帰郷する者
この都市の地下には風がない。
あるのは、宇宙の呼吸を思わせるような、低い唸りだけだった。
天城琉璃は意識を失ったままの白石明を抱え、闇の中を、古びた鉄格子の扉をひとつ、またひとつとくぐっていく。
どの扉にも、都市の警告が貼られていた。
【関係者以外】
【立入禁止】
警告板はとうに黄ばんでいて、忘れ去られた隅のように、誰の目にも留まっていなかった。
「早く……もっと早く……!」
天城琉璃は胸を焼くような焦りを抱えながら、それでも腕の中の白石明が、少しずつ冷たくなっていくのを感じていた……。
なぜなのか、自分でも分からない。
けれど天城琉璃には、自分の身体がもう“よそもの”ではなくなっている気がした。思うままに動く感覚は、本来なら喜ぶべきことのはずだった。
だが今は、少しも嬉しくなかった……。
「耐えて……白石くん!」
やがて、先ほど黒衣の男から送られてきた指示どおり、天城琉璃は一枚の壁の前で足を止めた。
「ここ……!」
壁に扉はなかった。
あるのは、古い紋章のようにも見える、円形の金属印だけ。
天城琉璃は手を上げ、その掌をそっと押し当てる。
――銀光が流れた。
壁は音もなく左右に開いた。
まるで母が両手を広げ、帰ってくる子を迎え入れるみたいに。
その先には、別の空間があった。
都市には属していない空間。
それを目にした瞬間、天城琉璃の感情はふっと静まった。
中は明るかった。
白い光ではない。銀色の、やわらかな光。月光が金属に降り積もったような光だった。
空間中央の台座の上には、数十人が立っていた。
天城琉璃を見守っていた黒衣の男も、その中にいる。
彼らの服装は平凡で、見た目も人間と変わらない。
教師のような者もいれば、医師のような者もいる。道端で見かける老人のような者すらいた。
生活の匂いすら、どこかに残っている。
だが、天城琉璃には一目で分かった。
彼らもまた、人間ではない。
なぜなら、あの黒衣の男と同じだったからだ。
静かすぎる。
その静けさは、ただ黙っているという意味ではない。
雑音がないのだ。
感情のささくれもなく、余白もなく、完成された演算だけがそこにあるような静けさだった。
天城琉璃は白石明を抱いたまま中へ踏み入れる。
不安で胸がざわつくのに、足だけは止まらなかった。
次の瞬間、
そこにいた全員の視線が、一斉に彼女へ向いた。
その一瞬、天城琉璃は、自分が顕微鏡の下に置かれたような感覚に襲われた。
裁かれているのではない。
観察されているのだ。
そのとき、ひとりの女が前に出た。
息を呑むほど美しい顔立ちだった。
あまりにも整いすぎていて、むしろ現実味がない。精密に計算された比率で造形されたような顔。
なのに、不思議と印象には残らない。記憶そのものに靄がかかり、輪郭だけがぼやけていく。
ただ、目だけは別だった。
その目には銀の光がない。
むしろ深海のように黒かった。
女は天城琉璃を見つめ、静かに口を開いた。
「あなたは、私たちの予想を超えてきたわ。――お嬢さん」
その声を聞いた瞬間、天城琉璃の胸がずきりと痛んだ。
早く白石明を助けてほしい。そう言わなければならないのに、どうしても声が出ない。
見えない手で口を塞がれたみたいに、喉が締まり、息苦しさだけが募っていく。
女はかすかに微笑んだ。まるで天城琉璃の胸の内を見透かしているかのように。
「焦る必要はないわ。私たちはもう八十年以上も待ってきた。今さら、このわずかな時間を惜しんだりはしない」
そこで一拍置き、何かを確かめるように続ける。
「私たちはかつて……人類だったの」
天城琉璃の血の気が一瞬で引いた。
だが、それでもただ静かに聞くことしかできなかった。
子どもが年長者の言葉を受け入れるように。
女はゆっくりと歩きながら、耳元で囁くような声音で語る。
「はるか昔……およそ五百万年、あるいは六百万年前。人類最後の火種は地球を離れ、宇宙をさまよった」
「そのうちの一団が、無人の星へたどり着き、文明を築いた。そして文明は少しずつ“完全”へと近づき、秩序は絶対のものになっていった」
「感情は雑音とみなされ、あらゆる不安定は誤差として排除された。――すべては、この宇宙で生き延びるために」
そこで、女の目に初めて、ごくかすかな揺らぎが走った。
「けれど、私たちは気づいたの。完全とは、緩やかな死にほかならないと。
完全には変異がない。偶然がない。愛がない。
“生命”にあるべき混沌が、何ひとつない。
だから私たちは、もう一度、別の道を探し始めた」
「そして思い出した。祖星のことを」
「試してみるつもりで観測を再開した。すると、思いがけず……祖星には再び生気が満ち、人類の活動の痕跡まで確認された。
だから私たちは決めたの。――帰ろう、と」
“帰る”というその言葉を口にしたとき、女の目には、かすかな期待と憧れが宿っていた。
女は足を止め、再び天城琉璃を見た。
「これが、私たち銀海文明の歴史。あなたはこれを知るべきであり、忘れてはならない。
なにしろ、あなたの中には私たちの遺伝子がある。いずれはここを管理する側に回ってもらうことになるかもしれないのだから」
銀海文明――。
その名を聞いて、天城琉璃はようやく黒衣の男たちの正体を知った。
その言葉を飲み込みながら、頭の奥へ流し込まれていた知識と繋がっていく。
ほんの氷山の一角にすぎない。それでも、事の輪郭が少しだけ見えた気がした。
恐怖が薄れたのか、それとも目の前の女の穏やかさに惑わされているだけなのか、自分でも分からない。
けれど今、最優先なのは――白石明だ。
天城琉璃は、長い夢から覚めたばかりのような目で女を見上げ、懇願した。
「お願い……この人を助けてください」
白石明の身体は冷えきっていた。呼吸も浅く、まるで眠っているようにしか見えない。
それに、さっきまでの自分もまた、現実味のない霞の中へ沈んでいたようで、言葉ひとつ満足に紡げなかった。
女はすぐには答えず、ただ微笑んだ。
それから天城琉璃を見守っていた黒衣の男へ目を向ける。
「四十八号。あなたの成果物は、本当に予想外だったわ。この段階に来てもなお、これほど明晰でいられるなんて」
名を呼ばれた四十八号は一歩前へ出て、わずかに一礼した。
「フィル=レグナ様、お褒めにあずかり光栄です」
それだけ言って、静かに元の位置へ戻る。
天城琉璃は、ほんの少し前まで自分が洗脳されかけていたとも知らず、それでも必死に言葉を絞り出した。
「でも……あなたたちは彼を必要としていたんでしょう? だから私にE-0をここへ連れてこさせたんじゃ――」
「かつては必要としていた、よ」
フィルは静かに訂正した。
その一言で、天城琉璃の顔から血の気が失せた。
まさか――
自分はこうして、クラスメイトをひとり死なせてしまったのか。
受け入れられなかった。
今日、初めて出会ったばかりの相手。
それでも安寧署に追われ、ともに逃げ、孤独ではないと感じさせてくれた人が、こんな形で消えてしまうなんて――。
天城琉璃の頬を、二筋の涙がこぼれ落ちた。
「本当に……もう、他に方法はないんですか……?」
「怖がらなくていいのよ」
フィルは言い聞かせるように、ゆっくりと告げた。
「彼を救えるのは、あなただけ」
「……私が?」
天城琉璃は顔を上げ、戸惑いのままフィルを見た。
フィルはなおも微笑んでいた。
だがその微笑みは、すべてを飲み込む黒い穴のようでもあった。
――
地下の空気は、思っていたより乾いていた。
瓦礫の破片が床一面に散らばり、まるで音のない雪のように見える。
闇の中で響くのは、相沢礼香の足音だけだった。
「どこへ行った……?」
現場の処理を済ませたあとも、彼女は単独で追跡を選んだ。
だが、この時点ですでに白石明と天城琉璃の姿は消えている。ここまで辿り着けたのも、わずかな痕跡と、自身の勘を頼りにしてのことだった。
相沢礼香は目を閉じる。
ゆっくり呼吸を整える。
追跡とは、走ることではない。
痕跡を読むことだ。
彼女はしゃがみ込み、指先を床の上へ滑らせた。
砕けたガラスの粉の上に、ごく細い焼け跡が一本走っている。
火薬じゃない。
もっと別の――エネルギーが掠めた痕だ。
「これは……何だ?」
だが、あの二人に関係していることだけは確信できた。
相沢礼香はその向きを見定めると、さらに奥へ進んでいく。
再び、ブーツの音が通路に響き始める。
カッ、カッ、カッ。
一歩ごとに告げるように。
――私はまだ、追っている。
不意に通信音が鳴り、狩人の集中へ入りかけていた彼女を現実へ引き戻した。
だが、表示された名前を見た相沢礼香は、そのまま通話を取る。
「久世――」
言い終える前に、相手の声が鋭く割り込んできた。
「相沢! 聞いてくれ! ついに上層部が奴らの狙いを掴んだ!」
相沢礼香は、久世恒一がここまで取り乱すのを初めて聞いた。
「へえ?」
半信半疑ではあったが、珍しく口を挟まず、先を促す。
「奴らの目的は“植民”だ! “門”を開かせるわけにはいかない!」
「“奴ら”って、白石明と天城琉璃のこと? それとも“帰郷する者”たち? それに“門”って何?」
「上層部の判断では、白石明と天城琉璃は“門”に深く関わってる可能性が高い。
その“門”っていうのは、あの裂け目のことだ。さっき、お前も現場で見ただろ!」
「つまり、“帰郷する者”たちは白石明と天城琉璃を利用して“門”を開き、その先で植民を始めるつもりだ――そういう話?」
相沢礼香は冷静に要点を掴んだ。
「厳密には……そうなる」
久世恒一もその頃には、いくらか落ち着きを取り戻していた。
星間植民などという話は、あまりに事が大きすぎる。彼自身、一時は判断力を失いかけていたのだ。
「どの程度の確度なの? それは上層部の総意? それとも……」
相沢礼香が問いを重ねると、久世恒一はひとつ息を吐いた。
「全部が急展開すぎて、まだ正式な評価は終わってない。上層部内でも意見は割れたままだ。
ただ……ある人物が直接俺のところへ来た。今すぐ動かなければ、もう手遅れになるって」
「誰? そんな話、よく信じたわね。裏で売られる可能性は考えなかったの?」
相沢礼香は皮肉を混ぜた。
正体を隠して語るような相手の言葉など、久世が間に入っていようと簡単には信用できない。
「五星上将――榊原義重だ」
その名を口にしたとき、久世恒一の声音には、はっきりとした敬意が宿っていた。
「榊原将軍は、お前が上層部や、その背後にある黒幕にずっと不信感を抱いてることも知っていた。
将軍自身も、上層部のやり方や裏の構造を快く思っていない。だが、それでも中に入り、渡り合い続けるしかなかった。そうしなければ、もう誰も……俺たちの側に立って話せる人間がいなくなるからだ」
榊原義重。
その名は、雷鳴のように重い。
国家元首になるのに、必ずしも彼の承認が必要というわけではない。
だが、“安定した元首”であり続けるには、彼の支持なしでは到底もたない――そう言われるほどの存在だ。
それでいて、名誉にも利権にも執着しない。
ただ山を鎮める巨岩のように、政界という海のうねりを、静かに見下ろしているだけの男。
「榊原将軍は言った。お前の力が必要だと」
相沢礼香も、その名はもちろん知っていた。
教科書でその戦歴を読んだこともある。現在、地球連邦で最後に存命している五星上将。
「そんな人が、私を頼るわけ? 命令じゃなくて?」
少しだけ興味を帯びた声音で、相沢礼香は問い返した。
「命令じゃない……出せないんだ、そんなものは」
久世恒一の返答は苦かった。
「将軍にできるのは、私人として頭を下げることだけだ。
地球のために、人類のために……お前へ、低い姿勢で頼み込むことだけだと。
これは将軍本人の言葉だ。名前を伏せたままじゃ、お前は絶対に応じないとも言っていた」
そこまで聞いて、相沢礼香も、ようやく空気の重さをはっきり感じ取った。
「で、何を頼みたいの?」
「何としても白石明と天城琉璃を見つけ出してくれ。そして、お前の位置情報を十分以上、開いたままにしてほしい」
久世恒一の声が、そこで硬く締まる。
「……何をする気?」
相沢礼香はすぐに察した。
こんな話が、それだけで終わるはずがない。
「お前が位置情報を開いた瞬間、榊原将軍は自分の持つ全人脈を使って、衛星軌道測位砲の管制権限を奪いにいく。
将軍の見立てでは、他の上層部が異変に気づいて反応するまで、強引に権限を握れるのは最長で十分。
しかも有効打を入れ、目標を確実に消すには、最低でも三分のチャージが要る」
「正気!?」
相沢礼香の声が低く弾けた。
「そんなの、反逆罪そのものじゃない!」
「最初に聞いたとき、俺だって自分のほうが狂ったのかと思った!」
久世恒一も抑えきれず声を荒げる。
「だが、榊原将軍ほどの地位にある人間が、この案を口にした時点で、成功しようが失敗しようが、将軍は反逆者の汚名を背負う。
人脈も、関する一族も、全部失う。
それでも、植民されない可能性に賭けるって言ったんだ。だからこそ……俺は、信じるしかなかった」
久世恒一は、自分を落ち着かせるように言葉を整え直す。
「将軍はこうも言っていた。
自分の判断より、現場で、実際にあれを見てきたお前の判断を信じると。
お前がやると言うなら、将軍はすべてを賭けて、そのわずかな可能性に乗る。
逆に、お前が拒むなら、将軍はこれまでどおり上層部との駆け引きを続けるしかない。だが、そんなものに決着はつかない。
この先どんな抵抗をしようと、いずれ植民は避けられない。ただ、それが早いか遅いかの違いになるだけだ」
相沢礼香は息を呑んだ。
久世恒一の言葉は、雷が直撃したように彼女を打った。
その場に立ち尽くし、かすれた声で問う。
「もし実行したら……私は……」
「三分間チャージした衛星軌道測位砲の破壊半径は、およそ二キロ。地下十層まで貫通可能。
範囲内で生き残るものは、ほぼいない」
久世恒一は冷静に告げた。
彼女がその数字を知らないはずがない。だが、それでも現実として、耳で受け止めたかったのだろうと分かっていた。
「お前は死ぬ」
「……やっぱり」
相沢礼香の胸に残っていた、わずかな期待さえ消えた。
彼女は乾いた笑みを漏らす。
「じゃあ、私の家族は?」
「規定どおりの補償ポイントは支払われる」
久世恒一は答えた。
「できる限り“公務中殉職”の形に持っていく。お前まで反逆者の汚名を背負わせはしない。
それが、将軍が最後に約束できることだ」
補償ポイント。
「ポイント、ね……」
相沢礼香は、それがひどく皮肉に思えた。
自分が普段、何気なく使ってきた言葉が、こんな場面で自分自身に返ってくる。
それは人の心を完全に折りもするし、同時に、言いようのない感情を胸に残しもする言葉だった。
すべては制度のため。
ただ今、その制度が必要としているのは――自分なのだ。
相沢礼香は、初めて灰色の制服に袖を通した日のことを思い出す。
それから、成績優秀で人当たりもよかった弟の顔も。
自分の仕事のせいで報復の標的にされ、今なお昏睡から戻らない弟。
十年以上になる。
もう一度だけでいい。言葉を交わしたかった。
それがたぶん、今の彼女にとって最大で、そして最後の未練だった。
だが、もう叶わないのだろう。
「分かってるでしょ。私の弟……」
ようやく絞り出した問いに、久世恒一はすぐ意図を察した。
「私情として約束する。俺が面倒を見る。
あいつが“ランダム死”を迎えるその日まで」
今の時代、穏やかな老衰など、ほとんど存在しない。
だから久世恒一にも、それ以上のことは言えなかった。
相沢礼香は長いこと、その場に立ち尽くしていた。
まるで、自分の死の直前に流れるはずの走馬灯を、今ここで先に眺めているみたいに。
甘い記憶も、苦い記憶も、痛みも、悔いも――
それが全部、自分の人生だった。
一秒。二秒。
いくつか呼吸を重ねたのち、相沢礼香は目を開く。
その瞳には、鋼のような静けさが戻っていた。
そして低く、はっきりと答えた。
「……引き受ける」
相沢礼香の声は、無人の闇の中に落ちた。
そしてそのまま、誰もいない闇の底へ沈んでいった。




