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昨日のあと

天城琉璃が再び目を覚ましたとき、最初に感じたのは、冷たさでも痛みでもなかった。

――空っぽだ、という感覚だった。


自分の身体から、人生の一部だけがごっそりと削り取られ、

あとには、きれいな殻だけが残されている。

そんな感覚。


頭上の照明には、なんのぬくもりもなかった。

その白い光が睫毛の上に落ち、薄い影をつくる。


琉璃は身を起こした。

長い髪が肩を滑り落ちる。

その動作は、目覚めたばかりの人間のそれではない。

むしろ、起動された装置のように静かだった。


そして彼女は、自分自身のその「殻」を見つめていた。

どうしようもない無力感とともに。


まるで自分だけが身体から切り離されたみたいに、

琉璃は、完璧なままの「自分」が、淡々と登校の準備を進めていくのを見ていた。


薄く化粧をし、

髪を整え、

弁当を用意し、

制服にきちんと熱を通し、

靴を磨く。


何もかもが手際よく、乱れなく、いつもどおりに進んでいく。


だが、恐ろしいのは、

そのすべてが、まるで自分と無関係に行われていることだった。


彼女は必死に身体を取り戻そうとした。

横から食い下がるように、暴れるように、床を転げ回るように、存在を主張する。

だが、肉体は一切応えない。


そのとき、彼女は悟った。

自分は、この身体の中に棲んでいるだけの影なのかもしれない、と。


そして彼女は考え始める。


たいていの人間は、明日がどんな一日になるかは考える。

だが、「昨日のあとも、自分は自分のままだろうか」と考える者は、そう多くない。


彼女には、薄々わかっていた。

予感はあった。

けれど、それが本当に起こるとは思っていなかった。


――いったい、どうすればいいの?


琉璃は心の中でそうつぶやき、

目の前の「自分」を、あらためて観察し始めた。


そのときも、琉璃の殻は、

指のあいだの汚れは残っていないか、

爪先はなめらかに整っているかを確認し終え、

鏡の前で化粧の仕上がりを見ていた。


完璧を演じるために、

彼女はずっと、こうしてきた。


もしかすると、この殻は、

ただ「完璧な私」の動作だけをなぞって動いているのかもしれない。


習慣の惰性か。

それとも――命令によるものか。


仕組みはわからない。

けれど、もしそうだとすれば――


「完璧な私」が取りうる行動の範囲に従っている限り、

自分は、もう一度この身体を制御できるのではないか。


彼女は鏡の中の自分を見た。

見慣れているはずなのに、どこか見知らぬ「天城琉璃」。


その瞬間、

瞳の奥で、銀色の細い輪がひらりと閃いた。

まるで、何かが共鳴を始める前触れのように。


次いで、部屋の中に声が響いた。


放送ではない。

人の声とも違う。


耳もとにぴたりと貼りつくような、低い囁き。

だが、その言葉ははっきりと聞き取れた。


「覚えておけ。安寧局の人間と遭遇した場合、逃げるのは構わない。だが、攻撃はするな」


そこで、黒衣の男の声が珍しく一拍だけ途切れる。


「……我々は、侵入するのではない。ただ帰るだけだ」


「はい」


殻は無感情にそう答えた。

機械仕掛けのようで、そこには一片の感情も滲まない。


そしてそのまま、「彼女」を連れて歩き出す。

かつて「彼女」が家だと思っていた場所を、あとにして。


外へ出ると、遠くの空は今日もやさしかった。

たとえそれが、人工光幕が見せる偽りの空でしかなくても。


街頭放送が、いつものように流れる。


【本日の生存指数:70】

【本日の事故確率:0.10】

【どうぞ穏やかな一日をお過ごしください】


人々はいつものように歩き、

子どもたちはいつものように学校へ向かい、

世界はいつものように回っている。


だが琉璃は、もう知っていた。


すべてがこんなにも規則正しく動いているのは、

結局のところ、何もかもが「舞台装置」だからだ。


何度も、何度も試した末に、

彼女の指先が、ぴくりとわずかに震えた。

久しく忘れていた、身体からの応答だった。


ようやく、彼女は自分の肉体を取り戻した。


もっとも、制御と言ってしまうのは正確ではないかもしれない。

あらかじめ敷かれた手順に従って動かしている――そう言ったほうが近い。


それでも少なくとも、

彼女は再び「感じる」ことができるようになっていた。


空気の流れ。

風の音。

かすかな匂い。


そんな、取るに足らないもののひとつひとつが、

失ったあとでは、信じられないほど愛おしい。


失ったことがあるなら、なおさらだ。


だから、彼女はもう二度と失いたくなかった。


そのために従う。

あるいは――抵抗する。


けれど、自分にそんなことができるのだろうか。


身体ひとつ取り戻すのにも、これほど骨が折れるのに。


また、迷いが胸を満たす。


気づけば、琉璃は校門の前に立っていた。

指先が、ひどく冷たい。


制服は肌にやわらかく触れている。

その感触が、かえって皮肉に思えた。


昨日まで、自分はあの窓のない冷たい鉄の檻に横たわっていた。

配線に絡め取られ、

冷光に照らされ、

黒衣の男に見下ろされながら。


あの男は、彼女を「目覚めさせ」、

彼女を「更新し」、

ついでのように、知識までも書き換えていった。


たとえば――

「宇宙空間への進出能力を有する惑星は、すべて星際法の適用対象である」

そんな条文めいた知識すら、

まるで記憶媒体を一枚差し込むような気軽さで、彼女の内へ流し込まれた。


膨大な新しい知識は、彼女にひとつの現実を鮮明に教えた。

宇宙とは、暗く、冷たい、弱肉強食の森なのだと。

だからこそ、星際連邦と、その星際法が成立していることは、まだ救いなのだと。


その知識を噛みしめるうちに、琉璃はふと思う。


――あの男は、妙に星際法を気にしていた。

「帰る」と何度も口にしていた。

それに、E-0を探せとも。


だとしたら――

このすべてを覆すきっかけは、その中に隠されているのではないか。


琉璃は深く息を吸った。

だが、足は止められない。


ほんの少しでも動きが乱れれば、

また身体の主導権を奪われるかもしれない。

その恐怖が、常に背後に張りついていた。


彼女は顔を上げ、

勇気を振り絞って校内へ足を踏み入れる。


一歩ごとに、薄氷の上を渡るような心地だった。


あちこちから、クラスメイトたちの笑い声が聞こえてくる。

明るいのに、どこか空虚な響き。


「おはよう、天城さん!」


誰かが手を振った。


琉璃の口元が、本能のように持ち上がる。


「おはよう」


そう返した瞬間、

彼女はもう一度、自分の声を聞いた。


穏やかで、自然で、乱れがない。

まるで、何ひとつ壊れてなどいないみたいに。


そんな自分を見て、

琉璃はふいに、吐き気に似た嫌悪を覚えた。


――ああ、笑顔ですら、「彼女」のプログラムの一部なんだ。


同じころ。


街の反対側、

安寧局の監視室には、光幕が壁のように並んでいた。


その中央に、一人の女性隊長が立っている。


彼女はヘルメットを外し、

冷静で鋭い顔立ちをさらした。

その眼差しは刃物のように鋭く、

スクリーンに映る二人を凝視していた。


【白石明:橙級潜在異常。監視中。】

【天城琉璃:データ空白。監視中。】


隊長の指先が、その二人の名前の上で止まる。


「これが、上が言っていた二人か?」


もっとも、白石明の名前については、彼女には最初から馴染みがあった。


脇にいた隊員が、低い声で答える。


「はい」


隊長は一秒だけ黙り込んだ。

口元には、何の感情も浮かばない。


「白石明は、もう真実を知ったと見ていいのか?」


「報告します。昨日回収したデータによれば、脳波に過剰反応が確認されています。さらに夜間、偏差計が不明信号を十秒以上検知しました」

「システム上の推定では、八割以上の確率で、本人はすでに自身の身分を認識したものと思われます」


隊長は少し考え、次に問う。


「天城琉璃のほうは?」


「監視球の映像と、白石明の身分核データを照合した結果、天城琉璃が彼のクラスへ入った瞬間の反応値が最も高く出ています」


「ふん。単に異性を見て、アドレナリンでも出た可能性は?」


冷ややかに言い放つ。


隊員は即答した。


「三割程度の可能性はあります。ですが……念のため転校生・天城琉璃の情報を照会したところ、記録は完全な空白でした。身分核すら存在しません。よって、直ちに上へ報告しました」


その報告に、隊長はわずかに肯定の色を見せた。


「いい判断だ」

「偶然が二つ以上重なれば、それはもう偶然じゃない」

「それに、白石明が絡む件で、軽率に接触しなかったのは正しい」


隊員は、そこでようやく息をついた。

この隊長の口から一言でも褒め言葉を聞けることなど、めったにない。


だが次の瞬間、

隊長の声が鋭く落ちた。


「……もっとも、どうしてお前たちは、私を飛び越えて上に直接報告した?」


その一言で、監視室の空気が一変する。


隊員たちは、たちまち薄氷の上に立たされたような顔になった。

誰もが背筋を伸ばし、

次の矛先が自分に向かぬことだけを祈る。


すると、年かさの隊員が、慎重に口を挟んだ。


「相沢隊長、手続き上、多少の不備はありましたが……これも上層部の意向でして……」


「何だ?」

相沢礼香の目が、すっと細くなる。

「お前も上を盾にして私を押さえつけるつもりか?」


次の瞬間、

礼香の拳が、光幕を真正面から打ち抜いた。


ドンッ――!


鈍く重い衝撃音が監視室を揺らす。

壁の光がびりりと震えた。


その一撃は、無駄がなかった。

肩から肘、肘から拳へと一直線に力が通り、

叩きつけるというより、芯ごと押し砕くような拳だった。

武術の踏み込みにも似た、短く鋭い打撃。

近間の間合いで、空気ごと叩き割るような一発だった。


室内の隊員たちは、一斉に口をつぐむ。

まるで喉元に刃を突きつけられたように、誰ひとり息さえ乱さない。


そのとき――


プルル、プルル――


一本の着信音が、絶妙な間合いで鳴り響いた。

この部屋で鳴る回線は、どれも最重要案件に限られる。


「隊長……」


誰かが小さく促す。


礼香は、拳に残る怒気を押し殺し、短く命じた。


「つなげ」


回線の向こうから、重みのある男の声が聞こえてきた。

どこか気安く、妙に親しげな声音だった。


「礼香、まさか怒ってないだろうな?」


それは、礼香がよく知る男の声だった。

久世恒一。

彼は、この有能な後輩を高く買っており、

それゆえ、いつも一定の好意を向けてくる。

もっとも、その前提にはひとつ条件がある。

――相手が、言うことを聞く限りにおいて、だ。


「怒ってません」


礼香は冷たく返した。

それでも、この男には多少の借りがある。

聞くべき話は、聞かねばならない。


「相変わらず頑固だな」


久世は軽く笑い、すぐに声音を引き締めた。


「だが俺は、問題を解明することより、問題を処理することのほうが重要だとずっと思っている」

「お前も、それはわかってるはずだ」


「……ええ」


礼香は反論しなかった。

その点については、彼女も同意見だった。


さっきの怒りは、ただの牽制にすぎない。

余計な手を伸ばす連中に、境界線を思い知らせるための。

だからといって、愛想よく受け入れる気は毛頭なかったが。


「私の管轄内のことは、私が処理します。そっちが口を出す必要はないわ」


「お前ならやるさ。そこは疑っていない」

久世は穏やかに言う。

「ただ……上の方針が少し変わった」


「何ですって?」


礼香の声に、鋭い棘が走る。


「あなたたち……」


だが久世は、その怒気を軽く受け流すように言った。


「そう怒るな。お前にとっては、むしろ好都合だ」


「好都合?」


礼香は鼻で笑う。

彼女は以前、上層部のある人物から差し出された“誘い”を断って以来、

ろくな目に遭っていなかった。


雑務。

横槍。

嫌がらせにしか思えない配置。


上が足を引っ張っているとわかっていても、証拠がない。

制度の中にいる以上、それを正面から叩き潰すこともできない。


だが、彼女がいちばん腹立たしく思っているのも、そこだった。


――同じ制度の中にいるくせに、何をそんなに偉ぶってる?


もし相手が誰かはっきり掴めたなら、

まず一発、顔面に拳を入れて、

そのあとヘルメットを叩きつけてやるところだ。

「こんな仕事、こっちから願い下げだ!」と啖呵を切って。

できるなら、さらに一撃。

相手が男なら股間へ。

女でも、やはり急所へ。


……もっとも、全部、頭の中だけの話だが。


「あなたの口から“いい話”なんて、よく出るものね」


礼香は、皮肉を隠さず言った。


「本当に悪くない話だ」

久世は珍しく回りくどさを捨てる。

「上層部は、この件を全面的にお前へ一任すると決めた。今後、連中は介入しない」


「……本当に?」


礼香の目に、一瞬だけ警戒が混じる。

それはたしかに好条件だ。

だが、話がよすぎる。


「まさか、私に責任を全部押しつけるつもりじゃないでしょうね」


「違う」

久世はすぐに否定した。

「こちらで正式な文書は押さえてある。あとでそっちにも送る。だから心配するな」


礼香は短く考え込み、

それからもう一つだけ確認した。


「じゃあ、白石明は……?」


久世の声が、最後だけは明確に硬くなった。


「すべて、規定どおりに処理しろ」


それだけを言って、通信は切れた。


礼香は、小さく息を吐いた。


それが白石明のためだったのか、

自分自身のためだったのか、

彼女にもわからない。


長いあいだ監視し、観察してきた。

彼女には、あれがただの一人の子どもにしか見えないこともあった。

そこまで資源を割く価値が、本当にあるのか、と。


だが一方で、

あの「異常」だけは、どうしても無視できなかった。


害があるのかどうか、今の時点では断言できない。

だからこそ、観察し続ける。

それが、いちばんましなやり方なのかもしれない。


けれど、安寧局に、その選択権はない。


ここは、

「不安寧」を処理するための場所だ。


私情は切り離さなければならない。


礼香は目を閉じ、

荒れかけた感情を一度、深く沈めた。


周囲の隊員たちも、つられるように息を潜める。


誰もがスクリーンの前に立っていた。

まるで深海の外縁に並び立ち、

その底知れぬ暗さを覗き込んでいるかのように。


カチリ。


澄んだ金属音が、静寂を鋭く断ち切った。


相沢礼香はヘルメットをかぶる。

そして、冷然と告げる。


【任務開始】

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