回収プロトコル
今日も――許可された、美しい朝だった。
教室の光は柔らかすぎて、ほとんど嘘に近い。都市の放送がいつもそうであるように、あらゆるものを「正常」に化粧してしまう光だ。
いまは一限が始まる前の朝自習。まだ多くの生徒は来ていない。来ている者も、廊下でふざけたり、教室でひそひそ話したり、あるいは黙って自分のことをしているだけだった。
そして――天城琉璃は、最後列に座っていた。
人間臭さを拒むような静けさを纏っているのに、内側ではかすかな焦燥が擦れ続けている。
彼女は視線をほんの少しだけ斜めに滑らせ、左前方の少年を盗み見た。――白石明。
彼は椅子にもたれ、疲労と空洞を含んだ目で前を見ていた。ぼんやりしているようで、何か目に見えないものと対峙しているようでもある。
乱れた黒髪。少し皺の寄った制服。
ただの十六歳の生徒――そう見えてしまうのに、言葉にできない孤独がある。まるで街全体が、彼を見えないふりをしているみたいだった。
けれど、天城琉璃だけは見えていた。
「見える」どころではない。
星空を越える一本の線が、彼女と彼を固く結び、引き寄せているのを感じる。
胸の奥が、軽く叩かれた。
――……この人だ。
未知を前にすれば、怖がるべきだと分かっている。
それなのに彼女は、恐怖よりも先に「惹かれる」ものを抱いていた。
命令に。
そして、もっと深い何かに。
天城琉璃はついに席を立ち、白石明のそばへ歩み寄った。声はできるだけ軽く、薄く。
「白石くん……だよね?」
明の眉尻がわずかに動く。
彼は視線を上げた。冷たく、警戒の色を帯びている。手が無意識に、赤い紐へ伸びた。まるでそれに触れていれば自分を保てる、とでも言うように。
「天城……琉璃。」
琉璃は微笑み返す。
「少し、時間もらっていい?」
明が赤い紐を指でなぞるのを見て、琉璃は内心で小さく驚いた。――迷信、信じるタイプなのか。意外だった。
早く来ていた数人のクラスメイトが、こっそり視線を寄せ、囁き合う。
「え? 天城さんが自分から話しかけた……?」
「白石って転校生といつ知り合ったの?」
「なんか二人、仲良さそうじゃない?」
「うわ、羨まし……」
そういう声は、いまの琉璃の耳から逃げられない。耳の先が熱を帯びる。
けれど笑みは崩れなかった。
「完璧」は、すでに彼女の本能だった。
明は低く言った。
「……近づくな。君は、俺に関わるべきじゃない。」
拒絶は距離そのものだった。
琉璃が近づくだけで、明の内側が軋む。体内の暗闇の底から、何かが噴き上がろうとしている――そんな気配。
明は、怖かった。
琉璃はそれを感じ取る。
瞳の奥に、銀色の星紋がふっと浮かぶ。宇宙の裂け目が一瞬だけ光るように――まるで、彼の感覚に呼応するかのように。
琉璃は形式的な笑みを保ったまま、ゆっくりと明の耳元へ寄り、囁いた。
「あなたのこと、こう呼ぶべき? “暫定保管者”――それとも、E-0?」
黒服の人間のように、静かで、平坦な声音だった。
「……なんで、それを!?」
明は弾かれたように立ち上がる。
椅子が床を引っ掻き、耳障りな摩擦音が教室に走った。生徒たちが一斉に顔を上げ、好奇心に塗れた“観客”へ変わっていく。
琉璃は答えない。
ただ顔を上げ、視線で教室全体をなぞる。生徒たちは、なぜかすぐにまた自分のことへ戻った。
それから、教室の出入口へ目を向け――すぐに明へ視線を戻し、軽く息を吐く。
「……早いね。もう来た。」
琉璃の銀の瞳が、星のように冴える。
「誰だよ。来たって……誰が?」
琉璃は問い返した。
「気づかない? 授業に来る人、逆にどんどん減ってる。」
言われて初めて、明も違和感を拾い始める。
慌てて窓の外を見ると、いつの間にか広いグラウンドには誰もいなかった。向かいの校舎の廊下も、人影が消えている。
学校が――呼吸を抜かれたみたいに静かだった。
次の瞬間、校内放送が鳴った。
【臨時安全訓練を開始します】
【全校の生徒および教職員は、指示に従い指定区域へ移動してください】
【繰り返します】
【臨時安全訓練を開始します】
【全校の生徒および教職員は、指示に従い指定区域へ移動してください】
……
明の血が、一瞬で冷える。
これは――訓練の音ではない。
「……清掃が始まった。」琉璃は淡々と言った。「まだ座ってるつもり?」
明はようやく理解した。琉璃の言う“彼ら”は、安寧署の人間だ。
震える声が漏れる。
「……俺を、探しに来たのか?」
「探すんじゃない。」
琉璃が彼を見る。
その眼差しに、初めて“本物の重さ”が宿った。
「処理しに来たの。」
明の喉が乾いた。緊張で、唾が飲み込めない。
「……じゃあ、君は?」
明は知っている。天城琉璃も、絶対に普通じゃない。
琉璃は彼の手首を掴んだ。
「だから。――私と行く?」
もう一度、彼女は微笑む。
ただし今度の笑みは、作り物じゃなかった。
同じ病を抱えた者同士の、苦い笑みだった。
琉璃の手は冷たい。
それでも明は感じた――少なくとも、この瞬間だけは。自分は一人で生きていない。
琉璃に引かれ、明は教室を出る。
残った生徒たちも黙って避難の準備を始める。知らないままに――本当の標的が、たった今、自分たちの横をすり抜けていたことに。
校外周縁。
灰色の制服を着た安寧署隊員が、潮のように封鎖を進めていく。
動きは正確で、沈黙している。機械のように感情がない。
すべては、ただの手続き――そう言わんばかりだった。
「A区、避難完了。」
「B区、封鎖完了。」
「静かに! 急いで、こっちだ、誘導!」
……
声が重なり、乱れず、滞りなく処理されていく。
安寧署はすでに暗がりから学校を包囲し、住民と生徒を剥がすように排除していた。
学生も教職員も、無言で従っていく。何度も反復された訓練のように――整然として、画一的で、軍隊の行進にも似ていた。
骨に刻まれた秩序。
なぜ、を問う者はいない。問える者もいない。
それでも作戦は、思うように進まなかった。
理由は明白だ。――標的が、すでに教室から消えていた。つまり、安寧署の動きを先に察知している。
担当隊員が報告を受け、即座に指示を飛ばす。
「三階班は三組へ。二階班は合流して支援。人混みに紛れて逃げられるな、動線を塞げ。」
「了解!」
隊員たちは確信していた。
ヘルメット内の識別器が映す“個体情報”は一目瞭然。取り逃がしなど、あり得ない――はずだった。
だが三階へ上がった二名の隊員が廊下で正面衝突した瞬間、気づく。
標的はまたルートを変えている。
同じ状況が、各棟で連鎖する。
「目標不在! 支援要請! 支援要請!」
……
廊下。
天城琉璃は余裕すら感じさせる動きで明の手首を引き、速足で進む。
上へ――下へ。
左へ――右へ。
折り返し――また折り返す。
そのすべてが、包囲の位置を先読みしたような選択だった。
明は息を切らし、信じられないものを見る目で彼女を見る。
「……どうやってるんだよ。こんなの……」
琉璃は小さく答える。
「聞こえるの。彼らの会話、私には隠せない。」
瞳の奥で銀光が流れる。
「それに――彼らのシステムも、いま私たちを見つけられない。」
明の心臓が乱暴に跳ねる。
走らされているから、だけじゃない。
この圧迫された空気の中で――自信に満ちた足取りで、自分を導く“完璧な少女”が目の前にいるから。
二人の呼吸が、空気の中で交差する。
血の奥で、何かが熱を帯びる。
二つの星が、互いに引き寄せられるように。
「監視球を出せ!」
察知されたと判断した隊員たちは、ついに監視球を放った。
空に低い唸りが走る。
黒い球体の群れが浮上し、校内を走査する。
だが数秒後、隊員たちの表情に苛立ちが滲む。
監視球の映像に、二人の姿が映らない。
「……消えた? ステルスか?」
しかしすぐ、別の隊員が叫ぶ。
「違う! いる! 機材が“見えない”だけだ!」
その隊員はヘルメットを外し、三階の窓から肉眼で確認する。
向かいの校舎、階段室の窓。
二つの影が跳び出し、塀を越えようとしていた。
即座に報告し、外周の班へ叫ぶ。
「囲め! 外周、詰めろ!」
「了解!」
「了解!」
……
報告を受けた校門外の現場指揮、相沢礼香は、瞬時に異常を悟る。
通信機へ怒鳴りつけながら、同時に通話を繋ぐ。
「……あんたら、二人の学生も止められないの? 何やってんの!」
コール音が鳴るより早く、相手は出た。
『相沢……』
礼香は言葉を遮って叩き込む。
「天城琉璃って何者なの! まだ私に隠してる情報があるでしょ、久世恒一!」
苛立ちのまま、先輩のフルネームを呼び捨てにする。
久世はすぐに謝罪の調子を作った。
『すまない。そっちの状況は把握している。……上層がさっき、彼らの権限を取り消した。だから、同じことはもう起きないはずだ』
「“彼ら”って誰よ。なんで“彼ら”が、うちの装備を操作できるの!」
礼香は怒りに息が荒い。久世がどこから現場情報を得たのか、そんなことを考える余裕もない。
『知りすぎるのは、君のためにならない。頼む、聞かないでくれ』
久世の声にも焦りが混じる。
「いいわ。聞かない。」
礼香は冷たく笑うように言った。
「じゃあ包囲を解いて、任務失敗を宣言する。」
『……っ』
久世が言葉に詰まる。
『……いま言えるのは一つだけだ。彼らは“帰郷者”と呼ばれている。これ以上は――ここでは言えない』
“ここでは言えない”。
電子記録を恐れている――礼香は即座に察し、追及を止める。
「……分かった。もう一回だけ、信じる。」
そう言って通話を切った。
関係者の退避が概ね完了したのを見て、礼香は命令を下す。
「装填! 二級火力の使用を許可! 放送を流せ! 外周の街区を空にしろ!」
彼女は、すでに役に立たなくなったヘルメットを外し、地面へ放り捨てた。
冷静で鋭い顔立ちが光にさらされる。
礼香は狩人の眼をして、鼻で笑う。
「……面白い。――いいわ。とことん遊んであげる。」
ようやく、彼女は本気になった。
少し離れた場所。
天城琉璃と白石明は、前後に並ぶようにして校門を飛び出した。
システムの陽光は相変わらず眩しい。
都市は相変わらず優しい顔をしている。
だが二人は知っていた。
本当の追跡は――ここからだ。




