記憶を喪った者(2/2)
「まだ覚えていたのね」
その口調には、隠しきれない驚きがわずかに滲んでいた。
明の身体が硬直する。
彼は勢いよく振り返った。
通りの入り口に、ひとり立っている。
衣服は破れ、端には乾いた血がこびりついていた。
顔色は透けるほど青白く、まるで死の縁から無理やり引き返してきたばかりのようだ。
かつて氷のように冷静だったあの目も、今はひどく翳っている。銀の瞳の光はほとんど消えかけていて――それでもなお、息をのむほど美しかった。
その顔を見た瞬間、明の記憶は輪郭しか掴めなかった。
なのに心臓のほうが先に、彼女を認識していた。
天城琉璃。
彼女は、生きていた。
明の胸は、失っていた何かに強くぶつけられたように痛んだ。
ただ安心したのでもない。
ただ嬉しかったのでもない。
名前を取り戻したときよりも速く、深く、もっと別の何かが戻ってきたのだ。
「天城さん!」
明はほとんど反射で叫んでいた。
自分でも気づかないほど、声には震えと高ぶりが混じっていた。
琉璃は、かすかに笑った。
疲れきっていて、それでも確かな笑みだった。
「そんなに大きな声を出さないで」
彼女の声は軽い。
だがそこには、現実に幾度も削られた末の冷静さがあった。
「今のこの街は……どこも、あいつらの耳よ」
明は彼女に駆け寄り、慌てて声を潜める。
それでも胸の混乱と焦りは抑えきれない。
「おれ、いろんなことを忘れてた……」
さらに一歩、無意識に近づく。
まるで、次の瞬間にも彼女がまた消えてしまいそうで。
「母さんのことも、自分のことも……それに、もう少しで――」
そこで明は琉璃を見たまま、言葉を失った。
「もう少しで、君のことまで忘れるところだった」
琉璃の表情が、ほんの一瞬だけ固まる。
青白い頬に、ごく淡い赤みが差した。
けれどその色は一秒とも持たず、すぐにもっと深い疲労と重さの下へ沈んでいった。
彼女は静かに言った。
「それが、“門”の代償よ」
明は数秒黙り込んでから、頷いた。
自分がどれほど失ったのかはわからない。
だが失ったことそのものは、はっきりわかる。
あの空白は錯覚じゃない。
エネルギーと引き換えに、確かに奪われたものだ。
「それでも、おれは思い出した」
そう言う声は小さい。
だが確かな強さがあった。
琉璃は彼を見つめ、目元をわずかに揺らした。
それは、すべてが崩れた場所で、なお踏みとどまれる地面を見つけた人の目に似ていた。
しばらく沈黙してから、彼女は視線を落として言った。
「知ってる? さっき下で、私はあと少しで……本当に、あなたをあそこに置いていくところだった」
明は目を見開いた。
琉璃はうつむいたまま、自分の掌に見えない血が残っているかのように見つめる。
「もう限界だった。流れ込んでくる命令も、私じゃない意志も……あまりにも多すぎて、私自身が飲み込まれそうだった」
「あなたを見ていたとき、頭の中にはひとつの声しかなかった。――死ねば、全部静かになる、って」
明の呼吸がかすかに止まる。
そのときようやく、琉璃の言う“置いていく”が何を意味していたのか理解した。
琉璃の口調は静かだった。
だがどんな刃よりも冷たかった。
「私は、本当に手をかけたの」
「あなたが意識を失っているとき、首に手をかけた……」
街路を吹き抜ける風が、灰の冷たい匂いを運んでいく。
明はただ呆然と、琉璃を見つめることしかできなかった。
感情の反応すら、どこか遠くへ押し流されたように。
「でも、そのとき……あなた、急に私の手を掴んだ」
琉璃はゆっくりと顔を上げ、明を見る。
翳った銀色の瞳に、初めて脆さに似たひびが見えた。
「気を失っていたはずなのに、それでも私に、ひとことだけ言った」
明の喉がかすかに動く。
「……何て?」
琉璃は二秒ほど黙った。
あの混乱と暗闇の中で、もう一度その声を聞き直すように。
それから、本当に小さな声で言う。
「――怖がるな、って」
明はその場で固まった。
その二文字は、いま琉璃の口から発せられたというより、すでに忘れてしまった瞬間そのものが、闇を越え、崩壊を越え、死の縁を越えて、再び彼の耳元へ戻ってきたかのようだった。
琉璃は低く続ける。
「あの瞬間、私は止まった」
「あなたのおかげで、自分が本当に怖がっているものを思い出したから」
彼女は自嘲するように、口元をわずかに歪めた。
「私は、自分があいつらになるのが怖かった」
「そして、本当に手を下してしまったら……“私”らしいものの最後の欠片まで、一緒に消えてしまう気がした」
明は彼女を見つめたまま、胸の奥がきつく締めつけられるのを感じていた。
ようやくわかった。
目を覚ましたとき、なぜ琉璃がそばにいなかったのか。
まるで明の考えを読んだかのように、琉璃は淡々と続けた。
「あなたが気を失ったあと、まず地下通路の陰にあなたを引きずっていったの。見つかりにくい場所へ」
「それに、あの下は古い区画だったから、しばらくは主系統にも探知されにくい」
彼女はひと呼吸置く。
「そのあと、一度外へ出たわ」
「外に?」明が低く問う。
「補給を少し。それと、上の状況確認」
そう言って琉璃は、栄養ゼリーのパックを取り出し、明へ差し出した。
「食べて。さっき、かなり熱が出てたから」
明は礼を言い、封を開けて口にした。
何口か飲んだあと、また手を止める。
それを見届けてから、琉璃は続けた。
「上を確認してから地下に戻ったら……あなたがいなくなっていた。だから、目が覚めたとき私が見えなかったのは、置いていったからじゃない」
なぜか琉璃は、そのことを誤解されたくないようだった。
きちんと説明しようとしているのがわかる。
明の目が熱くなる。彼はほとんどすぐに言葉を返した。
「わかってる」
琉璃は少しだけ目を見開いた。
そんなにあっさり受け入れられるとは思っていなかったのだろう。
明は小さく言う。
「なんでかわからないけど……君は、そうしないって思えた」
琉璃の呼吸が、一瞬だけ乱れたように見えた。
だが彼女はすぐ目をそらす。
「結論を急がないで」
口調は冷たい。
なのに声は、少しだけやわらかくなっていた。
そのときだった。
琉璃の視線が明を越え、さらに遠くの街区へ向けられる。
遥か先の高層ビル、その外壁スクリーンが一斉に黒へ切り替わり始めていた。
黒地の上を、白い文字列が次々と流れていく。
新しい名簿が、更新されている。
そして通りの反対側では、さっきまで静止していた巡回機が、一機、また一機と再起動し始めていた。
その赤い走査光は、冷血の昆虫の眼のように、街区を精密かつゆっくりと舐めていく。
琉璃の表情が沈む。
「連中、張り直しを始めたわ」
明には、彼女の言う“連中”が銀海の者たちなのか、安寧署なのか、それとも両方なのかはわからなかった。
ただ彼女の視線を追った瞬間、やっと取り戻した自分の名が与えてくれたわずかな安堵は、たちまち現実に引き戻される。
結局、何も変わってはいない。
「おれたち……これから、どこへ行けばいい?」
口にしてから、明は気づいた。
それは単に行き先を尋ねた言葉ではない。
この街に、まだ“あいつら”のものではない場所が残っているのか。
自分たちに、行ける場所があるのか。
そう問う声でもあった。
琉璃は数秒、黙っていた。
風が、裂けた衣の裾を抜けていく。
彼女は疲れ果てているように見えた。
あと一歩進めば、そのまま砕けてしまいそうなほどに。
それでもなお、背筋だけはまっすぐだった。
「もともとは、なかった」
彼女は低く言う。
「でも、今は――」
そこまで言って、ふいに口をつぐんだ。
明がすぐには問い返さなかったからだ。
彼はただ俯いたまま、逃げることよりも大事な何かを必死に掴もうとしているようだった。
数秒後、ようやく掠れた声がこぼれる。
「……先に、家に帰りたい」
琉璃が目を見張る。
明は、切れてしまった手首のあたりを握った。
赤い紐はもうない。ただ、繊維の感触だけが皮膚に刺のように残っている。
「さっき、母さんの名前を思い出した」
「でも、顔はまだ思い出せない」
「今どうしてるのかもわからない。……もっと思い出せるかどうかも」
顔を上げた明の目には、自分を取り戻したばかりの脆さがあった。
それでも、その奥にはほとんど頑なと言っていい意志が宿っている。
「帰りたい」
「一目見るだけでもいい」
そして、ようやく勇気を振り絞るように尋ねた。
「天城琉璃……君、おれの家がどこか、わかるか?」
風の音が、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
呼び方が変わったことに気づき、琉璃は彼を見つめる。
二人の距離が、さっきより少しだけ近づいたように思えた。
その眼差しは深い。
今の傷だらけの明を見ているだけではない。
門が開いたあとの暴走も、共鳴も、引き裂かれた感覚も、その全部を通り抜けた先を見ているようだった。
やがて彼女は、静かに答えた。
「知ってる」
明は一瞬、言葉を失う。
琉璃は続けた。
「あなたの住んでいた場所も、歩いてきた道も、今覚えていることも、覚えていないことも……」
その声は静かだ。
だが一切の迷いがなかった。
「黒衣の男に流し込まれた記憶の中で。あの共鳴の中で。私は、その一部を見た」
砕けた都市の灯を映した銀の瞳で、彼女はまっすぐ明を見る。
「あなたのことは、全部知ってる」
その言葉に、あからさまな色はなかった。
けれど、曖昧な甘さよりもずっと重かった。
死の縁で支え合い、寄り添い、互いの中へ踏み込んでしまった二人は、もう完全な他人へは戻れない。
そんな重さだった。
明の心臓が大きく縮む。
怖さではない。
名前のつかない鼓動だった。
琉璃は先に視線を外し、そのまま踵を返す。
頬に差したかすかな赤みを隠すように。
「行きましょう」
声はまた、あの抑えた冷静さに戻っていた。
ただ今度は、その冷静さの奥に、ごくわずかなやわらかさが混じっている。
「連中の第一波の剪定が完全に落ちる前に、あなたを連れて帰る」
明はその背中を見つめた。
胸の中の欠けた場所に、ようやく何かが静かに収まった気がした。
もう何も聞かなかった。
ただ、彼女のあとを追う。
二人は前後して、まだ白みきらない灰色の路地を進んでいく。
遠くでは、黒地に白文字の名簿がなお更新を続けていた。
都市放送は、冷たい秩序の宣告を何度も繰り返している。
巡回機は目覚めた猟犬のように、高層建築の影から次々と滑り出てきていた。
それでも今、明の頭の中で最も強い思いは、逃げることではなかった。
帰ることだった。
母がいて。
名前があって。
体温のあった場所へ。
人を収穫し始めたこの都市の中で、自分にまだ“人間”と呼べるものが残っているのか。
それを確かめに戻ることだった。
そして前を行く琉璃は、振り返らない。
だが彼女にはわかっていた。
自分が白石明を殺さなかったその瞬間から。
あの「怖がるな」を聞いたその瞬間から――
自分にも、もう後戻りする道はないのだと。




