暴走する地表(3/3)
誰も口を開かなかった。
フィル=レグナが口にしたのは、脅しではない。
すでに起こり始めている現実そのものだったからだ。
その一面の死寂の中、真っ先に手を伸ばしたのは、林 淑子だった。
彼女は武器に触れようとしたわけでも、机を叩こうとしたわけでもない。
ただ、自分の個人権限モジュールを卓上に置き、認証を起動しただけだった。
――ピッ。
「臨時協同機構」の起動に同意したことを示す緑の光が灯る。
鷹宮 恒一は信じられないものを見るように彼女を見た。
「君、正気か?」
ついさっき自分がそれ以上に狂った考えを抱いていたことなど、完全に忘れたような口ぶりだった。
林は彼を見ようともせず、ただ冷たく言い放つ。
「私は、この街をまず今夜生き延びさせるだけよ」
その一手で、事実上の陣営選択は完了した。
三浦 承一は目を閉じ、短く息を吐くと、自分の権限モジュールも卓上に載せた。
二つ目の緑光が灯る。
続いて、衛生総署とエネルギー署の地方連合代表二名。
全員が同じ理由で動いたわけではない。
恐怖からの者もいた。
現実論からの者もいた。
打算で乗った者もいれば、最初の生贄にされる反対者にはなりたくない、ただそれだけの者もいる。
あるいは最初から、黒衣の者たちと同じ側に立っていた者もいた。
だが、結果は同じだった。
一つ。
また一つ。
認可を示す緑の光が、卓上で次々と灯っていく。
鷹宮はその場に立ち尽くしたまま、指をきつく握り締めた。関節がきしみ、胸の上下は目に見えて荒い。
だが彼は初めて悟る。自分には、もうこの流れを止められないのだと。
これは外敵の侵攻ではない。
内部からの征圧だった。
それでも、首席執政官・黒川 恒一だけは、最後まですぐには動かなかった。
彼は灯り始めた緑光を見た。
分裂した同僚たちを見た。
そして、ほとんど綻びのないフィル=レグナの顔を見た。
やがて彼はゆっくりと手を伸ばし、自分の権限モジュールを卓上に置く。
だが、まだ押さない。
会議室中の視線が、彼一人に集まった。
黒川は目を上げ、フィル=レグナをまっすぐ見据え、一語ずつ問いかけた。
「これを押せば、君は保証できるのか。今夜が明けたあとも、この街がなお人類の街であると」
その一言で、会議室にようやく、かすかな、ほとんど人間的な痛みが差し込んだ。
フィル=レグナは彼を見つめ、二秒ほど沈黙し――
ふっと、わずかに微笑んだ。
その笑みはあまりにも淡い。
だが、どんな正面からの返答よりも冷たかった。
「黒川首席。今夜のあと――」
柔らかな声で、彼女は言う。
「少なくとも、まだ機能する都市ではあります」
それは約束ではなかった。
欺瞞ですらない。
何一つ装飾を施さない、徹底した現実の宣告だった。
黒川の目の奥に最後まで沈まずに残っていたためらいが、ついに落ちる。
――ピッ。
緑光が灯った。
「賢明なご判断です」
フィル=レグナはそう言った。
「この時点においても、私たちが約した事項は依然として有効です。これまでの約束も同様に失われてはいません。もう少し、私たちを信じていただいてもよいのではありませんか」
その言葉が落ちた瞬間、中央会議室のすべてのメインスクリーンが一斉に切り替わった。
もともと地球連邦政府に属していた権限フレームは左右へ退き、より上位にある、より冷たく、より簡潔な銀白色の操作インターフェースが上から覆いかぶさる。
都市全域通信。
エネルギー脈動図。
軍政ノード接続。
安寧署の指揮系統――
都市中枢そのものが、見えない手に喉元を静かに、そして一切のためらいなく掴まれたかのようだった。
さきほどまで狂ったように増殖していた赤字の警告は、一つずつ消えていく。
問題が解決されたわけではない。
ただ、問題そのものの定義が書き換えられたのだ。
安定を取り戻した光幕を見つめながら、フィル=レグナは言った。
「これより、各位は我々の技術要員を伴って、それぞれの持ち場へ戻ってください。後続処理を共同で行います。ご安心を――」
「彼らは、皆様の必要に対して絶対に従います」
言い終えると同時に、扉の外に控えていた銀海星人たちが、一斉に動き出した。
まるで起動を待っていた装置の列のように、それぞれ対応する高官の傍らへ、ためらいなく歩み寄っていく。
黒川首席のそばに来たのは、整った顔立ちの銀海星の女性だった。
彼女はわずかに一礼し、礼儀正しく、むしろ優雅ですらある声音で言った。
「はじめまして、黒川首席。私はあなたのあらゆるご指示に従います。どうかご自宅まで同行させてください。残された問題の処理にあたります」
黒川は重く彼女を見つめたが、結局は小さく息をつき、体裁を崩さぬまま立ち上がった。
林 淑子や三浦 承一らも、次々と席を立ち、従う。
ただ一人、鷹宮だけが声を荒らげた。
「これは軟禁だ!」
次の瞬間、彼の左右には銀海星人の男女が一人ずつ立っていた。
そして有無を言わせぬ手際で、彼を“丁重に”外へ連れ出した。
フィル=レグナは、その小さな騒ぎに二度と目もくれなかった。
ただ、軽く手を上げ、告げる。
「始めなさい」
「第一段階、ノードの安定化」
「第二段階、不必要な横断情報流の遮断」
「第三段階、臨時秩序共同体の構築」
……
命令が下るや否や、会議室に残った銀海星人たちは即座に新システムへ接続した。
情報は濁流のように一瞬で行政塔全域へ、安寧署中枢へ、エネルギー制御室へ、そして優先順位を書き換えられたすべての内部回線へとなだれ込んでいく。
都市全体が、なお痙攣を続ける巨大な肉体のようだった。
それを、より高位の神経系が強引に接収していく。
ここで大勢が決したのを見届けると、フィル=レグナは視線をさらに遠くへ向けた。
窓の外、まだ夜明けには遠い、それでいてまもなく新たな名を与えられることになる都市へ。
そしてこの先、こうした都市はさらに増えていく。
そのとき、四十八号がようやく低い声で口を開いた。
「フィル=レグナ様。では、このあとは……」
「計画どおりに進めなさい」
フィル=レグナは無表情のまま答える。
「その他の上層部、並びに後続処理は、あなたたちに任せます」
その声色には、感情らしい揺れはほとんどなかった。
それでもどこか、何かを追想しているような気配だけが、かすかに残っていた。
四十八号はわずかに間を置き、さらに尋ねる。
「では、あなたは?」
フィル=レグナは彼の言葉を遮った。
「私は、ある人物に会いに行く」
彼女の視線は再び会議室のガラス壁を越え、遠く、さらに深く、さらに暗い都市の輪郭へと注がれる。
まるで、まだ完全には着手されていない盤面を見つめる棋士のように。
「彼の抵抗を最小限まで下げる。そうすれば、私たちはこのすべてを、より円滑に接収できる」
四十八号はわずかに眉をひそめた。
「そこまで重視なさる相手とは、誰です?」
その瞬間になって初めて、ほとんど無表情を保っていたフィル=レグナの顔に、はっきりと感情を伴う淡い笑みが浮かんだ。
それは優しさではない。
終局に差しかかった棋士が、最後にして最も押さえがたい一枚の駒に会いに行くときだけ見せるような表情だった。
「最後の五星上将――」
「榊原 義重」
フィル=レグナは、心から愉しむように微笑んだ。
そして同じ瞬間、都市の反対側。
すでに半廃棄指定を受け、本来なら誰一人として使用しているはずのない旧軍事観測塔で――
長年、塵をかぶったままだった独立戦備灯が、不意に点いた。
まるで、あまりにも長く沈黙していた誰かもまた、ついに目を覚ましたかのように。




