第76話 理事長(?)
「えっと、理事長室って……ここか?」
散々迷って、道行く教師らしき人に道を教えてもらい、そこでさらに迷い、ようやくたどり着いた時には少し汗をかいていた。
なんだこの学校。広すぎだろ。
これまでもラスに案内されて歩き回ったけど、昔通った学校の3倍くらいあるぞ。さすが金持ち。
すでに1限目は始まっている時間で、廊下に人気はない。
それに少し離れにあるこの理事長室は、周囲から隔絶されて、どこか犯しがたい領域に包まれているように思えた。
荘厳な木製のドアと、理事長室と書かれたプレートがそれを助長しているのだろう。
ハンカチで汗をぬぐって、呼吸を整える。
遅い、とか言われるのかな。てか理事長ってどんな人だろうか。てかなんで呼ばれたんだろう。
そんな思いを抱きながら、右手をあげてドアの前で一瞬硬直。
ノックって何回だっけ? 2回? 3回? あるいは4回? まさか1回ってことはないだろうし、5回は多すぎる気がする。ええい、就活の時なんて覚えているか!
ええい、ままよ、と少し強めにノックを3回、間をおいてもう1回。
………………。
反応、なし!
あれ? 誰もいない? それとも聞こえてない? あるいは入っていいの?
なんて思考がぐるぐると回っていると、
『入りたまえ』
ドアの中からくぐもった声が聞こえた。
なんだよ、いるじゃん。早く言ってくれ。
そのことにホッとしながらも、僕はドアノブに手をやり、
「失礼しますー」
ガチャリ、とドアを開く。
中は普通……というわけではなく、豪華なものだが、どうも最近、豪華な部屋というものに見慣れて、新鮮な驚きが少なくなっているような気がする。
フローリングの中央に高そうな絨毯が敷かれ、応接セットらしき机と椅子が並んでいる。その奥、大きな窓を背にした理事長用の大机が置かれていて、その奥に背中を向けて立っている男性がいる。
背は今の僕より高い。160後半か。茶色の髪をオールバックに固めているようで、背中からでも青年実業家みたいな雰囲気が醸し出されている。
彼が、理事長なのだろうか。
圧迫感、というかどこか気圧されそうな雰囲気を持つ部屋だ。
というかそもそも理事長室なんて入ったことないから、比較のしようがないんだけど。
パタン。
ドアが静かに音を立てて閉まる。それでなんだかこの部屋に閉じ込められた気がした。
一体、何の用件で理事長は僕を呼び出したのか。分からない。分からない分、怖い。何が起こるか分からないから。
だからさっさと要件を終わらせて帰りたい。
「よく来たね、イリス・グーシィン」
そう思ったところに、男の声が響いた。
若い男の声。どこかで聞いたことがある。誰だ?
いや、理事長の知り合いなんていない。だからきっと似たような、誰かの空似の――
「待っていた、いや、会いたかったぞ、イリス」
男が、振り返った。
その顔、その目、その口、その姿。
「さぁ、俺様と共に今宵――ぶへっ!」
鞄を投げていた。軍神の力で。
こんなので寿命が1日減るのかと思うと気が滅入るけど、それくらい僕の怒りは激しいものだったと思ってほしい。
「なんで、あんたが、ここに、いる!?」
興奮しすぎて、言葉にスタッカートが入ってしまった。
「おいおい、そんな形で愛を示さなくてもいいだろうー? ふふ、君の愛は重すぎるがゆえに綺麗に、輝く、とこしえに、フォーエバー」
頭が痛くなってきた。早退しようかな。
そう思うのも仕方ないだろ。
だってまさかここにあの男がいるなんて、誰が思うか。
テベリス・イグナウス。
いや、まさか? まさかなの?
イース国の一番偉いパリピが理事長なんて、悪い冗談にもほどがあるぞ!
「ん? なになに? そんなに頭を抱えて? あ、分かった。この俺様から沸き上がる男前オーラに目がくらんだな?」
「はいはい、あんたのバカビームのせいで目が潰れましたよ」
「ははは、そう恥ずかしがらなくてもいいではないか!」
ダメだ。皮肉――いや、直球の嫌みも通じない。
もしかしてこの敵、軍神スキルも軍師スキルも通じない、最強の敵なんじゃ?
「本当に理事長?」
「当然であろう? このソフォス国立学園は由緒正しき我が国の教育機関。それ相応の人間が理事を務めなければ、生徒や親御さんも納得するまい?」
言ってることは格好いいんだけどなー。
言ってる人がなー、残念だよなー。
「といってもまだ現役の理事長がいるから、跡を継ぐのはもう少し後になるがな」
「まだ未定じゃねぇか!」
「ああ、それだ。それなのだ、イリス。君のその罵声、害虫を見るような凍える視線。もっと、もっと俺様にくれ!」
あ……これヤバい奴だ。新しい扉を僕が開いちゃったやつだ。
「これは責任とって……埋めないとな」
「責任を取るなら、俺様が一生養ってやろう! その代わり、1日1回、行ってらっしゃいの罵りを!」
それでいいのか、あんた?
パリピ、無能、お飾り、馬鹿、七光り、茶髪、チャラ男に、変態とドMが追加されたぞ。
「ちなみに僕への用事ってのは?」
「ん? それは俺様に会いたいだろうと思ってな」
どこをどう間違えるとそんな自意識過剰になれるんですかねぇ!? 半日ぐらい問い詰めたいけど、それこそ時間の無駄だからやめた。
というか今この瞬間こそが時間の無駄すぎる時間だった。コストカット。
あと1年という寿命。まだ1か月しか経ってないのに、すでに3分の1を消費してしまっている現状だ。
正直、そろそろヤバいんじゃない? と思い始めてきた今日この頃なのに。このままだと……。
「用がないなら帰ります」
「わ、待て待て。そうだな……どうだい、この後、みんなでレッツパーリィな感じであげてかない?」
「かない」
「ダーマス!」
意味が分からなかったけど、ジーザス的な感じなんだろうか。
というか本当にこいつ、パリピだよな。
「前の理事長、どんな思いでこいつに引き継ごうって思ったんだ……」
「ん? 別に? お前のやりたいようにやりなさいって」
「誰が?」
「じいちゃんが」
「じいちゃん?」
「先代……というか現理事長、俺様のじいちゃんだけど?」
「よし、ちょっとそのじいちゃん呼んで来い。ボコるから」
「あ、待って! ボコるならまず俺様から!」
「誰がお前の喜びに協力するか!」
「そうじゃそうじゃ! わしの可愛いイリスちゃんの愛撫の時間を奪う気か!」
「何が愛撫だ! ほんとどうしようもないな!」
「違うぞ、イリス! これは俺様の愛だ!」
「そうじゃ、このわしの愛、受け取ってー!」
「なんでお前らの愛なんて――ん?」
あれ? なんかおかしくない?
声が1つ増えてない?
一人称俺様は目の前にいるテベリスその人。
それにツッコんでるのは、なんというか僕で。
あと1人。なんか“わし”とか言ってる鳥類のおじいさんっぽいの、いない?
右を見る。壁だ。
左を見る。こっちも壁だ。
上を見る。ただの天井。
下を見る。フローリングと絨毯。そこに、誰かの足が見えた。僕のじゃない。というか背中が見えた。それは人(?)にしては小さいもの。何やら肌色のつるりとしたボーリングの玉のようなものがあって、こんなもの、この部屋にあったかな、と思う。
ただそれが近づいて来て、僕の膝のあたりをそっと何かが覆う。
それが蛇に舐められたようなほど、奇妙な感覚で気持ち悪くて嫌悪で、
「わーい、イリスちゃんのあんよー」
「な、なんだお前!」
「わっふーい!」
咄嗟に蹴り飛ばしていた。
僕の右足から離れた小さなそれは、くるりと宙で回転すると、そのまま何事もなかったかのように理事長の机の上に着地する。
それは人だった。
僕よりはるかに小さい、背の折れ曲がったような老人。ボーリングの玉と思ったのは、綺麗に禿げあがった頭頂部だったわけで。
つかこの爺さんに抱き着かれてたのか。今更ながらにゾッとする。
てかこの爺さん、誰だ。
と思った次の瞬間には、答えが出ていた。
「あ、じいちゃん! どこにいたんだよ!」
「じいちゃん!?」
じいちゃんって、さっき言ってたことが正しければ、この学園の現理事長。いや、それだけじゃない。この国の太守が世襲制だとすれば、以前はこの国の……。
爺さんはにやりと会心の笑みを浮かべると、決めポーズを取り、
「その通り、数多の好きをばらまき、一夜の愛を求める永遠の旅人。イース国第37代太守、コイトゥ・イグナウスとはわしのことよ! かぁーっかっか!」
「さっすがじいちゃん! やっぱパネェわ!」
また変なキャラが増えた。
というか、こいつのせいで孫は……この国は。それを思うと、暗い感情が沸き上がってくる今日この頃だった。