第122話 バケモノ
風が解けた。
僕の行く手を阻み――そして守ってくれた風が。
それはつまり1つのことを指し示している。
僕のことを守る心配がなくなったか。
あるいは守れなくなったのか。
ほんの数分。
体感的には1、2分だったと思うけど、実際には5分くらい経っていたのかもしれない。
「琴さん!」
そのわずか数分で、周囲の状況は一変していた。
土埃が舞い、喧騒はどこか遠くへ。最前まで殺意と敵意に満ちたその空間は一変していた。
静寂と。
血の臭い。
そこは殺戮の現場だった。
地面に倒れ伏す人々の群れは、その身を何かに斬り刻まれたかのようにボロボロになり果て、命の水で地面を濡らす。それには馬も含まれていて、そこかしこに横たわる人間と馬の死骸はなんとも言えないうすら寒さを感じさせる。
生き残った人間もいるが、それらはすでに戦意喪失しているようで、どこか及び腰だ。
その中心。
僕から10メートルほど離れた位置にいたのは、ボロ布に身を包んだ大柄な人物。
いや、違う。ボロ布だなんて。けどそう思ってしまうほどに、彼女の着ていた鮮やかなピンクの着物は。血と汗と切り傷によって襤褸と化していた。
それでも立っている。
彼女は――中沢琴さんはまだ2つの足で立っている。そのことに希望を見いだした僕の足は、一歩前に踏み出した途端。絶望に代わった。
「イリスか」
呂布の声。
琴さんの背中の向こう。そこに呂布がいる。
なぜそこにその男がいるのか。一体、何を思ってそこにいるのか。
そんなことはどうでもよかった。
今は。
ゆらり、と琴さんの体が揺れる。
そしてそのまま。電池が切れたように――命の残量がなくなったように。ゆっくりと。ただ呆気なく。ぱたり、と。まるで重みがないように。全てが抜け落ちてしまったように。倒れた。
そして、二度と起き上がることはない。
「……あ…………ああ!」
何が起きたか理解しえない。
起きた事を分かりたくない。
起きたことが信じられなくて。信じたくなくて。
目を塞ぎたいがそれもできない。それをすることが卑怯であるかのように。裏切りだと言われるかのように。錯覚だ。分かってる。けどそれもできずに、ただただ呆然として目の前に起きたことにわななき恐れる。
情けない。これでも30年以上生きてきた大人のすることか。
けど仕方ないだろ。
今、僕の目のまえで起きたことはあってはならないことで。あってほしくないことで。それはもう天地が真っ逆さまになったような。そんな天変地異の出来事。
いや、分かっているはずだ。
琴さんが死んだ。
その前に立つ。赤兎馬に乗った威風とした姿の呂布に。
けどその前に彼女は獅子奮迅の活躍で……そう言うのもむなしい。それでも確かに、呂布の部下のことごとくを討ち果たした。どこにそんな力があったのか。
それが彼女のスキルの真骨頂というのか。あるいは命を削った戦いと言うべきか。
いずれにせよ、呂布の部下はそのことごとくが戦闘不能になり。
それでもまだ呂布は無傷で。
琴さんは死んだということ。
不思議と涙は湧かなかった。
あるのは怒り。
どうしようもない。抑えきれない怒り。
それは呂布に対してか。
違う。
僕自身。
彼女を救えなかった僕への怒り。
なんでこうなってしまった。なんでこれが起きてしまった。
起きちゃいけないことだったのに。
あってはいけないことだったのに。
何が軍神だ。
何が軍師だ。
なんでこんなことを起こしてしまった。
僕が軍神じゃないから。
僕が軍師じゃないから。
違う。
絶対違う。
僕には力がある。
少なくとも、戦える力だ。
普通の人よりははるかに、圧倒的に戦える力。
それでも相手が相手だからと諦めていた。
最強だからと言い訳をしていた。
勝てないと思い込んでいた。
相手は歴史に残る最強の男たちだ。
白起、項羽、源為朝、そして呂布。
そんな化け物に勝てるのは、それこそ人智を越えたもの。それこそ化け物でないと不可能。
そう悟っていなかったか。
それは僕が人間であろうとした結果だ。
人間であって、人殺しにはなりたくなくて。その結果がこれだ。
琴さん。鶴姫。岳飛将軍。ジャンヌ・ダルク。林冲。ウェルキンゲトリクス。
その他。大勢の人たちが犠牲になった。
全部僕のせいだ。
僕がさっさと……人間であることをやめていれば。この犠牲はなかった。
傲慢だ、自意識過剰だと言われても仕方ない。
それでも思ってしまう。
僕がさっさとこいつらを皆殺しにしていれば……。
…………。
僕は人間でありたかった。皆と一緒にいたかった。皆と笑いあって。悲しい時には泣いて。それでも一緒に生きていたかった。
でもそれでこんなにも悲しいことが起こるなら。
僕は人間じゃなくていい。
化け物でたくさんだ。
多くの人の犠牲の上に僕がいる。
それを忘れないためにも。
僕は化け物になる。
そう決めれば、視界が開けた。
これまで憎悪と悲憤と憾みと慟哭にまみれた心が晴れ渡る。
ただ殺す。
それだけでいい。
周囲の様子が分かる。
背後。もう少しの位置に白起。そしてその後ろに土方さんと高杉さんたち。さらにその奥に誾千代とスキピオ。高杉さんらが間に合って誾千代も無事だったみたいだ。それは素直に嬉しい。
あとは東西から向かって来るゼドラ軍はあと数分かかる。
つまり相も変わらず包囲の中にいる。
けどどうでもいい。
ここにいるのは残りは僕1人で。あと数分で呂布を始末すればそれでいい。返り討ちにあっても馬鹿が1人犠牲になるだけでそれでお終いだ。
うん。
それでいい。
そして呂布を見る。
配下の兵はほとんどが倒れた。といっても生きている兵もそれなりにいる。けどそのどれもが少なからず傷を負っていて、これからの僕の相手にはならないだろう。
問題は呂布。
だけど……ふっ。笑ってしまう。違う。憤りだ。
何が無傷だ。
呂布の鎧の右肩あてが吹き飛び、傷らだけになっている。呂布の頬にも擦過傷が残され、赤兎馬と共に少し息が上がっている。
そんな分かりやすい目印を見逃すなんて。その節穴の眼球をえぐりだしてしまえ。
いや、その前に。
えぐり出すのは別にある。
目の前の武神。その心臓を。
「呂布。お前を殺す」
「面白い!」
呂布が破顔し、そして最後の戦いの幕が開いた。




