第94話 惜別と責任と
「姉さん!」
僕は馬から飛び降りて、姉の体を抱く。
濡れている。血だ。胸から腹を斬られて血がどくどくと流れている。
この広範囲の傷。それに腹部の傷。
最先端の科学医療が発展している現代と比べて、機械もなにもないこの世界の医療では絶望的な傷だ。
つまり……助からない。
それでも僕は姉の体、もう意識がもうろうとしているだろう彼女を抱きかかえて馬に載せて、僕も再び馬に飛び乗った。
周囲はすでに乱戦。いや、数の上ではこちらが不利。
「イリス様、このままでは……」
近くにいた兵が馬を寄せてきた。
「安心するんだ。今に歩兵が来る! それに敵の総大将は傷を負って逃げ出した! さぁお前らも逃げないと死ぬぞ!」
前半は味方に、後半は敵に向かって叫ぶ。
すでに熱は引いていた。
敵をなんとしてでも殺す。そんな呪いのような怒りは、姉さんの声によって鎮まった。後に残るのは後味の悪い胸糞感。
僕の声が契機になったのか、敵はわずか動揺しはじめ、味方はより
そして2分もしないうちに敵が乱れた。遅れてきた歩兵が横から突っ込んだのだ。
馬の脚が止まる乱戦。
騎馬同士なら互角だが、そこに歩兵が入り込めば圧倒的にこちらが有利になる。
騎兵はどんな場合でも強い最強の兵種ではないからだ。
馬の速度を活かした速攻、かく乱などは強い。だが足が止まれば巨大な的だ。もちろん頭上から来る敵の攻撃や、馬の巨体による踏みつぶしは効果があるが、走っている時よりははるかに狙いやすい。
さらに数でも勝って挟撃となれば、相手にとっては刈り取られるだけの殺戮タイムでしかない。
「くっ、退け!」
すでに白起も逃げた以上、犠牲を増やす必要はないと部隊長が判断したらしい。
敵はサッと離れると船上から離脱を始めた。
勝った。
とは思えない。
相手の強襲による被害は出ているし、陣も燃やされている。タヒラ姉さんもと考えると、素直には喜べない。
いや、一点。隙がある。
そこを討てば、あるいは……。だけど姉さんを放っておくわけにはいかない。いや、でもここで戦局を変えることができるとすれば……。
「イリリ……」
「っ、姉さん!」
声に驚いてみれば、タヒラ姉さんが薄く目を開けてこちらを見上げてくる。
「イリリ。あたしは大丈夫だから。行って」
「でも――」
「戦場に、私情は、ダメでしょ。行って」
「……」
「行きなさい! イリス・グーシィン! うっ……、行って、勝ちなさい」
「…………」
姉さんのあるいは最期の願い。
姉さんとの思い出が頭に流れる。この世界で初めて出会った時。それから色々なところで一緒だった。楽しかったこと、辛かったこと、恥ずかしかったこと、嬉しかったこと。色々ある。ありすぎて、虚しくなる。
そんな別れも、彼女は置いて行けと言う。
ならそれに答えずして、何が男だ。
「誰か、姉さんを頼む。あとは全員僕に続け」
「っ、はっ!!」
騎兵の1人に預けた姉さんが、最後に僕を見て、薄く笑った。
これで別れかもしれない。
そう思うとやるせない。
けど今は。僕はこのイース軍を預かる最後の人物。そしてこの反ゼドラ連合軍を取りまとめる人物でもある。
甘えは許されない。
泣くことも許されない。
ただ勝つために。
ただ帝国の威信を取り戻すために。
行く。
行け。
敵の強襲による被害。それを勝ちに転じる。
そのために狙うは、敵にできたほころび。隙。
その隙はどこにあるか。
他の戦場は分からない。皆の奮戦に頼るしかない。
けどただ1点。
僕が知っている限りの、最大にして最難関の、一手の逆転満塁ホームランとなる策。
ある人物を討つ。
白起じゃない。
逃げられた相手に追いつくのは難しい。
なら残るは1人。
だがそれは逃げる白起を討つのとはまた違った難しさを突きつけられる。
それが最難関たるゆえん。
それが最強たるゆえん。
覇王。
伝説にして最強の猛将を。
項羽を、討つ。




