくぐると、揚太郎が振り向かずに言った。


「来たか」


「来た」


「定食か」


「定食だ」

 グスタフはカウンターに座った。

 隣の席では、アル爺が蒸籠を磨いていた。


「客か?」


「そうだ」


「初めて来たか?」


「二回目だ」


「そうか。ここの飯は、何度食っても飽きんぞ」

 グスタフは少し笑った。

「そのようだ」


 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 今日も、銀貨三枚の革命が始まる。


(完)


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