暴走する地表(2/3)
場内は、一瞬にして静まり返った。
まるで音そのものが消えたかのようだった。
その沈黙を最初に破ったのは、連合議会副執行長――神谷 岳だった。
「き、君は――」
声が、普段より半音高い。
カメラ慣れした政治家特有の落ち着きは、完全に消えていた。
「ここは君が来る場所じゃない!」
フィル=レグナは彼を見た。
その視線は礼儀正しく、柔らかい。
まるで、取り乱した後輩を静かに見守る先輩のようだった。
「だからこそ、来る必要があったのです」
彼女はそう言った。
声は高くない。
しかし、その瞬間、会議室にいた全員が口を閉ざした。
理由は、彼女が入ってきたからではない。
彼女が口を開くよりも前に――
すでに、すべての情報スクリーンが自動で切り替わっていたからだ。
分断されていた軍政データ、都市監視映像、エネルギー配分図、世論統制インターフェース。
それらが、同じ瞬間に
白い紋章によって一斉に上書きされた。
それは地球連邦政府の紋章ではない。
安寧署でもない。
統合会議でもない。
軍のシステム識別コードでもない。
だが――
この場の誰もが一度は見たことがある。
しかし、誰一人として
本気で意味を考えたことがない紋章だった。
黒衣人技術体系――
最下層メンテナンス認証リング。
誰かが、息を呑んだ。
そしてほぼ同時に、
この場の全員が理解した。
自分たちはずっと、こう思っていた。
銀海文明の技術を
使っているのだと。
だが現実は違う。
彼らはただ
使うことを許されていただけだった。
その差は――
あまりにも大きい。
フィルはゆっくり歩き、会議卓の奥へ向かった。
そこは
首席執政官の席だった。
首席執政官――黒川 恒一は、すぐには立たなかった。
ただ彼女を睨みつけている。
テーブルの縁に置かれた指先が、
力の入りすぎで白くなっていた。
「……君は、何をした?」
黒川が言った。
フィルはすぐには答えなかった。
まず、会議室を見回した。
ゆっくりと。
まるで人間を見ているのではない。
完成済みの構造図を読み取っているかのようだった。
誰が動揺しているか。
誰が怒っているか。
誰が平静を装っているか。
誰が潜伏している味方か。
そして――
誰がすでに
寝返り条件を計算しているか。
それらは、あまりにも分かりやすかった。
最後に彼女の視線が止まったのは、
黒川の顔だった。
「協力者として」
フィルは静かに言う。
「本来、より能力のある者がやるべき仕事をしているだけです」
その瞬間。
会議卓の一角で
激しい音が鳴った。
最高作戦協調官――鷹宮 恒一が、机を叩いたのだ。
椅子が後ろへ滑り、耳障りな音を立てた。
「その口の利き方はやめろ!」
彼は強硬派だった。
銀海文明との協力に、ずっと反対してきた人物だ。
立ち上がった体は、
弓のように張り詰めている。
「お前たちの人間が不明通路から違法侵入した!
地下第七区はいまだ制御不能だ!
その上で中央権限まで握ろうってのか!」
彼の声は怒号に近かった。
「それは協力じゃない――侵略だ!」
「侵略?」
フィルは、少し面白そうにその言葉を繰り返した。
口元が、ほんのわずかに弧を描く。
「ご存知のはずです」
彼女は柔らかく言った。
「私たちを監視する星印が反応していない以上、侵略は成立しません」
その口調は穏やかだった。
だが、叱責よりも
はるかに屈辱的だった。
「地下第七区の件は、
未完全承認下で発生した接触バランス事故です」
「さらに、あなた方の衛星軌道定位砲が
最も悪いタイミングで誤作動しました」
彼女はわずかに首を傾ける。
「結果として――」
まるで論理を整理してあげる教師のように。
「現在、制御を失っているのは」
「あなた方です」
鷹宮の顔色が、一瞬で蒼白になった。
反論しようとした、その時――
別の声が割って入った。
「もういいでしょう」
副執政官――林 淑子だった。
彼女は他の者より、ずっと静かだった。
フィルが入室した後も、
ほとんど動揺を見せていない数少ない人物。
あるいは――
もともと黒衣人側の人間だったのかもしれない。
林は机に手を置き、ゆっくり立ち上がる。
鷹宮を一度見て、
スクリーンに溢れる制御不能データを見て、
最後にフィルへ視線を向けた。
「今は責任の押し付け合いをしている場合ではありません」
静かな声だった。
「もし本当に状況を安定させられるなら――」
「まず都市を止めてください」
その一言で、
会議室の空気が微妙に変わった。
鷹宮が振り向く。
「林副執政官、どういう意味だ?」
「東区と北区がダウン。
エネルギー第三ノードも離線」
彼女は淡々と言う。
「安寧署中層が命令拒否を始め、
メディア流出が発生。
市民の目撃映像は拡散中」
そして一拍置いた。
「それから――」
「もし衛星砲が誤作動でないなら」
「軍上層は反乱の疑いがあります」
会議室が凍りついた。
「もっと早い手があるなら、どうぞ」
林は静かに言った。
「……それでも中央権限を渡すわけにはいかない!」
鷹宮が怒鳴る。
「では、あなたがやるんですか?」
林が即座に返した。
声が少しだけ強くなる。
「できますか?」
空気が固まった。
これは単なる議論ではない。
亀裂が初めて、正式にテーブル上へ現れた瞬間だった。
フィルは黙ってその光景を見ていた。
口は挟まない。
こういう時、最も効果的なのは――
自分で敵を分裂させることではない。
恐怖と責任の間で、彼ら自身に分裂させることだ。
案の定。
次に口を開いたのは、
財政・民政総署長――
三浦 承一だった。
「私は林副執政官の判断に同意します」
彼は眼鏡を押し上げる。
声には緊張があったが、
退く気配はない。
「今一番重要なのは止血です」
「今夜都市が完全崩壊すれば、
明日我々が直面するのは権限問題ではない」
「全面パニックです」
鷹宮が睨む。
「主権を渡す気か?」
三浦は二秒黙った。
そして低く言った。
「主権?」
彼はまっすぐ見返す。
「鷹宮将軍」
「あなたは今、
自分の軍を完全に動かせますか?」
鷹宮の顔が、凍りついた。
――できない。
数分前に試したばかりだった。
第四軍区の進軍命令は上層で上書き。
第七快速反応部隊は通信断。
戦術衛星の一部権限すら
何者かに使われ、現在も応答がない。
それは単なる故障ではない。
誰かが見えない場所から
軍の作戦チェーンを押さえている。
そして――
その「誰か」の一人が
今、彼の目の前に立っている可能性が高かった。
黒川は、ずっと黙っていた。
そしてついに言った。
「……どこまでの権限が欲しい?」
その瞬間。
鷹宮が振り向いた。
「黒川首席!」
しかし黒川は見向きもしない。
ただフィルを見ていた。
彼女の一挙一動を。
フィルの瞳に、
わずかな賞賛が浮かんだ。
彼女はこういう人間が好きだった。
賢いからではない。
状況が不可逆になった時、
何を握り続けるべきか理解している人間だからだ。
フィルは静かに言った。
「あなた方が保持できる権限は――」
一拍置く。
「暫定的なものです」
「中央行政優先調度権
軍事協同権
エネルギー・通信ノード緊急介入権
そして」
「安寧署の暫定再編権」
「それを暫定だと?」
鷹宮が冷笑する。
「もちろんです」
フィルは言った。
「あなた方が有効な統治を回復するまでの間は」
彼女が手を上げる。
空中に、契約条項の投影が浮かんだ。
簡潔。
冷酷。
そして、恐ろしく効率的。
まるで――
ずっと前から用意されていたかのように。
それこそが、
最も背筋が寒くなる点だった。
彼女は
今思いついたわけではない。
ただ、
公開してもいい瞬間を待っていただけだった。
鷹宮が一歩踏み出す。
声は刃のように低い。
「もし、俺が拒否したら?」
その頭には、すでに別の選択肢が浮かんでいた。
――直接排除。
匹夫の怒り。
血三尺に飛ぶ。
彼は自分の手で問題を解決することを恐れない。
唯一の問題は――
その結果を
自分が背負えるか。
あるいは
地球が背負えるか。
星間戦争という結果を。
その瞬間。
フィルの視線が、初めて真正面から彼に向いた。
彼女はすべて察していた。
だがその目には敵意がない。
ただ静かな確信だけがあった。
それが逆に――
鷹宮の背筋を強張らせた。
フィルは柔らかく言う。
「その場合、顧将軍」
「あなたは三つの事態に直面します」
「第一」
「今夜、都市の恐慌映像が全面流出し、市民暴走が始まります」
「第二」
「あなたの軍事指揮系統は切断され続け、各部隊は独立行動に入ります」
そして――
彼女は一度、会議室全体を見渡した。
「第三」
静かに言う。
「このテーブルの人間が
まず二派に分かれ」
「互いに、潰し合います」




