座標と定位(3/3)
礼香は肺いっぱいに息を吸い込み、首筋に力を込めた。
固定された身体のまま、全力で頭を振りかぶり、前へ叩きつける。
――ドゴッ!!!
礼香の額が、四十八号の顔面へ真正面から激突した。
鈍く重たい衝撃音が地下空間に響く。
完全に不意を突かれた四十八号の上体が、のけぞる。
鼻梁はその場で歪み、人中から口元へかけて鮮血が一気に流れ落ちた。
赤い雫が、銀白の金属床へ点々と散る。
その場の黒衣たちすら、ほんの一瞬だけ静止した。
礼香の額にも激痛が走り、視界が暗く染まる。
それでも彼女は、口の端を吊り上げて笑った。
「どう?」
息を荒くしながら吐き捨てる。
目の底には剥き出しの凶気が宿っていた。
「あたしたち地球人の頭、けっこう硬いでしょ?」
四十八号は鼻血に触れた。
指先が赤く染まる。
一瞬だけ呆けたあと、彼はゆっくり笑い始めた。
いつもの無表情な静けさとは違う。
抑えきれない新鮮な興奮を帯びた笑みだった。
「上がっている……」
低く呟く。
「何が?」
礼香がいぶかしげに返す。
だが四十八号は聞いていない。
ただ彼女だけを見つめ、その目を次第に明るくしていく。
「感じる……私の感情値が、上昇している」
彼にとってそれは、奇跡に等しい発見だった。
呼吸さえわずかに速くなる。
怒るどころか、むしろ喜色を帯びていた。
「痛み、意外性、屈辱、興奮……混ざると、こういう感覚になるのか」
礼香は言葉を失い、ようやく絞り出す。
「……あんた、本物のイカレ野郎ね」
フィルは、血を流す四十八号の顔を見つめ、その目に本物の意外さをわずかに走らせた。
「これは……悪くない収穫ね」
四十八号は、天城琉璃の育成経路における研究担当の一人だった。
ほかの者よりも頻繁に、地球人の感情サンプルに接してきた。
その彼が、予兆もなく与えられた強烈な刺激によって、感情の波を無理やり押し上げられたのだ。
振れ幅はまだ人間に遠く及ばない。
だが、銀海文明の中では、それでも相当に珍しい変化だった。
しかも、そのきっかけが、目の前で拘束されたたった一人の地球人の女だという。
――やはり祖星へ戻ってきたのは正解だった。
フィルは胸の内でそう結論した。
相沢礼香は、四十八号が退くどころか前へ出てくるのを見て、むしろ心の芯から冷えていった。
狂ってる。
こいつら全員、頭がおかしい。
少しでも時間を稼ぐつもりだった。
まさか一撃食らわせたせいで、余計に興奮させるとは思わなかった。
だが、それでもいい。
場が乱れるなら、それだけで意味はある。
礼香が皮肉の一つでも投げようとした、そのとき。
地下空間全体が、突如として激しく震えた。
――オオオオ……ン。
それは単なる振動ではなかった。
遥か彼方から届くようでいて、同時に頭蓋の内側から直接鳴っているような共鳴。
金属台の周囲を走る銀光が、目を刺すほどの強さで一斉に輝きを増す。
ゆるやかに流れていた銀の光が、見えない力に一気に引き裂かれた。
そしてその光は、地下構造全体を貫いて上へ、さらに上へと駆け上がり、ついには地表を突き抜けた。
地の底から立ち上る脈動が、そのまま半空に巨大な裂け目を引き裂いていく。
裂け目の中にあったのは、闇ではない。
液体めいた銀白だった。
冷たい。
果てしない。
底が見えない。
宇宙そのものを圧縮し、ひと筋の生きた海に変えたような光景。
門が、開いた。
地表で。
ついに、開いてしまった。
その瞬間、周囲一帯の重力感覚そのものが書き換えられたかのようだった。
真下にいたフィルたちでさえ例外ではない。
その場にいた全員が、たちまち体勢を崩し、重心を失う。
次の瞬間――
第一陣の影が、銀光の深みから落ちてきた。
両足で着地し、よろめきながらも踏みとどまる者。
上半身だけが裂け目を抜けた瞬間、激しい空間断裂に巻かれて、その場で崩壊する者。
声を上げる暇もなく、歪んだ血霧と銀の碎光になって地へぶちまけられる者。
大量の銀海星人が、流れ込んでくる。
狭い傷口を無理やり押し広げて生まれ落ちるような、凄惨な“誕生”だった。
それでも彼らはついに――
“帰ってきた”。
そして、まさにその同時刻。
空で。
一点の極細い白光が、突如として閃いた。
直線。
精密。
しかも、圧倒的なエネルギーを孕んでいる。
それは地表へ向かって――
轟音とともに、落ちた。
白い光柱が、大地を貫いた。




