無人地帯
通りから人が消えるのは、あまりにも早かった。
べつに、人々の足が速いからではない。
ただ――彼らは、もう慣れきっていたのだ。
秩序は骨の髄にまで染みこんでいる。
見えない流れ作業のラインのように、人を運び、流し、仕分けていく。
行き先など、知らない。
なぜ行かねばならないのかも、知らない。
それでも――「行け」と言われたら、行く。
それでいい。いや、それしかない。
放送の声は、ひどくやさしかった。
まるで子どもを寝かしつける子守唄のように。
【臨時安全管制を開始します】
【放送をお聞きの市民は、速やかに退避してください】
【皆さまの平穏な生活をお祈りいたします】
店のシャッターが自動で降りる。
歩行者は黙って踵を返す。
車の列は、何事もなかったように別ルートへ吸いこまれていく。
残されたのは、一本の空っぽの通りだけだった。
死ぬことだけが許された通り。
安寧署はそれを――無人地帯と呼ぶ。
「……撃ってくるのか?」
白石明が不安げに訊いた。
天城琉璃は前を見たまま、淡々と答える。
「人がいるうちは撃たない。けど、誰もいなくなれば……撃つ」
その声は静かだった。
静かすぎて、そこに揺れひとつ見えない。
白石明と天城琉璃は校舎を飛び出してから、一度も後ろを振り返っていない。
路地を二本抜け、幹線道路へ飛び出す。
人混みに紛れこむつもりだった。だが――
賑わっていたはずの通りは、異様なほど空いていた。
わずかに残っていた人の流れすら、みるみる細っていく。
「権限は、もうあっちに握られたみたい。たぶん、じき追いつかれる」
天城琉璃は次の一手を考えているようだった。
表情にはほとんど変化がない。だが、耳目を失ったいまの彼女が、内心では確かに焦っていることを、彼女自身は理解していた。
――どうする。
そう考えた、そのときだった。
背後から、おずおずとした声がした。
「天城……さん。そ、その……先に手、離してもらえないか?」
白石明は遠慮がちに言った。
「あと……俺たち、いったいどこへ向かってるんだ?」
いまの白石明には、目の前の女子生徒に対してぞんざいな態度を取る度胸などなかった。
ひと跳びで校門の塀を越えるような相手だ。
もはや、目が見えようが見えまいがわかる。
天城琉璃の身体能力は、明らかに常人の域を超えていた。
少し冷静になって考えれば、問題はそこだけではない。
天城琉璃の目的は何なのか。
敵か、味方か。
まだ何ひとつ、はっきりしていない。
――ここで別れて逃げるべきではないか。
白石明は、かすかな望みにすがるようにそう考えた。
「あなたを放すことはできない」
天城琉璃のひと言が、その望みをあっさり断ち切る。
「でも、どこへ連れていくか……それは言ってもいいかも」
わずかに間を置いて、彼女は言った。
「あなたを、彼らのところへ連れていく」
その瞬間、白石明は天城琉璃の表情に、微かな違和感を見た。
まるで彼女自身も、なにかに逆らえないまま動かされているような――そんな色だった。
次の瞬間。
ビル群の隙間から、小型ドローンが一機、音もなく滑り出した。
銃口が、白石明へと向く。
天城琉璃はちらりと視線を上げただけだった。
「こんなおもちゃ……」
不機嫌そうに呟き、指先を軽く弾く。
その途端、ドローンは空中でぴたりと静止した。
そして――落ちた。
地面に叩きつけられた瞬間、爆音が弾ける。
無数の破片が、火花とともに四散した。
その直後、天城琉璃の頭に激痛が走る。
命令の残響が、内側から彼女を引き裂いていた。
――逃げろ。
――攻撃するな。
天城琉璃の足が止まる。
一方、白石明には、飛散した破片の一枚がまっすぐこちらへ飛んでくるのが見えた。
ヒュッ、と風を裂く音。
次の一瞬、彼の体は考えるより先に動いていた。
わずかに身をひねる。
それだけで、破片は頬の脇をかすめて抜けていった。
もしあと少しでも反応が遅れていれば、眼窩に突き刺さっていてもおかしくない。
白石明の脳は恐怖で真っ白になっていた。
だが、自分の神経反応速度が、すでに常人の範囲を逸脱していることには気づかない。
普通の人間なら、あの速度の破片を視認することすらできないはずだった。
「っ……」
二人がようやく息をつこうとした、その瞬間。
一発のエネルギー弾が、二人のちょうど間を貫いた。
「今のは警告だ。次はわざと外したりしない」
先頭を切って追いついてきた安寧署隊長、相沢礼香が言い放つ。
「次を撃つ機会なんて、あなたにはない」
天城琉璃が鋭く言う。
視線がひとつ流れた、その瞬間。
相沢礼香の手にあるエネルギー銃が、
ギ、ギ、と嫌な音を立て始めた。
「だから言ったでしょ。ハイテクに頼りすぎるなって」
相沢礼香は気にも留めず、故障した銃を放り捨てた。
自嘲気味に肩をすくめる。
その一方で、体の奥から妙な高揚感がせり上がってくるのを感じていた。
全身に力が満ちる。
まるで、優勝をもぎ取ったあの頃――怖いものなど何もなかった二十歳の自分に戻ったかのようだった。
目の前にいるのが学生二人だからか。
それとも――今日は執行用のヘルメットを被っていないからか。
相沢礼香は、少しだけ感慨に浸った。
歳を取ると、人はどうにも感傷的になる。
「相沢隊長。私たちも、自分の意思だけで動いているわけじゃないんです。だから……見逃してもらえませんか」
天城琉璃は相沢礼香を見つめ、できるだけ穏やかにそう言った。
もっとも、その手はしっかりと、さっき混乱に紛れて逃げ出そうとした白石明の腕を掴んだままだった。
白石明は気まずそうに頭をかきながら、
「そ、そうです……」
とだけ相槌を打つ。
「ん……私のこと、知ってるの?」
相沢礼香は首をかしげ、すぐに得心したように頷いた。
「ああ、そっか。さっき機器越しに私たちの会話を聞いてたんだ」
そう言ってから、にやりと笑う。
「でもね、お姉さんだって立場上、そう簡単には見逃せないの。だから二人とも、大人しく降参してくれない?」
言葉を交わしながらも、両者の視線は空中でぶつかり合い、火花を散らす。
――学生二人、か。
相沢礼香は胸中で呟き、説得が通じないと見るや、余計な感情を切り捨てた。
次の瞬間。
彼女は静かに腰を落とし、構えを取る。
天城琉璃も身を強張らせる。
まだ衝突を避ける手段はないか、そう考えた矢先――
相沢礼香が一気に間合いを潰してきた。
速い。
踏み込みと同時に、まっすぐな正拳。
たしかに速い。だが、天城琉璃の目には「やや速い」程度にしか映らない。
――と思った瞬間、その正拳は囮だった。
本命は横から薙いできた鞭のような回し蹴り。
腰を断ちにくる軌道。
風を裂く唸りだけで、白石明の腹まで痛くなるような一撃だった。
彼は反射的に腹を引き、辛うじて巻き込まれるのを避ける。
「まずい!」
相沢礼香の狙いを見抜いた天城琉璃は、とっさに白石明を抱え上げ、そのまま後方へ跳んだ。
次の瞬間に繰り出された後ろ蹴りが、さっきまで二人のいた空間を撃ち抜く。
ブッ、と。
空気そのものが破裂したような音がした。
「へえ?」
相沢礼香は脚を引き、二人の身体能力にわずかな驚きを覚える。
白石明はあの蹴りを避けた。
しかも天城琉璃は、人ひとり抱えたまま五メートル近く後方へ飛んでみせた。
「そこまでして、その彼氏の手を放したくないわけ?」
軽く茶化すように言い、二人の関係を探る。
天城琉璃は小さく首を振った。
否定とも、返答ともつかない動きだった。
少し考えてから、彼女は言う。
「相沢隊長。無作為の死に、公正さがあると本気で思いますか?」
声はひどく静かだった。
だがその問いは、安寧署の存在理由そのもの――秩序とは執行されるべきものなのか、その根幹を刺していた。
相沢礼香は構えを解く。
「何が言いたいの?」
話を聞く姿勢を見せたと見るや、天城琉璃はすぐ言葉を継いだ。
「たとえば……安寧署の現役隊員や、その家族は、死亡抽選にほとんど引っかからないとか。そういう話です。もし私が知っていることを話したら、見逃してくれますか?」
さっき思考を整理していたとき、頭の中に流し込まれた記憶の一部が、交渉材料になるかもしれないと気づいたのだ。
だからこそ、相沢礼香が食いつきそうな話題を選んだ。
すると相沢礼香は、深いため息をついた。
「天城琉璃。あなた、本当に交渉が下手ね」
呆れたように言ってから、肩をすくめる。
「だって、あなたを捕まえれば、そういうことはあとでいくらでも吐かせられるでしょ? それにね……お姉さん、頭はそんなによくないの。今の話、正直半分もわかってない。でも――機会があれば、あとで自分で調べてみる。その意味、わかる?」
天城琉璃はきょとんとした顔をした。
自らを「完全」と規定してきた彼女の自尊心が、目に見えない形で揺らぐ。
ほんの数句で交渉が決裂する。
それが、彼女には理解できなかった。
「やっぱり、まだ学生ね」
相沢礼香は半ば感慨を込めて言った。
「今の意味がわかるなら、もう気づいてるはずよ。――あなたたちは、もう包囲されてる」
言うなり、相沢礼香は片手を上げ、指先で合図を送る。
ここまでの会話は、すべて時間稼ぎにすぎなかった。
直後、周囲の物陰から数十名の安寧署隊員が姿を現す。
防爆盾を構え、じりじりと包囲を縮めてきた。
「君たちはたぶん――」
相沢礼香はわざとそこで言葉を切った。
二人の意識がそちらへ向いた、その刹那。
彼女は低く滑りこむようなスライディングで、再び天城琉璃へ突っこんだ。
――卑怯!
天城琉璃は心中で毒づく。
自分が騙された衝撃から立ち直る前に、さらに言葉で注意を引かれた。
そのわずかな遅れが、致命的だった。
相沢礼香は、もう懐の内にいる。
跳ぶ。
空中で身体を開く。
裂帛の気合もなく、しかし鋭利な軌道で、左右に分かれた蹴りが二人へ走った。
咄嗟に二人は腕を上げ、直撃を防ぐしかない。
白石明と天城琉璃の身体が、左右へ弾き飛ばされる。
衝撃が重い。
骨まで響く。
天城琉璃の手が、その瞬間に白石明を放してしまった。
だが逆に、それでよかった。
両手が自由になったからこそ、次の一撃を受けられたのだから。
相沢礼香は空中でさらに身を捻り、今度は斧のような踵落としを、真上から天城琉璃の頭蓋へ叩き落とす。
ドッ――!
天城琉璃は両腕を十字に組み、辛うじて受けた。
だが凄まじい圧力に膝が砕かれそうになり、その場に片膝をつく。
「動くな」
相沢礼香が冷たく言う。
脚に力を込めたまま、天城琉璃を押さえこむ。
いつの間にか、その手にはもう一丁のエネルギー銃が握られていた。
左側へ吹き飛ばされていた白石明が、血を吐く。
腹を押さえる手の隙間から、赤がじわじわと滲み、滴り落ちていく。
痛い。
遅れて、焼けるような激痛が腹を貫いた。
――これが、撃たれるってことか。
理解した瞬間、膝が折れた。
どさり、と両膝をつき、そのまま身体から力が抜けていく。
意識を失う直前、白石明は初めて本当の意味で理解した。
安寧署が、いかにして「安寧」をもたらしているのかを。
「お姉さん、一丁しか持ってないなんて言ってないでしょ」
「明!」
天城琉璃が叫ぶ。
全力で押し返し、ついに相沢礼香を弾き飛ばした。
相沢礼香は後方へ宙返りしながらも、銃口だけは天城琉璃へ向け、引き金を引く。
だが――撃てない。
また壊れている。
正確には、天城琉璃の得体の知れない力によって、無力化されていた。
「チッ。だからハイテクなんか信用するなって言ってるのに」
相沢礼香は舌打ちし、天城琉璃を見る。
「悪かったわね。この銃、威力がちょっと弱くて。急所も外したから、あの子にちゃんと痛みを感じさせちゃった。次は気をつける」
露骨な挑発だった。
だが、その言葉は天城琉璃の耳にほとんど入っていない。
彼女は嗚咽を漏らしながら、白石明の傷を確かめていた。
相沢礼香は急がず、だが隙なく二人へ歩み寄る。
そして声を張り上げた。
「全員、武器を下げろ! 天城琉璃が制御できるのは、自分の視界に入った武器だけよ! それと、旧式兵装を追加で回せ。こいつにはまだ仲間がいる可能性がある!」
本気を出せば、さっきの一発で白石明を殺すこともできた。
わざと負傷で止めたのは、慈悲ではない。
囲って援護を誘うためだ。
天城琉璃の動きを縛り、さらに潜伏している味方がいないかを炙り出す。
それが狙いだった。
だが現状、助けに来る者の気配はない。
そもそも援護もなしに、この街全体の追跡を二人で振り切れると本気で思っていたのか。
相沢礼香には、そこが少し理解できなかった。
しばし周囲を見渡す。
異変はない。
ならば余計な枝葉を広げる必要もない。
まずはここを片づけ、それから別口を洗えばいい。
そう判断した相沢礼香は、即座に命じた。
「四番、七番、八番。銃を九時方向へ投げろ! 他は警戒維持!」
命令と同時に、相沢礼香自身もまた天城琉璃へ突進する。
胸中でひとつ、短く詫びながら。
――悪いわね。
その声なき一言と同時に、天城琉璃ははっと顔を上げた。
だが、もう遅い。
彼女に「見えた」のは、そのうち二丁だけだった。
案の定、七番と八番の隊員が投げた銃は空中でギギ、と異音を立て、機能を失う。
しかし相沢礼香は、一瞬で四番の投げた三丁目を掴み取った。
躊躇なく、引き金を二度引く。
ジ、ジッ――!
二発の光が、二人の眉間めがけて一直線に走った。
苦しませず終わらせるための射撃。
銃の届くところ、それがそのまま安寧になる。
エネルギー弾は冷たい雨のように、二人を死の淵へ押しやる。
その瞬間だった。
撃たれて倒れていた白石明の胸が、突如として激しく上下し始める。
まるで、何かが血の内側で燃え上がったかのように。
それは死への恐怖ではなかった。
むしろ――呼びかけに応える反響。
天城琉璃も、それを感じ取る。
彼女の瞳の奥で、銀色の星紋がひび割れのように広がった。
「……明」
彼女は低く呟く。
それは名前を呼ぶ声ではない。
むしろ、何かのスイッチを起こすための呼びかけに近かった。
白石明の視界が震え始める。
世界から色が剥がれ落ちる。
残るのは、制度の灰色。
残るのは、銃口の光だけ。
その一瞬――
天城琉璃に抱えられていた白石明が、ふいに顔を上げた。
その瞳の奥で、銀の光が閃く。
反射ではない。
覚醒だった。
エネルギー弾が、二人の眉間まであと一センチという位置で――止まる。
まるで、見えない壁にぶつかったかのように。
次の瞬間。
通りじゅうの空気が、ぐにゃりと歪んだ。
目には見えない衝撃波が、一気に外へ膨れ上がる。
轟ッ――――!
迫っていた安寧署隊員たちがまとめて吹き飛ばされた。
ヘルメットが砕け、盾が手を離れ、武器が宙を舞う。
まるで紙細工みたいに薙ぎ払われていく。
到着したばかりのドローン群も空中で制御を失い、独楽のように回転した末、次々に爆ぜた。
相沢礼香は反射的に全身を庇ったが、それでも数歩、強引に押し戻される。
靴底が路面を激しく擦り、地面に長い痕を刻んだ。
それでも彼女は踏みとどまる。
腕の隙間越しに、見た。
空高く、一瞬だけ現れては消える裂け目を。
まるで布を刃物で切り裂いたような、異様な亀裂。
白石明。
システムが決して認められない存在。
だがそのくせ、秩序そのものに走る綻びを、今まさにこじ開けようとしている穴。
ほんの数秒後。
嵐は嘘のように過ぎ去った。
通りに残ったのは、焦げ跡と破片だけ。
数名の安寧署隊員が地面に転がったまま、呻き声を漏らしている。
その中で、相沢礼香だけが、まっすぐ前を見据えていた。
彼女の視線の先で、天城琉璃は気を失った白石明を抱え上げる。
そして数度の跳躍で、地下の空洞へと逃れていった。
相沢礼香はその場に立ち尽くす。
防護服のおかげで傷は浅い。
だが、頬を伝って落ちた数滴の血が、ぬくもりとともに告げていた。
――自分は、まだ人間だ。
「追うべきか……?」
相沢礼香は自問する。
だがその問いに対して、制度はこの瞬間――沈黙を選んだ。




