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第95話 誘引

 項羽の標的は謙信に向かった。

 彼女の毒舌満載の挑発が、完全に項羽の殺意を引き寄せたのだ。


 正直、ホッとしている。

 あの項羽と真正面から打ちあうのはできれば避けたい。軍神スキルも格下の相手なら効果的だが、項羽相手には十全に機能しないのもある。今更、僕が前に出て謙信と項羽の戦いに割って入ったところで邪魔にしかならないし。


 かといって謙信を囮にして自分だけ安全圏にいるというのも避けたかった。

 それは戦術的な話よりも気持ちの問題。他人に嫌なことを押し付けて、自分だけのほほんとしているなんてことは今、できはしない。何より姉さんのことを考えると、今も沸き上がる怒りが僕を押さえつけられない領域まで高めているのもある。


 ただ沸騰する頭の中でも冷静に場を見つめる自分がいる。


 その冷静な自分が、今何をすべきかは判断してくれるだろう。


 その判断の1つがすぐに来た。


 謙信に突っ込む項羽。

 対する謙信は、フッと笑みを浮かべると、


「退け!」


 手を挙げて、くるりと反転。そのまま駆けだす。


 逃げたのだ。項羽に対し、完全に背中を向けて。


「逃げるか!」


「逃げるんじゃない。見逃してやってるんだ」


「殺す……!」


 さらに煽って項羽の速度を上げさせる。


 これは……上手い。


 謙信が逃げる方向。それは自陣の方向。つまり味方が多い方向で、項羽からすれば敵に囲まれる危険性を増させる。さらに退路を引き離すことにもなっている。

 さんざん挑発して見事な誘引だった。

 項羽の煽り耐性がどうこうというより、完全に謙信の毒舌が勝ったということか。


 なら僕がやるべきことは1つだ。


「騎兵は続け! 歩兵は横陣で槍衾やりぶすま! 敵を逃がすな!」


 今ここで必要なのは速度。だから騎兵とようやく追いついた歩兵を再び分離した。

 僕を筆頭に騎兵は謙信と項羽を追い、歩兵はここで横に陣を広げて槍を構えさせる。項羽たちの退路になるこの場所に、歩兵を横に広がらせれば逃げ場は極端に狭くなる。

 もちろん横に広げれば縦深じゅうしんは薄くなるが、槍を前に構えておけば騎馬隊の動きを制限できる。横に動けばその分、こちらが追いつく時間稼ぎになるし、万一中央突破されたとしても、動かない歩兵に対し犠牲はそれなりに出るだろう。

 どちらに転んでも被害は大きい。


 歩兵を万一の備えに残し、僕は謙信と項羽を追った。

 逃げる謙信を追う項羽。その項羽を追う僕。奇怪な追撃戦になっているけど、挟撃になっている分、こちらが優位だ。


 敵の騎馬隊。もちろん先頭を行く項羽の速度が群を抜いているが、その後ろはまばら。それを後ろから追っているのだから、必然、遅い馬や疲労した馬、そして乗り手が負傷していれば項羽よりは遅れる。

 僕らはその遅れている敵を叩き落した。

 敵は走らせるのとは逆方向、つまり後ろを見ながら戦わなければいけないのに対し、僕らは前に槍を突き出せばいいだけ。仮に相手が反転しようにも、ゲームと違って一瞬で方向転換できるわけじゃない。疾駆の最中だから横にぐるりと回る旋回運動が必要になるわけだけど、それはこちらに無防備な横を見せることになる。だから方向転換ができない。


 もちろん相手が玉砕覚悟で馬を止めれば、必死に追いかけるこちらは対処できずに激突。自らを犠牲にして追撃を止めることができるけど、真後ろにいなければ問題はない。そこらへんはもう、空気というか呼吸というか。軍神の勘だ。


 当然、後ろが僕らに襲われていることは先頭の項羽は気づいている。まだ後ろを襲われていない先頭が方向転換してこちらに襲い掛かれば、こちらは一撃で爆散するだろう。


 けどその時にはもう1人の軍神が動く。

 謙信は項羽の気が後ろに向くのを察知するや、馬脚を落として項羽に斬りかかる。

 それを項羽は迎撃するが、2撃目には至らずにサッと再び距離を取ってしまう。その呼吸がさすがで、項羽は手出しもできずに軍の数を減らすに任せるしかない。


 けど、そこまでだ。


 兵を減らせても、そこは項羽。

 1人になったところで、彼が全力で脱出に力を注げばこの薄い包囲などなんのその。簡単に突破して逃げられる。

 そのための挑発なんだろうけど、決定打に欠ける状況。どうする……?


「ちょこまかとうるさい奴! 死ねっ!」


「ふははっ! まるで怒りに我を忘れた猪だな! おめでとう、家畜から野生の動物に進化したぞ!」


 謙信は相変わらず楽しそうに項羽をおちょくっている。そんなことをして何が……いや、何かするのか。

 このまま陣まで呼び込むなんてことは、さすがの項羽でも迂闊には来ない。それは分かっている。ならば何が……。


 と、その時。謙信と目が合った。

 項羽の軍を挟んで200メートルは距離があるだろうのに、すでに太陽は山に隠れて辺りは暗闇に包まれ始めているのに、なぜか目が合ったと感じる。


 何か言いたいことがあるのか。伝えたいことがあるのか。


「右だ」


「待て、このクソアマ!」


 謙信が進路を右にとった。それを項羽がが追う。

 陣から離れるその経路。味方がいるとは思えない。いや、あの地形。距離。となると。


「全軍、一時停止だ!」


 味方を止める。当然、ピタリと止まればクラッシュするから徐々に速度を落とす形。それだけで、先を行く謙信と項羽との距離が数十メートル開く。

 そこを安全圏とした僕は、再び駆けだす。


 距離が開いている。けど状況は分かった。謙信が速度を上げてる。それを追う項羽。直進すれば丘陵地。左手には茂み。右に行けば木々生い茂る森。

 徐々に謙信の方向がずれる。左へ。


 そして謙信が茂みを通過した。


 その時だ。


「撃てぇ!」


 銃声が暮れなずむ原野にこだました。

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