門が閉じたあと(2/2)
地下の整備通路を、天城琉璃はほとんど明を引きずるようにして進んでいた。
左肩からはまだ血が流れ、胸の傷は激しい動きのたびに裂け直す。衣服はとうに血で張りついていた。
一歩踏み出すたび、肺を冷たい刃で削られるような痛みが走り、呼吸には鉄臭い甘さが混じる。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
衛星軌道測位砲の一撃で地下構造は不安定になり、崩落と落石が今も断続的に続いている。
頭上では鉄筋がねじれる音とコンクリートが砕ける鈍い響きが絶えず鳴っていた。裂けた隙間からは土埃がさらさらと落ち、非常灯は途切れ途切れに明滅する。死にかけた神経が痙攣しているような光が、通路の影をことごとく砕けた幻みたいに映し出していた。
明には、ほとんど自力で立つ力が残っていない。
体温は異常なほど高く、半身の重みがそのまま琉璃の肩にのしかかっている。呼吸は速くなったり遅くなったりを繰り返し、ひどいときは今にも窒息しそうなほど荒く、次の瞬間にはそのまま途切れてしまいそうなほど弱くなる。指先が時折ぴくりと痙攣するのは、この場に存在しない何かを掴もうとしているかのようだった。
「明……しっかりして。もう少し……あと少しだから……」
喉は擦り切れたように痛み、声は自分のものとは思えないほど掠れていた。
だが、返事はない。
明の目は半ば開いていたが、瞳孔は大きく開き、焦点は彼女に合っていなかった。
その奥には、人間のものではない何かが詰め込まれすぎていた。銀色の空、冷たい都市、見知らぬ構造、無数の声と座標。それらが互いを押し潰し合いながら、彼の眼の奥に不安定な灰白色の濁りを作っている。
「……ここじゃ、ない……」
明の唇がかすかに動き、切れ切れの言葉がこぼれた。
それは人間の言葉ではなかった。
だが、天城琉璃には意味が分かった。
銀海星語だった。
彼女の足が止まる。
「……何て言ったの?」
「……やつらに……もう一度……測位させるな……」
やはり銀海星語だった。
明の声は、はるか遠くから無理やり引き戻されたように途切れ途切れで、ひと言ごとに軋んでいた。
言い終えた直後、彼は突然、天城琉璃の手首を掴んだ。
その力は異様なほど強い。溺れる者が最後の浮き木にしがみつくみたいに、必死だった。
彼女は痛みに顔をしかめたが、振りほどかなかった。
分かってしまったからだ。
彼の掌が自分の肌に触れた場所に、ごく淡く、ごく冷たい震えが残っている。
門はもう閉じたはずなのに、その余波のような何かが、まだ二人の体内に沈んでいた。
彼女は思わず、自分の胸元の傷へ目を落とした。
裂けていたはずの傷口が、いつの間にかゆっくりと閉じ始めている。めくれ上がっていた皮膚が少しずつ寄り合い、痛みは消えないまでも、さっきまでのように行動を奪うほどではなくなっていた。
冷たく、安定した何かの力が、悪化し続けるはずの傷を無理やり押しとどめている。
それを見た瞬間、天城琉璃は強い吐き気を覚えた。
なるほど、自分たちはもう、死ぬことすら簡単には許されないらしい。
自分たちは、まだ人間なのか。
そのとき、明の睫毛が小さく震えた。
瞳が一瞬だけ焦点を結び、彼女の顔を捉える。
弱々しい。
けれど、その視線だけは異様にはっきりしていた。
「……天城、さん」
今度は人間の言葉だった。
彼女は喉を詰まらせ、すぐに身を寄せる。
「ここにいる」
明は彼女を見つめたまま、乾ききった唇をわずかに動かした。
声は、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど小さい。
「……僕たち、どこへ行けばいい?」
その一言に、天城琉璃の心臓は強く縮み上がった。
すぐには、何も答えられなかった。
どこへ行けばいいのか。
あまりにも軽い問いだった。
意識の底から漏れただけの、かすかな独り言のような問い。
だが、軽いからこそ残酷だった。逃げ場のなさだけが、むき出しになる。
彼女にはもう帰る家がない。
最初から、そんなものはなかった。
そして今、最後に立っていられた場所すら奪われた。
自分と明があの門を開けた。
銀海星人を、この世界へ本当に入れてしまった。
人類が自分たちを許すはずがない。
では銀海側はどうか。
そこまで考えて、彼女はそれ以上先へ進むのをやめた。
結局――
人類は自分たちを拒み、銀海星人もまた本当の意味では受け入れない。
この世界のどこにも、もう自分たちを置いてくれる場所はない。
天城琉璃は口を開いた。
だが、結局ひと言も返せなかった。
その沈黙だけで十分だった。
明は彼女を見つめ、その沈黙の中からすべてを読み取ったようだった。
目の奥にかろうじて残っていた光が、ゆっくりと失われていく。風の中で消えかける最後の火みたいに。
「……家に、帰りたい」
とても静かな声だった。
その言葉を聞いた瞬間、天城琉璃は胸の奥を乱暴にえぐられたような気がした。
責めているわけじゃない。
泣き叫んでいるわけでもない。
ただ、もう限界なのだ。
何もかも削り尽くされ、最後に残ったたった一つの、本能みたいな願い。
家へ帰りたい――それだけだった。
だが二人とも知っている。
もう帰れる家など、どこにもない。
その言葉を最後に、明のまぶたはゆっくり閉じていった。
身体から支えが抜けるように横へ傾き、そのまま意識を失う。
「明――!」
天城琉璃は反射的に彼を支えた。
指先を首筋へ当てると、触れたのは焼けつくような熱と、絶望的なほど安定した脈拍だけだった。
死んではいない。
けれど、死んでいないからこそ、余計につらい。
自分のときと同じだ、と彼女は思う。
明もおそらく、明日には何事もなかったように傷が塞がるのだろう。
だが――そのとき彼は、まだ彼のままでいられるのか。
彼を抱えたまま、天城琉璃は湿った冷気の満ちる影の中で立ち尽くした。
耳に入るのは遠くの警報、風の音、電流の唸り、そして乱れ続ける自分の呼吸だけ。
明の青白い横顔を見下ろしたそのとき、ひとつの考えが脳裏をよぎる。
稲妻のように速く。
だが、浮かんだ瞬間から消えなかった。
――もしかしたら、死ぬのがいちばんましなのかもしれない。
このまま生きていても、自分たちは追われ、利用され、解体され、調べられ、殺される。
あるいは、自分が自分でなくなっていくのを、最後まで見せつけられるだけかもしれない。
行く場所はない。受け入れてくれる者もいない。
それどころか、人間らしく自然に死ぬことすら許されないのなら――
まだ自分で決められるうちに終わらせるほうが、最後の尊厳なのではないか。
完璧であろうとし続けてきた天城琉璃の心に、その発想が生まれたこと自体が、骨の髄まで冷えきるほど恐ろしかった。
だが、もっと恐ろしいのは――
彼女がそれを、すぐには否定できなかったことだ。
ただ静かに、明の首を見ていた。
そこは脆い。
力を込めれば、それで終わる。
たった一度。
たった一瞬で。
そうすれば、彼はもうこれ以上苦しまなくて済む。
そのあと、自分も追えばいい。
それですべてが終わる。
もう逃げなくていい。
もう選ばなくていい。
自分が何に変わっていくのかと向き合わなくていい。
なんて、完璧なのだろう。
そう思ったとき、天城琉璃の手はゆっくりと持ち上がっていた。
指先は震えていた。
それでも少しずつ、少しずつ、明の首筋へ伸びていく。
熱も、脈も、呼吸も、まだそこにある。
生きている証。
そして同時に、人をもっと深い絶望へ引きずり込む証でもあった。
目は乾ききって痛むのに、涙は一滴も落ちなかった。
指を締めれば、それで終わる。
「……明」
天城琉璃は最後に、かすかな声で彼の名を呼んだ。
それは、白石明がまだ人間であることを示す、最後の証のようだった。




