【怪談風BL】八百(やお)の楔
「おぅい、そろそろ迎え火を焚くぞーぃ」
外からそんな声が聞こえてきた。もうそんな時間かと壁掛け時計を見たが、十一時半を指したあたりで針が止まっている。振り子も止まっていて、いよいよ壊れたかとため息が漏れた。
(ガリレオ・ガリレイが発見した振り子もさすがに限界か。いや、発明したのは別の人だったかな)
振り子の性質を発見したのはガリレオだった気がするが、振り子時計を発明したのは別の誰かだった気がする。そもそも振り子時計が止まったのも今日ではなかったような気がした。どこかで聞きかじった知識をぼんやり思い出しつつ時計から視線を外す。
(別に時計が止まっていても不便はないか)
いつの間にかそう思うようになっていた。そう思い始めたのがいつからなのか、よく覚えていない。「随分前のような気もするな」と思いながら立ち上がったところで障子がスッと開いた。
「そろそろ迎え火だそうですよ」
「あぁ、聞こえた」
障子を開けたのは美しい顔をした肌の白い男だった。白い手には四つの手持ち花火がある。
「毎年思っているんだが一つでいいんだぞ?」
「それでは、あなたの息子たちが帰って来られないでしょう」
「あの子たちは漁師じゃないから海から帰ってくるわけじゃない」
「それを言うなら僕の弟も漁師ではありませんよ?」
毎年くり返しているやり取りに思わず笑ってしまった。すると美しい顔もふわりと笑う。
「つい先日、同じやり取りをした気がしますね」
「俺もそう感じるが、一年前の話だ」
「もう一年経ちましたか」
ついと窓の外に向いた視線を追うと、薄暗くなった空とかすかに瞬く星が見えた。続けて海風とともに入ってきた潮の香りが鼻をくすぐる。
すでに数えることを止めてしまった何度目かの盆の入りを、今年も俺は香也と共に迎える。
(香也と出会ったのはいつだったかな)
思い出せないほど昔だったような気もするし、ついこの間だった気もする。「あれはたしか……」と、随分昔になってしまった出会ったときのことを思い浮かべた。
(あの頃はすっかり寂れていたが、その前はここも随分賑やかな港町だった)
ここは昔、大勢の漁師たちの声にあふれる活気ある町だった。おかみさんたちや子どもたちの笑い声もひっきりなしに聞こえ、毎日が騒がしくも楽しかったことを思い出す。
(仕事も子育ても大変だったが、それはそれで楽しかった)
当時、この辺りは大漁に継ぐ大漁ということもあって大いに賑わっていた。余所の港では不漁が続いていたのに、どうしてこの港だけ違うんだと話題になったくらいだ。「きっと竜神様のおかげに違いない」とは古株の海人たちの言葉で、夏の稼ぎ時に入る前には竜神様を讃える盛大な祭りも催した。
「おぉい、すごい魚がかかったぞ!」
ある日、網に見慣れない魚がかかった。それは大層大きな魚で全体が黄金に輝いていた。これは竜神様からのお恵みに違いないと考えた漁師たちは、その魚を売らずに仲間内で食べることにした。
細々とながら漁師をしていた俺も相伴に預かることになった。母親を亡くして久しい息子三人にも食べさせてやろうと思い、集会所に連れて行った。いずれ漁師になると決意していた十歳の長男は、漁師頭の善吉じいさんからもらった竹の網針を片手においしそうに刺身を食べていたのを覚えている。
異変は食事が終わった直後に起きた。
最初に具合を悪くしたのは善吉じいさんだった。真っ青な顔をしながら厠へ行き、そのまま倒れてしまった。その後、意識が戻ることはなく帰らぬ人となった。
「じいちゃん、死んじゃった」
一番に悲しんだのは実の祖父のように慕っていた長男だった。よい漁師になれるようにともらった網針を握り締めながら何日も暗い顔をしていた。
しかし異変は善吉じいさんだけに留まらなかった。一人、また一人と倒れ、黄金の魚を食べた漁師三十人余りが次々と息を引き取った。生き残ったのは俺と息子たち、それに十人にも満たない若い漁師ばかりだった。
「何かの祟りに違いない」
誰もがそう思っていたが口にはしなかった。悪い噂が広がって魚が売れなくなっては困るからだ。もちろん俺も何も言わなかった。息子たちも雰囲気を察したのか、黄金の魚のことを口にすることはなくなった。
それから一月、二月と経つ間に、港町に住んでいた人たちの半数近くが余所の港へと引っ越した。黙って出て行ったということは後ろめたく思いながらも黄金の魚の祟りを恐れたのだろう。気がつけば多くが空き家になり、港町は港としての役割を果たせなくなっていた。そうして半年が過ぎる頃には生き残っていた若い漁師たちも全員が帰らぬ人となった。
それからさらに一月後、三人の息子たちも息を引き取った。あの魚を食べて生き残ったのは俺だけになってしまった。
(いつの間にこんなに重くなっていたんだろうなぁ)
腕と背中に三人の冷たい体を抱えた俺は、竜神様を祭っている小さな祠へ向かっていた。そこに息子たちの亡骸を埋めるためだ。
竜神様の祠の傍らには大きな杉の木がある。杉の木には竜神様の力が宿っていると言われ、船には必ず巨木の小枝を挿す習わしもあった。
(竜神様の杉の木と一緒になれば、きっとあの世で苦しむことはないぞ)
俺は無心で巨木の根元を掘った。港町には、もはや経を上げてくれる坊主も墓を掘る人もいない。息子たちの墓は俺自身で掘るしかなかった。
子どもとはいえ三人分は大層骨が折れた。しかしここ以外で成仏できる場所はない。そう思い、ひたすら掘り続けた。そうして無事に埋め終わり、両手を合わせたところで「もし」と声をかけられた。
振り返ると、見たことがないほど美しい顔をした男が立っていた。着ているものからして僧侶かと思ったが、剃髪はしていない。後ろに長く伸ばした黒髪は艶やかで、一瞬女かとも思った。しかし続いた声に男だということがわかった。
「どなたか眠っておられるのですか?」
俺は小さく頷き「息子が三人、眠っている」と答えた。
「それはまた……。拙い念仏ではありますが、唱えて差し上げましょう」
観自在菩薩……と美しい声が響く。少し前までは毎日のように耳にしていた念仏だ。念仏を聞くたびに「また黄金の魚を食べた者が死んだのだ」と突きつけられ、次はあいつか、いや自分かもしれない、もしや息子たちではと心がざわつき落ち着かなかった。
(そう思うこともなくなったな)
男が唱える念仏は不思議と心を穏やかにしてくれた。気がつけば、手を合わせていた俺の頬に幾筋もの涙が伝っていた。
こうして出会った香也は、いま港町で俺と一緒に暮らしている。いまではすっかり家族のようなものだ。
手持ち花火を手にした香也の後を、マッチとバケツを持ってついて行く。引き戸の玄関を出て小道を少し歩くと海沿いの道に出た。道自体は随分前に舗装されたものの、海に面しているところどころに土の地面が残っている。盆の迎え火を焚くため、あえて残してあるのだ。
「今年は僕たちが最後のようですね」
「そうだな」
左右を見るとあちらこちらで花火が燃えていた。すべて空に向かってパチパチと光っているのは、手持ち花火を地面に突き刺して火を付けているからだった。
「まるで小さな打ち上げ花火のようですね」
「そうだな」
この港町では迎え火に花火を焚く。子どもが楽しむような手持ち花火を地面に刺し、そこに火を付ける。花火はパチパチと音を立てながら光り輝く火の粉を空へと吹き上げた。その光を目印に海を渡って死者が帰って来ると言われている。漁師の町だから、あの世も海の向こう側というわけだ。
「さぁ、四本立てましたよ」
香也の声に視線を花火に向けた。黄金の火がキラキラと空に舞い上がり、それが宵闇で真っ黒になった水面に映っている。四本のうちの三本は俺の息子たちの分で、残り一本は香也の弟の分だ。
息子たちは漁師ではないが、漁師の息子だったのだから海から帰ってくるに違いない。そう言った香也の言葉に従い、毎年この迎え火を焚き続けている。
(そういえば香也の弟はどんな人だったんだろう)
もう長いこと一緒に過ごしているというのに、弟のことは何も知らない。話題に上ったこともなかった。俺のほうもどんな人物でどこで暮らしていて、どうして亡くなったのか聞いたことがない。というより亡くなった理由を訊ねることが憚られて聞くことができなかった。
(香也の見た目からして、弟は若くして亡くなったに違いない)
そう思うとやはり訊ねることはできない。それに香也自身のこともよく知らないままだ。出会ったときは僧侶かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
(経を唱えられるからといって僧侶とは限らないか)
しかもこの美しさだ。僧侶にしておくのはもったいない気がする。そんな香也は長くあちこちを旅をしていたようだが、ほかに行く当てはないからとこの港町に留まることになった。
(旅の理由も聞いたことはなかったが、訳ありなんだろうか)
いや、人には話せないことの一つや二つあるものだ。俺も香也に話していないことがある。とくに黄金の魚に関わることはいまだに口に出せないままだ。というより、俺以外全員死んでしまうような物を口にした男だと知られたくなくて口を閉ざしていた。
(もし話を聞けば、祟りだと思って町を出て行ってしまうだろう)
香也がいなくなる……そう思うだけでゾッとした。
俺には身内と呼べる者がいない。妻を亡くしたあと息子たちも失い、それからはずっと独り身のままでいる。少し先の村に兄弟がいたが、おそらくもう死んでしまっているだろう。兄弟の子どもたちもいるにはいるが、いまさら会いに行ったところでどうしようもない。
そんな天涯孤独の俺には香也しかいなかった。彼だけが俺の側にいてくれる。取り立てていい暮らしというわけではないが、日々小さな喜びや楽しみを分かち合える香也は俺にとってかけがえのない存在になっていた。
「盆踊りが始まったようですね」
少し離れたところから笛や太鼓の音が聞こえてきた。盆の入りの今夜、港町では盆踊りをやるのが習わしだった。昔、死んだ父親から「帰ってきた死者と一緒に踊って生前を懐かしむんだ」と聞かされたことがあったが、いまもそれは変わらない。
「少し見ていきますか?」
「そうだな」
連れ立って櫓が立つ場所に向かうことにした。昔は全員が浴衣姿だったが、いまは洋装で踊る人たちも増えている。
「……と思っていたんだが」
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
櫓の周りで踊る人たちは、皆昔を彷彿とさせるような浴衣姿だった。藍染めや藍色で模様が描かれた浴衣ばかりで、昨今人気の鮮やかな色合いの浴衣は見当たらない。帯も黒っぽいものや渋い色が多いように見える。
「なんだか昔を思い出すな」
「原風景、と言った感じでしょうか」
「たしかにそんな感じがする」
「そういう故郷があるのは、よいことではありませんか?」
「そうだな。若い人たちにはつまらないだろうが……」
そう思いながら盆踊りの輪を見たが、年寄りたちに混じって浴衣を着た子どもや若者たちも踊っていた。こんな古めかしい盆踊りに積極的に参加する若者たちもいるのかと思いながら、見物客たちにも視線を向ける。
(思ったより人が多いな)
まるで昔の港町に戻ったみたいだ。あの頃は漁師たちも大勢いて、おかみさんたちも子どもたちもすこぶる賑やかで元気いっぱいに働いていた。それを見る古株の海人たちも楽しそうで、何もかもが活気に満ちあふれたいい町だった。
それに比べて最近は人も減り……いや、周りを見る限り言うほど減ってはいない。そういえば、ここに来るまでの道沿いで見た迎え火の花火もたくさん刺さっていた。それだけ迎える側が大勢いるということだ。
(本当に昔に戻ったようだな)
目の前で踊る大勢の姿に懐かしさがこみ上げてきた。昔と同じように老若男女が浴衣を着て帯に団扇を差し、面を頭につけた子どもらも輪に入って櫓の周りを回っている。
トントン、びーひょろろ、トトントンと小気味よい太鼓の音と笛の音に、誰もが笑顔で手を振り足を出す。それを見守る見物客たちも皆にこにこと笑顔を浮かべ、輪に入らないものの手を動かし踊っている見物人もいた。
「今年も変わりませんね」
「え?」
「盆踊りを見ながら泣くのは一年前と同じですよ」
香也に指摘され、初めて自分が涙を流していることに気がついた。指で触れた頬はしっとり濡れていて、ほんの少しという感じではない。
(こんなに賑やかで楽しそうなのに、どうして泣けてくるんだろうな)
盆踊りは死者と一緒に踊るものだと聞かされてきたが、目の前で踊る人たちは皆楽しそうだ。太鼓も笛も寂しいものではなく、調子よく手足を動かしたくなるほど明るい。それなのに、どうしてこうも涙が出てしまうのだろうか。
「大丈夫。来年もその次も盆の入りは来ますし、死者との盆踊りもありますよ」
そう言った香也の指が俺の濡れた頬に触れた。拭うように動く指先は少し冷たく、それでいてやけにしっとりとしている。
そういえば香也の肌はいつもしっとりしている気がする。汗で濡れているということではなく、まるで清水に浸されているような具合なのだ。
「ここにいる限り必ず盆はやって来ます。こうして死者を迎え、死者と踊り、そして盆明けを迎える」
香也の指がゆっくりと頬を撫で、唇の端に触れた。そのままツツツと下唇を撫でられ、その感触に首筋がぞくりとする。同時に体の奥がざわりとした。
「誰もがこの世とあの世を行き来し、こうして触れ合う盆は必ずやって来ます」
香也の指がのど仏に触れた。それから掛衿に指を這わせ、指先が布地の中へと入り込む。素肌にそのまま浴衣を着ているから、すぐに鎖骨のあたりにしっとりとした指が触れた。それだけで肌がざわめき粟立った。
「香也」
こんなところで何をしているんだと咎めるように名を呼び、肌をくすぐる手を掛衿から引き抜いた。呆れながら掴んだ手を見ると、やけにきらきらと眩しく光っている。
握った手を改めてじっと見た。櫓を照らす灯りが反射しているからか肌まで赤々と光っている。いや、赤く反射する肌は見慣れた白というより金色のように見えた。その輝きとしっとりした感触に、なぜか背筋がぶるっと震えた。
「何もかもいつもどおりじゃないですか」
「……そう、だったか」
少し下にある香也の唇がやけに赤い。いや、これは櫓を照らす炎の色で、艶やかに見えるのはそのせいだ。そう思っているのに胸がざわめいた。こめかみがちりりと痛み、思わず目を細めた。
ふと、近くを通り過ぎた小さな足が視界の端に映った。視線を向けると幼い男の子が藍染めの浴衣を着て踊っている。その後ろに続くのもやはり小さい男の子で、その後ろには少し大きい男の子が踊っていた。
「……あれは」
三番目の男の子の右手には竹の網針があった。どこかで見たような気がするが、港町ではよく使われるもので珍しくない。それでもなぜか気になり、男の子と網針を目で追いかける。
「いけない人ですね」
「……っ」
不意に帯の下辺りを撫でられて驚いた。慌てて不埒な手を掴むと、それ以上の力で香也が俺の手を握り締める。
「わたし以外に目を留めるなんて、いけない人ですね」
「香也?」
「さぁ、盆踊りはもう終いです。わたしたちは別のことを楽しみましょう?」
微笑む香也に手を引かれ、賑やかな盆踊りに背を向けた。それでも何かが気になり振り返ると、あの男の子が竹の網針を懐に仕舞うのが目に入った。
(あぁ、そうか)
引っかかっていたのは浴衣だったのだ。男の子が懐に手を入れたことで、ようやくそのことに気がついた。男の子の浴衣は左前だ。よくよく見れば、その後ろの人も、さらに後ろの人も左前に着ている。
(そういえば、昔は藍染めの浴衣を着せて送り出していたな)
死んだ漁師たちも三人の息子たちも藍染めの浴衣を着せて埋葬した。これも港町では当たり前のことで、だからか盆踊りでは迎える側も藍の浴衣を着るのが慣わしになっていた。もちろんいま俺が着ているのも藍の浴衣で、香也が着ている浴衣にも藍で模様が描かれている。
盆踊りの輪から視線を外し、俺の手を引く香也に視線を向けた。ゆっくり歩いているからか小振りな尻がゆっくりと揺れている。香也は足が長く、こうして浴衣姿になると体の線がわかる後ろ姿が妙に色っぽく感じられた。
一歩踏み出すたびに藍の模様が揺れ、それに合わせて裾もゆらゆらと揺れる。まるで大きな魚の尾びれのような感じで、陸地を優雅に泳ぐ魚のような様子だ。
(俺は……こういう大きな魚を見たことがある)
不意に大きな尾びれをぴしゃんと動かす巨大な魚の姿が脳裏に浮かんだ。その魚は月の光に鱗をきらきらと輝かせ、腹のあたりから上はすらりとした白い肌をしていた。黒く豊かな髪を持ち、しっとりと清水に濡れたような肌の感触で……。
(……いまのは何だ……?)
こめかみがズキッと痛んだ。頭に浮かんだ巨大な魚は、はたして本当に魚だっただろうか。目眩のようなものを感じ、左手で額を押さえる。一瞬足元がぐらついたものの、右手を引く香也に引きずられるように歩き続けた。気がつけば辺りはすっかり真っ暗になり、波の音が広がる海沿いの小道だということに気がつく。
(俺はたぶん、あの魚に触れたことがある)
それだけじゃない。艶めかしい声を聞き、熱いぬかるみに触れたことがある気がした。だが、あの魚がいったい何なのか思い出すことができない。
「大丈夫、すぐに思い出しますよ」
香也の声にハッとした。周囲を見ると家と家の隙間のような場所で、背後から賑やかな祭り囃子が聞こえてくる。随分歩いたと思ったのは勘違いだったのか、盆踊りの輪はまだすぐ近くにあった。
「あなたはすぐに忘れてしまいますけど、思い出すのもすぐですから」
振り返った香也の唇がやけに赤い。それに濡れたように艶々としている。浴衣から覗く首筋には明らかに噛みつかれたような生々しい痕も見えた。
(そうだ、俺はこの艶やかな唇の感触を知っている)
それだけじゃない。浴衣からのぞく噛み痕の原因も知っている。これは俺が噛みついた痕だ。
「俺はまた噛んだのだな」
「これですか?」
噛み痕を指先で撫でながら艶やかな唇がふわりと笑う。
「別にどこを噛んでもいいんですよ?」
「馬鹿なことを言うな」
「いまさらじゃないですか」
笑いながら香也が襟元を少し引っ張った。そこには噛み痕が二つあり、肌はなぜか真っ白ではなく黄金に光っている。暗闇の中で光る肌はまるで極薄の鱗を貼り合わせたような様子で、それを見た途端なぜか口の中にじゅわりと唾液があふれ出した。
俺はこの肌が柔らかいことをよく知っている。味は甘く、淡泊なのに後を引く極上の味わいを思い出し、口の中にまで味の記憶が広がった。
(だからあの相伴のときも、つい食べ進めてしまったのだ)
生魚が得意でなかった三男までもが何切れも口にした。あれだけの大物だったのに、すべて平らげてしまうほど全員が夢中で食べた。あの甘美な味わいはその後一度たりとて忘れたことはない。
「んっ」
香也の悩ましい声が聞こえてきた。気がつけば襟元を大きく開き、俺は黄金色の肩にがぶりと噛みついていた。口の中に一瞬だけ鉄臭い匂いがしたものの、気にすることなく柔肌に歯を立てた。
「ふふ……わたしの血肉はおいしいですか……?」
あぁ、間違いなく美味だ。こんなにうまいものは口にしたことがない。
「あの黄金の魚よりも……?」
黄金の魚……あのときの魚か。そうだな、あの魚よりもずっと甘くて、それによい香りがする。芳醇で喉を通るときにはカッと熱く感じる不思議な味わいだ。だが、それがたまらなく美味い。
「それはわたしが成熟しているからでしょう。熟した人魚は大層美味だと言いますから」
そういえばそんな話を耳にしたことがある。あれは誰に聞いたのか……海で死んだじいさんに聞いた話か、それとも漁師頭の善吉じいさんだっただろうか。
「弟はまだ成熟する前でした。それなのに陸に近づいたりするから網にかかってしまった。それをこの町の漁師たちは平らげたのです」
弟とは誰のことだろう? 香也の弟は死んだのではなかったか?
「しかし、成熟する前の血肉では不老不死にはなれません。逆に猛毒となり死に至らしめる。案の定、漁師たちは次々とあの世へ旅立ちました。それを見るたびにどれほど小気味よく思ったことでしょう。憐れな弟の敵を討ったのだという気持ちにさえなりました。それなのにあなたは生き延びた。きっとわたしたちとの相性がよかったのでしょうね」
肩に噛みつく俺の頭を香也の腕が抱きしめる。そのままうっとりとしたような声で「ふふ」と笑った。
「あなたは何度もわたしを口にしました。成熟したわたしの血肉を数え切れないほど口にした。その結果不老不死となり、わたしと共に生き続けることしかできなくなった」
「不老……なに、」
「盆の入りを迎えると、あなたはこうして毎年多くのことを忘れてしまう。夫婦のように長い時間を過ごしているというのに、何かに邪魔をされているような気がして腹が立ちます。これも町の者たちが戻ってくるからか、それとも父を慕う息子たちの仕業か」
「息子……息子たち、」
一瞬、櫓の周りで踊っていた男の子を思い出した。右手に持っていた竹の網針が脳裏に浮かんだものの、すぐに霧のように消えてしまう。
「まぁ、それも盆の間だけのこと。盆が明ければまた二人きりの生活に戻ります。そう、二人きりでまた夫婦のように過ごすのです」
香也の言葉にこめかみがジクジクと痛んだ。早く口を離せともう一人の自分が叫んでいるのに、甘美な味わいから逃れることができず夢中で柔肌に噛みつく。
「それに、今年こそ無事に生まれるかもしれません」
俺の頭を抱えながら香也が歌うように言葉を紡いだ。
「人魚と人の間に子が生まれる確率はとても低いと言われています。でも、あなたは弟の血肉を食らいわたしの血肉も食らい続けている。あなたには二人分の人魚の血肉が宿っている。これならきっと、生まれる」
甘いものが喉を通り過ぎた瞬間、バチッと何かが弾け脳裏に小さな影がいくつも浮かび上がった。
(そうだ、俺は……俺はもう、人ではないのだ)
自分が年を取らなくなったと気づいたのはいつだっただろうか。思い出そうとしても、もう思い出せない。随分前にそのことに気づいた俺は放浪の旅に出た。それにも疲れ、誰もいなくなったこの港町に戻ってきたのはいつだっただろうか。
死んだ者たちを供養する日々を送っていたとき、一人の美しい男が現れた。誰かと言葉を交わしたのは十数年ぶりのことだった。話しながら、俺は頬を涙が伝っていることに気がついた。
(あぁそうか。俺は人だったのか)
とっくに人ではなくなったのだとばかり思っていた。まるで石ころのように生きていた俺が人だったことを思い出すには十分だった。俺は目の前で微笑む香也にすぐさま夢中になった。
共に暮らすことを提案し、いつしか肌を重ねるようになった。最初に誘ってきたのは香也だったかそれとも俺からだったか、もはや覚えていない。息子たちと暮らしていた我が家で、大きな尾びれが現れる水の中で、時も場所も選ばず交わり続けた。
そうして香也は三回、子を生んだ。いずれも死産だった。四人目は生まれて五日後に亡くなった。いずれも魚のような姿をしていたが、あれは間違いなく我が子だ。
「人魚は自分たちだけで子を残すことができません。そういう種族なのです。だから陸に上がり相性のよい人を見つけ交わるしかない。そうして子を成すまで相手を生かし続ける。そのために自らの血肉を相手に与えるのです」
甘く囁く声に喉がごくりと鳴った。このままでは駄目だとわかっているのに、甘く芳醇な肌から口を離すことができない。
「あなたは人魚の血肉を二人分、口にしました。おかげで誰よりもわたしたちに近しい人になった。わたしたちにとって貴重な種の持ち主になったというわけです」
まるでもっと口にしろと言わんばかりに香也の腕が俺の頭を強く抱き締めた。
「最初は弟の敵と憎みもしましたが、それも遠い昔のこと」
歌うように言葉が続く。
「あなたはもう人と交わることはできないでしょう。たとえ交わったとしても人との間に子を残すことはできない。そもそも人魚の種は人にとっては猛毒そのもの、交われば相手を死に至らしめる」
頭を抱く腕に力が入るのがわかった。
「そう、あなたは人魚であるわたしとしか交われなくなった。わたしとしか子をなせなくなったのです。あなたは体も心もわたしだけのものになった。あなたは未来永劫、わたしだけのもの」
歌うような美しい声が耳に心地いい。まるで大吟醸を飲み干した後のように体がふわふわとし、酩酊しているかのように意識が朦朧とし始めた。
「さぁ、わたしたちの家に帰りましょう」
ようやく口を離した俺に香也がニィと笑った。そうして再び右手を取り、二人並んで小道を歩く。そこはやけに静かで、先ほどまであったはずの家々の灯りはどこにも見当たらなかった。人の気配もなく、海を渡る風の音しか聞こえない。
(そうだ、ここには俺たちしかいない。いや、それでも今日は盆の入りだから……)
そう思った途端に太鼓と笛の音が聞こえてきた。「さぁさ、踊れや踊れ」「死者と共に踊れ」と漁師たちの声がする。それに合わせるようにおかみさんや子どもたちが賑やかな声を上げた。
盆踊りの賑わいを背に、俺は香也と共に慣れ親しんだ海沿いの道を歩いた。道沿いには何本もの手持ち花火が刺さっているが、いずれもとうの昔に火は消えている。
(盆の明けは……どうするんだったかな)
そう思ったものの何も思い出せない。三日後のことはそのとき思い出せばいいかと花火の残骸から視線を外す。
(そもそも三日後というのも関係ない。時計すら必要のない暮らしをしているんだからな)
だから、あの振り子時計を修理する必要もない。
トトントン、ぴーひょろろと小気味よく鳴る太鼓と笛の音を聞きながら、開けっ放しだった引き戸の中へと入った。漁師だった頃に住んでいたこの家で、今夜も香也と二人で過ごす――いままでも、これからも。