記憶を喪った者(1/2)
白石明が目を覚ましたとき、最初にわかったことは――
自分が、どこにいるのかわからない、ということだった。
次にわかったことは――
自分が、誰なのかわからない、ということだった。
闇がまぶたに張りついていた。まだ完全には醒めきっていない夢の名残のように。
耳の奥では低い唸りが断続的に響いている。はるか遠くで巨大な生き物が、ゆっくりと呼吸しているような重い音だった。
彼は冷たい床に横たわっていた。後頭部から背中にかけては痺れ、首には鈍い痛みが残っている。胸の奥は、何かに内側から無理やり裂かれたあとみたいで、息を吸うだけでもひどく痛んだ。
明は目を開け、あたりを見回した。
地下通路の奥には、弱々しい光がまだ残っていた。明滅を繰り返し、水面に砕けた月が映っているようだった。
壁面は古びた金属で、湿気を帯びている。空気には埃と錆、それから焼けた回路の匂いが混じっていた。
異様なほど静かだった。聞こえるのは、遠くで何かの機械が、意地のように動き続けている音だけだ。
起き上がろうとして、明は片手を床についた。
その瞬間、全身がびくりと震えた。
寒さのせいではない。
うつむいた視線の先、自分の胸元に、なお銀色の光紋が残っていたからだ。
それはもう心臓のように脈打ってはいない。役目を終えた刻印のように、ただそこに在った。
彼はそれを見つめ、長いこと動けなかった。
だが頭の中には、何もなかった。
まるで誰かに本棚をごっそり運び去られ、壁にうっすらと埃だけが残されたように。
「おれ……」
口を開くと、声は掠れていた。
自分のものではないみたいに、ひどく遠い。
「……誰、なんだ?」
細長い通路に、その言葉だけが虚しく反響した。
明は呆然と耳を澄ませた。自分の声なのに、どこか別の場所から聞こえてくるようだった。
無意識に手を上げ、自分の左手首を見る。
そこには、一本の赤い紐が巻かれていた。
赤。
灰色に凍えたこの世界の中で、それだけが異様なほど鮮烈な色だった。
彼はその赤い紐をじっと見つめた。指先が、かすかに震える。
脳の奥底で、ぼやけた何かが波打った。
一対の手。
ぬくもり。
とっくに忘れているはずなのに、どうしても魂のどこかに引っかかったままの言葉。
――母親。
だが、顔が思い出せない。
声も思い出せない。
その温度さえ、何重もの霧の向こうにあるみたいだった。
ただ、その二文字が浮かんだ瞬間、頭の中を鋼の杭で貫かれたような激痛が走った。
明は呻き、こめかみにたちまち冷や汗がにじむ。呼吸も一気に乱れた。
「ぐっ……!」
ただの頭痛じゃない。
むしろ二組の記憶が、脳の内側で互いを引き裂き合っているようだった。
一方は真っ白な空白。
もう一方は、理解できないのに本能だけが怯える、あまりにも巨大な何か。
銀色の空。
感情を持たない眼。
海のようでいて、生きているかのような門。
そして、人類のものではない言語――
明は反射的に頭を抱え、その場にうずくまった。
痛みがわずかに引くまでそうして耐え、それからようやく壁に手をつき、よろめきながら立ち上がる。
ふらつく足取りで、前へ進む。
歩いて。
歩いて。
まるで世界に捨てられた人間が、自分でもまだ存在しているのかどうかわからない名前を探しに戻っていくように。
しばらくして、明の前に上へ続く金属梯子が現れた。
その先には、半ば開いた点検口がある。
上から冷たい風が吹き込んでいた。地上都市特有の、乾いた冷気だ。
明は見上げた。
その瞬間、首筋に鋭い痛みが走り、喉まで強張る。
だが気にしている余裕はなかった。無言のまま手を伸ばし、鉄の横桟をつかんで登り始める。
一段。
また一段。
上るたび、背後の闇が一層ずつ沈んでいくようで、頭上に見える冷たい白も、少しずつ近づいてきた。
やがて彼は手を伸ばし、蓋を押し上げた。
それは、彼が渇望した光だった。
――地上の風が、正面から吹きつけてきた。
地上に出ると、そこは高架設備の裏手にある整備用の細い通路だった。
未明の風が狭い建物の隙間を抜け、紙片と細かな灰を巻き上げていく。
明はようやく点検口から這い出し、片膝をついて激しく息をした。
遠くの幹線道路にあるホログラム広告は、本来ならこの時間、決まった鎮静プログラムを流しているはずだった。
だが今は砂嵐のようなノイズしか映っていない。時折、歪んだ顔の半分や、途中で途切れた文字列が閃くばかりだ。
交差点で治安維持にあたっていた巡回機も、二機が中空に静止したまま動かない。
まるで誰かにシステムごと、一時停止を強制されたように。
都市全体が、異常なほど静まり返っていた。
――いや、ただ静かなのではない。
巨大な秩序そのものが、目に見えない場所でずれ始めている。
そんな気配だった。
次の瞬間。
都市の公共放送システムが、何の前触れもなく一斉に起動した。
聞き慣れた女性音声ではない。
もっと低く、もっと滑らかで、もっと完成されすぎた声。
感情も抑揚もない女の声が、街区全体を覆った。
【市民の皆様にお知らせします。未登録の異常接触事案が発生したため、ただいまより本市は正式に臨時秩序接管体制へ移行します】
「……なんだ、これ……?」
明の呼吸が止まる。追い詰められた獣のように身体がこわばった。
だが放送は、理解する時間すら与えず、機械的な平静さで続いていく。
【第一段階:管理接管】
【第二段階:人口剪定】
【第三段階:ランダム収穫】
それを聞いた瞬間、明の胸の奥がすっと冷えた。
「収穫……」
思わず呟いた自分の声に、今度は自分が先に固まる。
その単語は妙に馴染んでいた。まるでもともと自分の身体の内側にあり、今になって誰かに呼び起こされたものみたいに。
直後、都市中のスクリーンが一斉に点灯した。
いつもの“死亡ランダムコード”ではない。
毎週一度、市民が震えと麻痺の中で運命を受け入れるための抽選名簿でもない。
そこに映し出されたのは、気が遠くなるほど膨大で、びっしりと名前の並んだ一覧だった。
一人ひとりの名前の脇には、秒単位まで正確な時刻が付されている。
まるで、あらかじめ書き上げられていた処刑執行表だ。
その一覧の最上段には、ただ無機質に一行だけ表示されていた。
【第一陣・剪定対象名簿】
その瞬間、都市全体に衝撃が走った。
バルコニーで悲鳴を上げる者。
路上で声を失って叫ぶ者。
端末を握りしめ、自分の名前を何度も照合し、手の震えが止まらない者。
その場にへたり込み、自分がこれまで信じてきたものすべてが、別の形をした飼育でしかなかったと悟る者もいた。
「そんなはずない……」
「死はランダムだって言ってたじゃないか!」
「政府は抽選だと――」
「剪定って何だ? 収穫って何なんだよ!?」
騒ぎは火のように広がった。
道路を、階層を、通信網を伝い、街全体を激しく揺さぶっていく。
そして最後に、放送はほとんど皮肉としか思えないほど静かな口調で、誰もが聞き慣れた結語を流した。
【生まれるのは計画、生きるのは僥倖、死ぬのはランダム】
だが、その言葉はもう標語には聞こえなかった。
ようやく本体を現した刃のようだった。
明は風の中に立ち尽くした。
頭の中で、何かがひどく鳴っている。
この言葉を――彼は知っている。
どこで?
思い出そうとしても、つかめるのは空白だけだった。
「おれは……いったい……」
苦しげに呟き、明はふらつきながら歩き出す。
行くあてもない。
目標もない。
まるで、この都市に群衆の中へ投げ込まれた幽霊のように。
だが通りを行き交う人々も、また幽霊のようだった。
泣く者、逃げる者、端末の名簿を見つめたままなお信じようとしない者。
あるいはその場に立ち尽くし、顔色を失い、一歩も動けない者もいる。
何十年にもわたる服従が骨の髄まで染みつき、恐怖から逃げることすら忘れてしまったかのように。
……
明はそんな人波に紛れながら歩いた。
だが歩けば歩くほど、自分だけが異物のように思えてくる。
彼らを見ているのに、自分は彼らの側にはいない。
そんな感覚だった。
やがて、一枚のガラス窓の前で足が止まる。
そこに、自分の顔が映っていた。
少年。
青白い。
だが、その眼差しはぞっとするほど見知らぬものだった。
確かに少年の顔だ。
けれどその蒼白さと疲弊の下には、自分ですら恐ろしくなる何かが、深いところからゆっくりと浮かび上がってきていた。
明は自分の瞳を見つめた。
黒の奥底で、ほんのかすかな銀光がひらりと瞬く。
何かに鋭く刺されたように、明は一歩後ずさった。
次の瞬間、堪えきれず叫ぶ。
「違う――!」
声が裏返る。
「おれは、あいつらじゃない!」
叫んでから、自分で固まった。
あいつら、とは誰だ?
わからない。
なのに身体のほうが、記憶より先に答えを知っている。
彼は手首の赤い紐を強く握りしめた。指の関節が白くなるほどに。
それは、自分に残された最後の“人間”の証を掴む行為に似ていた。
母親。
名前。
ぬくもり。
そして、忘れたくない誰か――
その記憶を必死にたぐり寄せようとした、そのときだった。
ぷつり、と。
赤い紐が切れた。
かすかな音。
だがそれは、何かが彼の中でも同時に断ち切れたように響いた。
明は息を呑む。
それでもなお、最後の綱を掴んだように――
次の瞬間、ひとつの名前が混沌の底から激しく浮上した。
「しらいし……のりえ……」
その名を口にした途端、胸の奥に鋼の針を打ち込まれたような激痛が走る。
胃の中が荒れ狂い、明は身体を折って激しくえずいた。呼吸さえままならない。
だが、その激しい拒絶反応の中で、まるで深海に錨が打ち込まれるように、記憶の断片がついに戻り始めた。
分娩室の白い光。
押し殺された泣き声。
震える手。
そして、恐怖も愛もすべて込めて、必死に自分をこの世につなぎ止めようとする声。
「白石……明……」
熱を帯びた目で、彼は喘ぐ。喉が詰まる。
「そうだ……」
声が震えていた。
「おれは、白石明だ」
その瞬間、彼はようやく自分自身の欠片をひとつ拾い直した気がした。
不完全だ。
それでも、確かに本物だった。
だが、安堵する間もなかった。
背後から、ふいに声がした。
聞き覚えがあるのに、どこか遠い声。
とても小さい。
瓦礫の上を風が撫でるみたいに軽い。
なのに、この混乱の中で不思議なほど正確に、心臓を打った。




