座標與定位(2/3)
相沢礼香は扉の外に立ち、最初の一瞬だけ動かなかった。
ここまで追跡してきたせいで、呼吸はまだ少し荒い。
額の髪は汗で貼りつき、防護服にも追撃の途上で浴びた灰が残っている。
だが、その目だけは異様なほど明るかった。
徹夜明けでなお、さらに激しく燃え上がる火のように。
扉が開く。
礼香の視線が、空間全体を一息で舐めた。
まず目に入ったのは黒衣の連中ではない。
その向こう、台座の奥にいるふたりだった。
白石明。
そして、天城琉璃。
やっぱり、ここにいた。
そう確信した瞬間、礼香の右手が腰の脇でごくわずかに動いた。
――ピッ。
ほとんど聞き取れないほどの電子音。
発信機、起動。
信号送出、完了。
指先がそこに触れていたのは、半秒にも満たない。
次の瞬間には何事もなかったように手を下ろしていた。
押した時点で、相沢礼香は生きて出るつもりなどなかった。
一秒でも長く引き延ばせれば、それでいい。
……
それから初めて、彼女は黒衣の者たちをまともに見た。
静かすぎるその目は、人間のものではない。
その瞬間、礼香は悟る。
こいつらが、久世恒一の言っていた“帰還者”だと。
どうせ死ぬなら、せめて何人かは道連れにする。
“帰還者”を何人かまとめて地獄へ連れて行ければ、それが最高の手向けだ。
そう思うと、礼香はかえって笑えた。
その笑みは、冷たく、真っ直ぐだった。
「あなたたちが“帰還者”?」
一歩前へ出る。
声には露骨な嘲りが乗っていた。
「人の皮をかぶって、地球を植民地にしようっていう、あの宇宙ゴミども?」
黒衣のうち数人が、わずかに視線をずらした。
彼女の言葉の重さを測っているようだった。
ひとりが静かに答える。
「私たちは、ただ帰りたいだけだ」
「帰る?」
礼香は鼻で笑った。
「人の巣を乗っ取るつもりで、それを帰るって言うの?」
その一言が、空気を鋭く裂いた。
だが、フィルの笑みは崩れない。
反論もしなければ、怒りも見せない。
ただ静かに礼香を見つめていた。
言葉より観察に値する、何かの現象を見るように。
フィルの感知するところ、いまの相沢礼香は、ほとんど燃え盛るエネルギーの塊に等しかった。
怒り。
緊張。
決意。
恐怖。
責任。
そして、玉砕すら辞さぬ峻烈さ。
それは単一の感情ではない。
複数の激しい波が押し合い、ぶつかり合い、極限まで圧縮された高密度の感情の峰だった。
濃い。
溢れ出しそうなほどに。
フィルの瞳の奥を、ごくかすかな惜念がよぎる。
「美しいわ」
小さく、そう呟いた。
礼香が眉をひそめる。
「……何ですって?」
「あなたの感情のことよ。本当に、美しい」
フィルは微笑んだ。
まるで一つの芸術品を鑑賞するように。
「恐怖、怒り、責任、死を前にした覚悟……ほとんど不純物がない。あなたのような感情のピークは、この星ではもう滅多に見られないわ。ずいぶん飼い慣らされてしまったもの」
そこで一拍置き、視線を礼香の胸元へ落とす。
本当に、その激しく奔流する情動が見えているかのように。
「あるいは……年齢も関係しているのかもしれないわね」
さらに続ける。
「惜しいわ。今は、あなたを採集するにはちょうどいい時機じゃない」
「規則が許さない……本当に惜しいこと」
礼香の背筋を、ぞわりと悪寒が走った。
変質者に全身を値踏みされたような不快さだった。
だからこそ、彼女はあえて大きく、嘲笑を返す。
「採集?」
補給されたばかりの旧式拳銃をひと振りして、フィルと黒衣たちへ突きつける。
「あんたら、やっぱり化け物ね。人が必死になってるのを見て、最初に思うのが“食う”こと?」
「いいえ、お嬢さん」
フィルは優しく訂正した。
「私たちは、希少な資源の価値を理解しているだけよ」
礼香は息をひとつ吐き、ゆっくりと台座へ足を踏み出した。
「いいわ。だったら今日は見せてあげる。地球人の“希少資源”ってやつをね」
口では強気に言い放ちながら、その実、彼女は一歩ごとに距離と時間を計算していた。
台座。
黒衣たちの立ち位置。
フィルの位置。
白石明と天城琉璃の位置。
そして――発信機が生きているなら、上空の衛星軌道定位砲が照準を合わせるまで、あとどれくらいか。
一秒。
二秒。
三秒――
まだ、それしか経っていない。
それなのに、この十分は、異様なほど長く感じられた。
近づくほど、この場所の異様さは骨身に染みた。
銀色の金属は生き物のように呼吸し、空気には微かな電流と冷気が満ちている。
白石明と天城琉璃の周囲では、耳鳴りを誘うような微振動が続いていた。
――まさか……門が、もうすぐ開く?
その考えがよぎった瞬間、礼香の胸の火はさらに激しく燃え上がる。
まずい。
これ以上、好きにやらせるわけにはいかない。
少しでもいい。
ほんのわずかでも、時間を稼がなければ。
礼香はわざと声を張り上げた。
「どうしたの? さっきまであんなによく喋ってたくせに。今は全員そろって突っ立ったまま――まさか、怖いの?」
黒衣の何人かがちらりと彼女を見る。
だが表情はない。
礼香は構わず銃口を上げた。
次の瞬間には引き金を引くつもりでいるように見せながら。
「来なさいよ」
口元を吊り上げる。獲物に噛みつく寸前の獣みたいな笑みだった。
「帰りたいんでしょ? だったら先にあたしが、まとめて“お里”へ送ってあげる!」
「本当に面白いわ」
フィルが小さく手を打つ。
まるで礼香の芝居に拍手でも送るように。
「勝ち目がほとんどないとわかっていて、それでも飛び込んでくる。そこが、人間の最も魅力的なところね。無意味だと知りながら、それでもなお、自分を燃やそうとする」
その視線が何気なく、礼香の腰元をかすめた。
発信機のごく微弱なパルス。
そんなものが、フィルの目を逃れるはずもなかった。
フィルは知っている。
礼香が押した、その瞬間から。
ただ、口にしなかっただけだ。
ひとつには、“門”の接続はすでに最終段階へ入っている。
いまさら人類側の上層部に知られたところで、止めることはできない。
もうひとつには、純粋な興味があった。
この女が命まで賭け、それでもなお失敗したなら――その感情は最後の瞬間、いったいどんなふうに砕け散るのか。
絶望か。
無念か。
それとも、もっと濃く、もっと甘美な何かなのか。
そう考え、フィルの唇の弧はさらにやわらかくなった。
一方の礼香は、自分の小細工がすでに見抜かれているとは知らない。
ただ、もう少し前へ出なければならないと、それだけを考えていた。
もっと近くへ。
あと少し。
せめて、手の中の旧式拳銃で一人くらいは確実に仕留められる距離まで。
「さっきから何よ、その目」
礼香が冷たく挑発する。
「どうしたの。殺すのが惜しくなった?」
「あなたを殺す?」
フィルは小さく笑った。
「私たちは、ただ帰るだけ。少なくとも規則の上では、先に攻撃するのは決して私たちではないわ」
そこで言葉を切り、続ける。
「私はただ見てみたいの。あなたのその感情が、あとどれだけ燃え続けられるのかを」
その言葉が落ちた、次の瞬間だった。
相沢礼香が一気に前へ飛び込む。
――今だ!
礼香は、この瞬間こそ最善だと判断した。
だが、ほぼ同時に。
彼女の防護服が、かすかな機械音を鳴らした。
――カチ。
次の瞬間、全身の関節部が一斉にロックされる。
礼香の瞳孔が一気に縮んだ。
膝。
肘。
肩。
腰。
指。
すべてが、内側から押さえつけられたように固定される。
目に見えない鋼鉄が骨の外に鋳込まれたようだった。
前へ飛びかかった“大の字”の姿勢のまま、彼女の身体はその場で硬直する。
かろうじて動かせるのは首から上だけ。
腕を上げられない。
引き金を引こうとしても、指が一分たりとも曲がらない。
「……っ、くそ!」
礼香は思わず悪態をついた。
ヘルメットを被っていなかったことだけは、不幸中の幸いかもしれない。
そうでなければ、声すら出せなかった可能性がある。
異能ではない。
バックドアだ。
銀海文明の技術は、地球全土にすでに浸透している。
安寧署の装備、武器、通信、定位――そのほとんどが、彼らの持ち込んだ技術基盤の上に築かれていた。
ならば彼らがその気になれば、遠隔命令ひとつで、それらはたちまち拘束具へと変わる。
フィルが柔らかく言う。
「ほらね。巨人の肩の上で技術を発展させているうちに、その巨人自身の意思を考えるのを忘れてしまったのでしょう?」
すべてを掌中に置いている者の声音だった。
礼香の狙いまで含めて。
「それらは最初から、一度だって、あなたたちの力じゃなかったのよ」
礼香のこめかみに青筋が浮いた。
だが逆に、胸の内は静かになっていく。
やられた。
なら、別の手を使うだけだ。
彼女は慌てなかった。
すぐに言い返しもしない。
むしろ、わずかに目を伏せた。
捕らえられ、ようやく無力を悟った人間のように。
意図的に、一瞬だけ惨めさを見せる。
その変化は案の定、何人かの黒衣の興味を引いた。
数歩、彼女に近づいてくる。
その中の一人。
フィルに先ほど名指しされていた“四十八号”だった。
彼は礼香を見ていた。
天城琉璃を観察していたときと同じ、だがどこかもっと生々しい関心を宿した目で。
「珍しい」
四十八号が静かに言う。
「なぜ君は、その反応をしているのに、感情値がまだ上昇し続けている?」
礼香は顔を上げ、真正面から睨みつける。
もっと近くへ。
あと少し。
四十八号は本当にその反応に惹きつけられたらしく、さらに半歩、前へ出た。
もっと間近で観察したいというように。
「失意と諦念の反応のはずだ……それなのに、怒りは下がらない。恐怖も拡大していない」
分析する声は冷静だった。
だが、その奥にあるほのかな昂揚までは隠しきれていなかった。
「面白い。本当に面白い――」
――今だ!




