挿話88 巴御前(ゼドラ国将軍)
この世であってはならないことが2つある。
美味いだろうと、強飯に塩をぶっかけてくる兄者。
そしてもう1つは、義仲様の死。
前者はまだ兄者をぶん殴るなど解決方法はあるが、後者はまったくない。
むしろそんなことを考えることすら恐ろしい。
それでもきっと、そんな時に遭遇したのなら。
義仲様より先に巴が死ねば、そんな恐ろしいことを見ることもなくなる。いや、自分が犠牲になることで義仲様が生き延びる可能性が出てくるなら、それはもう天へと昇る心地だろう。
でも……たぶんきっと義仲様はそれを受け入れない。自分より先に巴を逃がそうとするだろう。あの人は、そういうお人だから。
ただその正反対にいて、同時に死んではいけないお人がいる。
白起様。
この世界で巴に生きる意味を与えてくれた。戦う場所を与えてくれた。
それはもう、自分の中では命を捧げるに等しいものだった。
なにかあれば父や兄者は「お前は家にいろ」だの「結婚しろ」だの言ってくる。それを振り切って戦場に立とうとすれば、男たちがまたぶつくさ言ってくる。
それを叩きのめすのは簡単だったが、それによって味方に不和が出るのはマズい。それくらいは心得ていた。
けど自分が奥に籠って、和歌や貝合わせといった遊興にうつつを抜かすなんて考えただけでもゾッとする。外に出て体を動かし、敵の首をもぎ取る方がせいせいする。今更、源氏(物語)もないだろう。というか嫌いだ。あの男。もし目の前に光るの君が出てきたら、即刻首を落としてやりたい。
そんな自分の気性を理解して戦場に連れ出してくれたのは、義仲様であり、白起様だった。
だから自分はあの2人のために戦う。
先に義仲様と出会い、契っていた身からすれば白起様に身を捧げることはできなかった。それでも白起様は気にした様子もなく、自分を傍においてくれた。
だからその期待に応えるだけのこと。
今、イリスを狙った策は不発に終わり、分割した軍は各個に撃破されようとしていた。
それをなんとかまとめ、白起様に一度、落ち付いた場所で兵を掌握させること。それがこの場での急務。
だからその手伝いをする身としては、殿軍に立つのは当然のこと。
その先に何があろうと。
1分でも1秒でも稼ぐこと。それが責務。
「白起様を逃がす。それこそ、ゼドラ国の明暗を分ける一大事と知れ!」
「おお! 我ら巴様と共に!」
兵たちの士気は十分だ。彼らには申し訳ないとは思う。そう言ってくれるのも、ついてきてくれるのも。
敵の追撃。およそ5千強。
そこに1千で向かった。
正面からぶつかれば相応の被害が出る。
今は1兵でも惜しい時。
だからこそ、やることは1つ。
「俱利伽羅峠逆牛追落!」
自軍の前から牛が100頭ばかり出現し、広がるようにして敵に突っ込んでいく。
「ちぃ、例の巴か!」
「ぎゃわわー! さすがに生ものは無理ですー! 菊には無理ー!」
敵の指揮官。そこか!
狙いを定めて突っ込む。
敵の追撃の手は鈍っている。だから正面から行く。
「くたばれぇぇぇぇ!!」
最前列の敵を薙刀で薙ぎ払った。胴体が分断され、血を吹いて残骸が地面に落ちる。それを待たずに次の獲物に襲い掛かる。その時には部下たちもついてきた。
一気に突き入る。
敵将の位置まではまだ遠い。
「退け!」
2,3度薙刀を振ったところで合図を出した。
ここは無理をするところじゃない。牛による混乱も相手はすぐに立て直してきた。これ以上欲をかくと逃げられなくなる。命をが惜しいわけじゃない。今ここですぐ全滅するのと、わずかでも時間を稼ぐのであれば、後者が今の正義だ。
だから退く。
敵将の位置も確認できたこともあり、そこを集中的に狙えばいい。
それから二度、三度と敵に牛を突っ込ませて自らも突っ込む。
それでも敵の将に届かない。ただ敵の追撃の足は十分に鈍った。
「巴様! ここはもうお退きを!」
部下が心配した様子でこちらに寄せてくる。
なにをまだまだ、と言いたいところだが、異能を連発したこともあり、すでに疲労の極致だ。
殿軍の役割は全滅することではない。最期まで敵の足を止めることにある。
「よし、退く!」
「はっ!」
敵の追撃の足は鈍った。
それでよしとして白起様の軍の最後尾を目指す。
首尾よくやれた。白起様は褒めてくれるだろうか。
そうだ。まだまだだ。白起様はやれる。まだ戦える。私も。まだ。
「巴様!」
部下の声にハッと意識が戻る。
視線の先。白起様の軍。その最後尾がおかしい。
いや、あれは……。
「敵っ!?」
どこから現れたのか。固まった敵が白起様の軍の最後尾を襲っている。
混雑していてよく分からないが、2千ほどか。
どこから来たのかと考えて、ゾッとした。あるいは、3つに分かれていた最後の1つの軍ではないのか。
それがここにきてようやく到着し、到着と同時に白起様の軍を襲った。報告にあった兵数よりかなり少ない。おそらく騎馬だけで強行軍をしてきたのだろう。
ぎりっ。
歯が欠けるほどに食いしばる。
おのれ。よくも……。
「あの敵を皆殺しにするぞ!」
「おぉ!!」
味方の危機だ。疲れたなど言うこともなく、部下たちが気炎をあげる。
敵の軍。見定めた。
先頭に立つ巨漢。それが強い。だが横から挟撃すれば軍が揺らぐ。個の武はすさまじいけれど、軍を止めればそれで殿軍の役割は達成できる。
だから敵の中段。そこに狙いを定めて突っ込む。すでに異能は出せない。だが相手の数的にそれで十分なはずだ。
すると敵はこちらの存在を検知したのか、くるりと先頭から向きを変えてこちらに向かってきた。
とんでもない速い状況判断。そして軍の動き。ただものではない。
いや、実際にただものではなかった。
そのひらひらとした緑がかった着物。薙刀を一回り大きくしたような刀。そして赤みがかった肌をした巨馬。
そんな男は1人しか知らない。
「関――」
衝撃が来た。なんとか薙刀の柄で受けた。受けることができた。
ただ衝撃を吸収しきれず、そのまま上体が弾けるように後ろに飛んだ。落馬しなかったのは運がよかった。
だがその後に呑まれた。
続く敵兵も強い。何人かを叩き落したが、何度か斬られた。問題ない。浅手だ。
すれ違って敵の中から抜ける。相手も旋回する動きで距離を置く。
振り返ってゾッとした。
後ろにつけていた部下。1千はいて、先ほどの戦闘でもほとんど脱落がなかったのが、半分ほどに減っていたからだ。
あの先頭の男。三国志における最強の一角。関羽。その武力のとてつもなさを肌で感じた。
さらに愕然とした。
今の一瞬で白起様を追っていた部隊がこちらに向いて迎撃の準備を完了させていたからだ。
しかもそのまま前進してくる。
いや、喜ばしいこと。
白起様の追撃を断念させた。私にとっては十分な戦果。
ならあとはもう、暴れるだけ暴れるだけだ。
口元がにやける。
それを意識しないことはなかった。




