暫定保管の人
都市の夜明けは、いつも正確に訪れる。
太陽のためではない。
システムのためだ。
午前六時ちょうど。
空の雲は人工光幕によって柔らかな橙色へと調整される。
それは“承認された温もり”の色だった。
街頭の放送が、毎日の提示音を流し始める。
【本日の生存指数:72】
【本日の事故確率:0.03】
【本日の死亡ランダムコード:更新済】
【どうぞ良い一日を】
人々は慣れていた。
呼吸に慣れるのと同じように。
死亡ランダムコードは呪いではない。
福利の一部だ。
政府は告げる。
死は公平で、自然で、誰にでも等しく訪れるものだ、と。
そして“ランダム”である以上、あなたは狙われる必要はない。
ただ抽選される可能性を受け入れればいい。
当たれば終わり。
外れれば続く。
それが秩序だった。
白石紀恵が目を覚ましたとき、腹の中が空洞になったように感じた。
病院の回復室。
窓の外には整然と並ぶ高層ビルと、浮遊する監視球。
巨大な墓標が立ち並んでいるかのようだった。
ベッド脇には温水の入った紙コップが置かれている。
そこには都市の標語が印刷されていた。
「生き延びられるのは、あなたの光栄です」
白石紀恵はその言葉を見つめ、ふっと笑った。
短く、乾いた笑い。
ガラスがひび割れる音のように。
扉が開く。
白い制服のソーシャルワーカーが入ってきた。
胸元の徽章にはこうある。
――都市生命評価センター。
女性だった。
女性でなければ、女性を安心させられない。
訓練された笑顔。
だが視線は、慰めではなくスキャンだった。
「白石様。出産プロセスの完了、おめでとうございます」
白石紀恵は勢いよく起き上がり、傷が引き攣って息を呑む。
「……私の子は?」
女性はすぐに答えず、手元の端末を開いた。
書類を確認するように。
「あなたの……生物個体は、現在センターが暫定的に接管し、データ衝突の調査を行っております」
“生物個体”。
彼女自身も馴染みのない言葉だ。
だが間違えることは許されない。
「暫定!?」
白石紀恵の声が震える。
「連れていく時も、そう言った!」
女性は顔を上げ、なおも柔らかく言う。
「ご理解ください。出生データ衝突は橙レベルの事案です。調査を怠れば、ご家庭の信用スコアに影響する可能性があります」
信用スコア。
また信用スコア。
白石紀恵は爪を掌に食い込ませた。
「私はスコアなんてどうでもいい。子どもを返して」
女性は一秒沈黙した。
言葉を選ぶ沈黙。
そして静かに告げる。
「白石様。ご存知のはずです。この都市では――生命は私有財産ではありません」
平坦な声。
だがそれは彫刻刀のように、彼女の幻想を削り落としていった。
同じ頃。
都市生命評価センター地下三十階。
窓はない。
夜明けもない。
変わらぬ冷光だけがある。
ここには現実しかない。
廊下の突き当たりに扉があった。
表示はなく、灰色の文字だけが貼られている。
【権限:照会不可】
扉の向こうには保育カプセルが蜂の巣のように並んでいた。
ひとつひとつの中に、赤子がいる。
静かすぎる。
眠っているというより、停止している。
そして中央のカプセルには表示があった。
【サンプル番号:E-0】
【状態:暫定保管】
【観察:起動】
白石明。
透明な液体の中で横たわり、皮膚は白く、ほとんど発光している。
胸は規則正しく上下し、心拍も安定している。
だが脳波だけが違った。
モニターに映る波形は、人間のリズムではない。
それは言語のようだった。
遠い星海から届く信号のようだった。
カプセルの前に灰制服の男が立っている。
両手を背に回し、動かない。
その隣にもう一人。
人間と変わらぬ姿。
簡素な黒い長衣。
端正な顔立ち。
ただ、その目だけが――
静かすぎた。
静かすぎて、人間ではない。
灰制服の男が低く言う。
「サンプルの起動が予想より早い?」
黒衣の男は小さく頷く。
「母体が臍帯を早期に切断した」
「事故だ」
「違う」
黒衣の男は言った。
「それはランダムであり、必然だ」
“ランダム”という語を、彼は珍味のように味わった。
灰制服の男が眉を寄せる。
「お前たちは何が欲しい? 地球は協定通り、人口管理システムも遺伝子選別も出生枠も提供したはずだ」
黒衣の男は遮る。
「我々はお前たちの秩序など必要としていない」
彼は指先でカプセルに触れた。
透明な液体が微かに震える。
「必要なのは――混沌だ」
灰制服の男が固まる。
黒衣の男は赤子を見つめ、祈りのように囁いた。
「お前たち文明の最大の価値は資源でも土地でもない」
「予測不能だ」
「愛し、憎み、裏切り、犠牲になる」
「制度の中に漏洞を生む」
彼は微笑む。
その眼差しには期待が満ちていた。
「E-0は、その漏洞だ」
その時。
カプセルの中の李明が目を開いた。
銀光が瞳の奥で流れる。
黒衣の男が動きを止めた。
初めて、畏怖に近い表情を見せる。
「見ろ」
彼は低く言った。
「彼は我々を観察している」
灰制服の男の胸が冷える。
「ただの赤子だ」
黒衣の男は首を振る。
「違う」
「彼は赤子ではない」
「彼は――信号だ」
次の瞬間。
地下層全体の灯りが一度、揺れた。
モニターが同時に警告を吐き出す。
【外部周波数接続】
【発信源:不明】
【一致:E-0】
灰制服の男が振り向く。
「あり得ない! ここは封鎖層だ!」
黒衣の男は静かだった。
すでに予測していたように。
「彼が呼んでいる」
「誰を?」
灰制服の男の声が震える。
黒衣の男は目を上げる。
瞳孔の奥に、ごく淡い銀が走った。
「我々の家を」
地上。
白石紀恵は病室のベッドに座り、突然、理由のない寒気に襲われた。
遠くで誰かが、骨を軽く叩いたような感覚。
彼女は身を抱きしめ、呟く。
「明……」
窓の外の空は相変わらず優しい橙色。
放送もまた穏やかに告げる。
【本日の死亡ランダムコード:更新済】
【どうぞ良い一日を】
誰も知らない。
都市の地下三十階で、存在してはならない命が、星空へ向けて最初の信号を放ったことを。
そしてその信号が――
“本当の降臨”を呼び寄せることを。




