最後の五星上将(3/4)
「『人類最後の保護機制』を起動しないでほしいの」
その瞬間、書斎の空気が初めて本当に窒息に近い静けさへ変わった。
フィルは続ける。
「私たちは、かつて家族だったでしょう。銀海文明もまた、数百万年前に人類から分かれた火種なのだから」
榊原は彼女を見つめたまま、しばらくしてから言った。
「やはり、そこまで把握していたか」
その声には、失望があった。
計画を知られていたことへの失望ではない。
知ったうえでなお、銀海文明が植民を選んだことへの失望だった。
「私たちが知っていることは、あなたが思うより多いわ」
フィルの声音は平静だ。
「とりわけ、あの観測塔のこと。そして……あなたの手元にある、そのボタンのことも」
榊原に隠すつもりはもともとなかった。
声の重さも変わらない。
「お前たちの技術を受け入れた日から、こちらに本当の秘密が残るとは思っていない。だが……どうやら、それでも十分な抑止にはならなかったらしい」
彼は改めてフィルを見る。
「そこまで知っていてなお、自分で来たのは――お前にも確信がないからだ」
フィルは否定しなかった。
「ええ」
あまりにあっさりと認める。
「あなたがそれを起動すれば、発信された信号によって銀海文明は宇宙へ露出する。そうなれば……私たちの文明も、ほどなく消える」
榊原はすぐには口を開かなかった。
フィルの言葉は真実だからだ。
「人類最後の保護機制」は、逆転勝利のための装置ではない。
人類が最後の最後まで追い詰められたとき、相手の喉元から無理やり主導権を奪い返すためのもの。
相打ちを選ぶための、玉石倶焚の装置だ。
銀海文明の完全な星図と座標。
それが宇宙の暗黒森林へ晒される。
その時、星際法があろうと、銀海文明の最良の結末は他文明に植民されること。
そして、より高い確率で、ある瞬間に痕跡ごと消滅する。
だからこそ榊原は確信していた。
地球の星図と座標を最初から握っていた銀海文明は、やはり地球から出て行った人類なのだと。
数百万年に及ぶ星海探査の末に、彼らが発見した文明が鳥羽文明だけだったという事実も、その裏づけになっていた。
――だが同時に、それこそが地球人類が彼らを容易に信じた理由でもある。
「同族、か……」
榊原の声に、わずかな怒気が混じった。
「お前たちは本気で、我々を同族だと思っていたのか。つまり今夜来たのは、私の手を封じるためか」
「私は、あなたに現実的な選択をしてほしいだけよ」
フィルは静かに言った。
「門が開いた時点で、人類が主導権を失ったことは、誰よりあなたが分かっているはず。抵抗を続ければ、生き残っている人たちまで一緒に引きずり込むことになる」
「では、すべてをお前たちに渡せと?」
「でなければ?」
その一瞬、フィルの口調には、冷たい憐憫に近いものが滲んだ。
「今の段階で、何も失わずに済む選択肢なんて、まだ残っていると本気で思っているの?」
榊原はただ彼女を見つめ、低く言う。
「お前の言う通りだ。今夜、人類はもう大半を失った」
「だが私には、中央会議室に座っていた連中とは決定的に違うところが一つある」
フィルは口を挟まない。
本当に重要な言葉は、こういうときにしか出てこないと知っているからだ。
榊原はゆっくりと言った。
「奴らが気にしているのは、自分にどれだけ権限が残るかだ。私が気にしているのは――」
そこで一度切り、老いてなお鋭い目を彼女へ向ける。
「お前たちが人類を、どんなものに作り変えようとしているのか。その一点だ」
その一言のあと、フィルは今まででいちばん長く黙った。
やがて、考えた末のように小さく笑う。
「もし私が、人類をもっと安定した、もっと効率的な、もう二度と自壊へ向かわない存在にすると言ったら?」
「なら私は、こう返す」
榊原の声は低く、しかし断定的だった。
「『生きる』ことを『管理可能であること』と定義する文明の末路は、呼吸する部品の群れだ。お前たち銀海文明の『零エントロピー停滞症』と同じようにな」
その言葉は、針のように正確に、ある一点へ突き刺さった。
フィルの笑みが消える。
残ったのは、苦い感慨だけだった。
「あなたと知り合った頃から分かっていたわ。あなたは本当に厄介な人……」
彼女は小さく息をついた。
榊原義重という老人の厄介さは、手元の「人類最後の保護機制」だけではない。
銀海文明への理解と、その先を見抜く判断力。
感情的に抵抗しているのではない。
憎しみだけで頭を下げないのでもない。
彼はもう、彼らが次に何をしようとしているかを見切っている。
「榊原……義重」
その呼び方だけ、少し昔へ戻る。
感情を、より本物らしく響かせようとするように。
「星を探索する領域に踏み込んだ時点で……この世界はもう、信念だけで支えられる時代じゃないのよ」
それは人類文明への言葉であると同時に、彼女自身の文明への言葉でもあった。
「分かっている」
榊原の返答は早い。
「だから私は、今日ここに勝つために立っているわけじゃない」
彼はゆっくりと手を伸ばし、旧式の物理指揮盤に置いた。
すぐには起動しない。
ただ触れているだけ。
長年連れ添った古い刀の柄に、老人が静かに手をかけるように。
「私は、お前たちに思い知らせるためにここにいる」
「人類は、最後の一声すら上げずに世界を明け渡す種ではない」
フィルは榊原を見つめた。
二人の間には、見えない弦が極限まで張り詰めている。
次の一瞬が、銀海文明か、人類文明か、その運命を決めかねない。
二人とも、それを分かっていた。
数秒後。
不意にフィルが口を開いた。
「あなたは、押さない」
榊原は何も言わない。
「さっき緊急対応会議室で、私の首をへし折ろうとした鷹宮将軍と同じ。あの人も結局は、この星の人間すべてを勝ち目のない戦争へ引きずり込む気にはなれなかった」
「そしてあなたも、ただ気概を叫ぶだけの人じゃない。起動すれば先に死ぬのは私たちではなく、地球人類だと知っている。銀海星がなくなれば、私たちはなおさら全力で地球の占領に来る。結局、先に、より多く死ぬのは私たちだけではなく――同じ『人類』の方」
一歩も引かず、しかし声音はひどく静かだった。
「あなたはそれを残す。この札は切らずに取っておく。もっと価値のある局面で、人類の発言権を奪い返すために」
今度は榊原が沈黙した。
フィルの言葉は当たっていた。
あの機構は最後の最後の手段だ。
矜持を見せるためのものではない。
意地や感情で押すボタンでもない。
長い沈黙の末、榊原はゆっくりと手を指揮盤から離した。
目の奥に、言葉にしがたい複雑さが一瞬走る。
――この女は、やはり自分を知りすぎている。
その様子を見たフィル女士は、ようやく微かに頷いた。
「理性的な判断に感謝するわ」
「礼を言うのは早い」
榊原は淡々と言う。
「そこまで見抜いているなら分かるはずだ。私が今夜押さなかったのは、お前に説得されたからじゃない」
「ええ、分かっているわ」
フィルはその言葉を静かに受け止めた。
「だから最初から、説得するために来たんじゃないの」
彼女の視線が、旧式の物理指揮盤へ落ちる。
「私は、あなたを私の見える場所に置くために来たの」
そう言うフィルの表情には、かすかな高揚があった。
演技なのか、本心なのかは分からない。
榊原の目は変わらない。
だがその指が、机の縁をごく軽く一度叩いた。
小さな音。
それでも、無言の照準合わせのようでもあった。
やがて彼は冷たく笑う。
「監視か」
「ええ」
フィルは即答した。
そして一拍置いて、もう一つ付け足す。
「……保護でもあるわ」
「もう見たくないの。あなたが、もう救いようのない局面のために、本当に自分まで壊してしまうのを」
榊原は鼻で笑った。
薄い笑み。
そこに愉快さは一片もない。
「綺麗に言う」
「綺麗事じゃないわ」
フィルは彼を見つめる。
「あなたも私も知っているでしょう。どんな言葉で呼んでも、意味するところは同じだって」
彼女はさらに半歩、前へ出た。
今度は二人の間の金属机でさえ、距離としては足りないように感じられる。
「これから先、あなたは私の視界から外れられない」
「同時に――」
フィルの唇に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
薄いが、作り物ではなかった。




