挿話87 白起(ゼドラ国大将軍)
初めての経験だった。
敗北。
弁明しようのない負けだ。
秦では負けなかった。廉頗が来ようが、趙奢が来ようが、信陵君が来ようが、負けたことはない。戦略上の退却はあったものの、壊滅的な負けというものはなかった。
だが負けた。
あの少女に負けた。
あれだけ分析と慎重を重ね、これしかない以上の機会を得て命を取りに行った。異能も使い切って、一気に勝負を決めにいった。
にもかかわらず生き延びた。あの呂布すら返り討ちにして。
全ての段取りを覆して目標を殺せなかった。
それはもう負けに等しい結果だ。
いや、軍はまだ残っているし、自分も健在だ。
敵との決戦を前に兵力は劣るものの、決して負ける範疇ではない。
……それもまた虚しい。
イリスを包囲するために分散した兵力が、個々に刈り取られる結果となった。
そして呂布を失い、そして琴も失った。
琴。彼女のことは少し後ろめたい気持ちもある。
だがそれがイリスを殺すための最善手であり、効率的であったのなら彼女の命も惜しくなかった。それが彼女には伝わらなかった。だから彼女は死んだ。
半月前の戦いで為朝を失い、項羽も失った。
今日の戦いで呂布をも失った。
決して負けるような面子ではなかった。
死ぬようなはずの面子でもなかった。
だが死んだ。
なぜかは分からない。強ければ勝ち、弱ければ死ぬだけのことではないのか。
あるいはあの死神という男が言うように、運命というものなのか。
もはやゼドラ軍は軍のていをなしていない。
この自分1人が率いるだけの部隊。配下から上がって来るような者もいなければ、自分が死ねばもうそこでこの軍は――国は終わるだろう。ここまで周辺国に喧嘩を売ったのだ。今更白旗をあげても、到底許されるようなものではない。
ならば自分はそれに対しどうすべきか。
考えたこともなかった。
考える必要もなかった。
秦は強く、自分が負けないのであればそんなことは起こりえないからだ。
だがここは秦ではなく、自分ももはや不敗とは言えない。
ならばどうすべきか。
考える時間はあった。
だがそのために払った代償は、また大きなものだった。
「白起様!」
「巴か」
巴には西の伏兵を任せていた。
距離的には一番、合流が早い。
「今は退く」
「はい!」
それだけで通じた。それで十分だった。
だが進路を西に取った時、何かを感じた。
振り返る。
そこについてくるはずの巴がいない。
自らの隣にいつもいたはずの巴がいない。
「巴!」
叫ぶ。彼女の存在を感じるように。
「白起様!」
巴の叫びが聞こえる。姿は見えない。
どこだ。どこにいる。
「木曾義仲がいちの家臣、中原兼遠が娘、巴! 殿軍つかまつります!」
「馬鹿な、巴!」
死ぬぞ。その言葉は飲み込んだ。さすがに兵たちがいる前でそのようなことは言えない。
「どうか、勝ってくださいませ白起様!」
それきり巴の声は聞こえなくなった。
気配もなくなった。
それでも軍を止めることはできない。
自分はこの軍の主将。そして敵の追撃があるのは必定と考えれば、この中で殿軍の働きができるのは、為朝と項羽と呂布を失った今、巴しかいない。
非常に効率的で効果的な結果だ。
秦の軍を率いていても、自分ならそうする。おそらく司馬キンなら進んでそう進言して、自分は何も考えずに許すだろう。
だがなぜだ。
なぜこうも胸が痛む。
このようなことは一度も感じたことのない。血が流れるでも骨が折れるでもない。物理的な作用は何もない。
なのに締め付けるような、戸惑いとともに起こる痛みは。
なぜだ。
なんなのだ。
問いかける相手もいないまま。
自分はただ、軍を西に走らせるしかなかった。




