挿話6 風魔小太郎(イース国間諜)
物心ついた時から、自分は親を知らない人間だった。
どことも知れぬ森の中。たった1人の家族である弟と共に、ただただ生きるためだけに食べて寝て生きていた。
特段、そのことを不幸だと思ったことはない。
なぜならそれは他の人間というものを知らなかったからで、他の人間を知ってからでも、それが現世ではありふれた光景だと知ったからだ。
だから生きていくことは辛くなかったし、弟と一緒にいられるその時間は何ものに変えられないほど幸福な時間だったと思う。
そしてそれは、人買いに連れ去られ、弟と一緒に売られても変わらなかった。
変わらない、はずだった。
『お前を次代の風魔小太郎にする』
人買いに売られて数年が経った後。村の長と呼ばれる残った歯も少ない白髪のしわがれた老人はそう言った。
一体、何を言われたのか分からなかった。
昼は過酷な労働と訓練、夜は残飯を与えられるだけの下忍ともいえる立場の自分が、一族の頭領になるという。血のつながりも何もない、孤児だった自分が。
理解も何もなかったけど、そんなことを言える立場じゃないし、あるいは食べられるご飯が良くなるとか、弟の立場もよくなるんじゃないかとか、そんなことを考えた。
そのころには感じていたのだ。
自分が、自分たちが、不幸だと。
ただ何にも縛られず、自分たちが生きていくことに精一杯だったあのころは、自分が不幸だなんて思ってもいなかった。
それが人買いに売られ、世間を知り、他人を知ったことによって、自分が彼らよりも不幸なのだと感じてしまった。
それは家族がいなかったからなのか、それとも、知識を得てしまったからなのか。分からない。
分からないけど、断ることは死を意味していたから受けなければならなかった。
弟を残して死ぬわけにはいかない、そう思ったから。
そして私は風魔小太郎になった。
風魔党を率いる、首領の1人になったのだ。
それからのことは、もうあまり思い出さない。
ただ血と謀略と暗闘の日々に加え、あの男の毎日の仕打ちに心を閉じてしまっていたのかもしれない。
それが再び開かれたのは、この不可思議な世界に来てからだ。
元にいた相模とは違う。伴天連らしき、髪の色や目の色が異なる異国の世界。
かつての自分の体も、どこか奇怪な状況になってしまったこの世界。
あの男と、今度こそ命を共有するほどに深くつながってしまったこの世界。
そこで出会った。
あの少女は、滅びの中で1人、生に満ち溢れていた。未来を見据えた瞳をしていた。
そこは性別は違うけど、死んだ弟に似ていた。
『僕の分まで……生きて……ねぇ……』
弟の今際の言葉は今でも忘れない。
瞳だけでなく、声も似ているようで、彼女と話すのはとても辛い。
同時、弟を想起させる彼女は。彼女こそは。死なせてはいけないのだと、深く心の中で誓ったことだ。
だからきっと、あの時の刃先は鈍ったのであって、こうして彼女に協力することに、自分も抵抗を示さないのだと思う。
「んんー? なんかごたついてるなぁ。こういう時はあんまいいことは起きなさそうだけど」
私が言う。
ここは“いいす国”から西へ10里(50キロ)ほど行った場所。“うえるず”という国を抜け、“でゆえん国”の国都付近。
遠目から見ても人々が慌ただしく動き回るのが見え、西門からさらに西へと兵糧を運ぶ輸送部隊が出ていくのが見えた。
出陣か。
どこに、というのも、ある程度想像はついたけど、ここは情報収集を優先すべきだと思い国都へ入る。
商人に扮しているから、それとなくばれないよう、酒場に入り、周囲の会話に耳を澄ます。
不特定多数の人間の声を聞き分ける訓練は積んだ。がやがやとうるさい中から、目的のものを探し出す。
そして見つけた。
「おいおい、今回の戦。大丈夫なのか? ホルブって小国だけどこれまで何度も攻めきれなかったじゃないか」
「なぁにそのためのクース国との停戦だろ。噂じゃあ、クースからも軍船が出るって話だぜ。その代わりに海上の交通権を譲ったって話だぜ」
「ひゃー、そりゃホルブも終わりだな。けど、ホルブがデュエンの領地になりゃ、今までより楽になるんじゃね?」
「そういうこと。なんてったってホルブ港が高い金払わなくても使えるようになるんだからな。ま、俺たちゃにとってはイイことってことよ」
「ちげぇねぇ!」
これは……どうやら事態は急速に進展していたらしい。
“ほるぶ国”は小国。けど湾港として有名で、南の“とんかい国”、南西の孤島“くうす国”、西の強大国“ぜどら国”、そして北にこの世界の首都である“あかしや国”へつながる海路を持っている。
東国と西国をつなぐ、我が国の下田のような場所だ。
つまりそれだけ貿易港として発展していて、その資金を背景に軍備を増強しているような国だ。
これまでは陸に面する“でゆえん国”のみ警戒して防いできたが、今の話では例の南西の孤島“くうす国”までもが出てきたという。
陸と海。
2方向から攻められて防ぎきれるほど、“ほるぶ国”は強くない。
滅ぶ、か。
そもそも“ほるぶ国”にいた自分は、忠誠心なんてものはあったためしがない。
ただそこで行き倒れて、日銭を稼ぐために少しの間いただけ。だから滅ぶと言われても、そんなものかと思うだけ。
ただ、これによって“いいす国”が窮地に陥ったのは確か。
これで“でゆえん国”は西からの脅威を取り払うことになるだろう。わき腹にあたる“ほるぶ国”を滅ぼすだけでなく、“くうす国”とも一時とはいえ停戦にこぎつけた。
西からの脅威が減った分、“でゆえん国”が行うのは北と南の防備に当てるか……あるいは、残る東国へと兵を向けるか。
過去にあったという“きずばある”の戦い。その恨みをそそがないとは決して言い切れない。
そしておそらく、それは彼女の国にも関わることで。
『気を付けて』
出立の際にそう言った彼女の顔が思い浮かぶ。
まったく、この乱世になんて笑顔をする。親すらも敵になる世界で、なぜそこまで人を信じられる。
まるで……弟と同じじゃないか。
「ちっ、早い。早いっての!」
私は舌打ちしながら店を出て、その足で街から出る。
足は自然と西に。
何が早いのか。
今回の侵攻が、誰にとって早いのか。
一体、自分の真の主とは誰なのか。
考えることはできる。だが行動を許されることはない。
私はあくまでも、主君に仕える影――そのさらに影でしかない。
それでも。それでも、一時現れる私の意思は、この果てにある未来に不安と期待をないまぜながらに思いをはせないわけにはいかない。
「…………」
視線を感じた。
左手。林の中。
敵意や殺意はない。けど、探るような視線。
「ったく。仕方ないっての」
迷った挙句、私の体はその視線の方向にくないを投げた。
その結果を確認せず走り出す。これも仕事。そして宿業。
逃げることはできない。
ならば、この状況下ではこれが最善なのは私にも理解できた。
いつか、いつの日か。この行動が自分を、そして彼女を縛るかもしれない。
けど今は仕方ない。
自分が、彼女が生き残るかは、その時にならなければ分からない。だから今はこれでいい。こうすることで、未来を閉ざしてはいけないのだから。
2日後。
そこから数十里西にいった場所、“元”ホルブ国との国境にて。
遠くに見える青く広がる海。その手前にあるのは、多くの帆船がとまり、石造りの家屋が多く並ぶ中でも緑も多く、まるで竜宮城のような美しさを誇る都市だった。
だがそれは過去のこと。
今も船がとまってはいるが、商用のより一回りも二回りも大きく、その量も桁違い。
なによりあの美しくきらびやかな街が、今や煙を吹き出し、風に乗って悲鳴や怒声が聞こえてくるのが分かる。
さながらの地獄絵図に、遠目ながらも胸が痛む。
遅かった。いや、自分が戻ったところで何かできたわけではないのは確か。
それでも一時、ほんの一時でもそこにいた人間としては、抱くはずもないと考えていた哀愁の想いを抱いてしまったのは確かだ。
感情が豊かすぎる。それで忍び失格だと言われたこともある。
けど、これが自分だ。
感情を出すことと、忍びの任務に徹するということはまた別の話。もとより、最初から忍びだったわけではないのだ。
けど、それで今までやってきた。
そして、今も。
だから頬を伝わる水の雫も、きっと忍びとは関係のないことで。
彼女の身に、これから起こるだろう惨劇を思っても、それはもう避けようのないことで。
この日、ホルブ国は滅亡した。