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挿話61 張遼(エティン国将軍)

「強くなったな、張遼」


 その言葉は自分の胸をえぐった。

 それを言われたかった。そのために泥をすすり、恥を受け入れてまで生き延びたのだから。


 胸が熱く高鳴る。

 それは痛みを引き起こしながらも、それに心地よさを感じる自分もいた。


 だが。

 だが。だ。


 それとは真逆の感情が心の底からあふれ出す。


「奉先殿。そんなことはない。私はまだ弱い。なにより……あなたは負けていない。いや、負けることは許されない!」


 そうだ。

 呂布奉先は私の目標だった。そして無敵だった。

 ゆえにこのように簡単に超えてはいけない。それほどの巨大な壁。そうあるべきだ。


「そうでもない。俺はお前に負けた……いや、常に負け続けたのかもな。義父(丁原)のもとにいた時も、董(卓)相国のもとにいた時も。徐州で曹操と敵対した時も」


「違う。あなたは負けていない。あなたは誰にも負けなかった。呂奉先という個は絶対に誰にも負けてはいない!」


「ああ。そうか。やはり俺は負けたのか。曹操に」


「それは……」


 言うべきではなかったと後悔するが、後の祭りだ。


「その通りです。だから私は曹丞相に降伏した」


「ふん。そしてこの俺に匹敵するほどの力を手に入れたのか。あの男に敵は多いだろうしな」


「…………」


 答えにくい問いだ。

 そういったものには口をつぐむことを覚えた。あの奇想天外なお方に仕えていると、そういう小狡さも覚える。そういった自分が新鮮でもある。


「ふっ。答えづらいか」


「我が主ゆえ」


「ならばその主に言っておけ。お前という大器を得たのなら。そして俺を倒したというのなら。天下を支配しろ。それ以外の末路は許さんとな」


「……必ずや」


 その時に感じたのは、もう二度とこの世界で奉先殿とは会わないだろうという予感。

 お互い、相打ちの形で傷を負った。奉先殿の脇腹からは自分が指した傷から血が流れているし、自分の胸元は鎧がばっくりと割られて僅か肉まで到達している。


 お互い、あるいは命に係わる傷を与えあっていた。

 なのになぜこうも穏やかに、かつて北にいた時のように話し合えているのか。分からない。分からないけど、それもまた悪くない。そう思えてしまった。


 ヒュゥゥゥゥゥ


 遠く、天高く上がる音が戦場に響いた。

 あのような音。聞いたことがない。あるいは何かの合図か。


鏑矢かぶらや……白起、撤退か」


「奉先殿?」


「俺の今の主が逃げろとよ。まぁそういうことだ」


「……奉先殿」


 だが奉先殿は私の声には答えず、赤兎馬をひるがえして背を向け叫ぶ。


「琴、ここは退くぞ!」


「……はっ!」


 この世界の服とはまた違った服を着た少女が答える。

 そして奉先殿は顔だけこちらを向き、


「じゃあな、張遼」


「おさらばです、奉先殿」


「……ふっ」


 小さく笑った奉先殿は、そのまま軍と共に駆け去っていく。


「将軍、敵は撤退するようです! 追撃を!」


 奉先殿の撤退によって、余力を取り戻した部下が駆け寄ってくる。


 そうだ。追撃だ。これは戦い。敵が逃げるなら追って倒さなければならない。

 だがどうもその気にはならなかった。


「いい。偽装の可能性もある。こちらは兵をまとめてどのようにでも動けるように……しろ」


「しかし……あ、将軍! お怪我を!?」


「問題、ない……兵を、まとめ……」


 緊張が解けたからか、奉先殿が行ってしまったからか。あるいは終わったと思ったからか。

 急に胸の痛みが激化した。


 それは痛みを通り越した、殺意となって全身を駆け巡る。

 それはまともに起きてはいられないほどの。


「あ、しょ、将軍!」


 ぐるりと視界が回る。落ちた。かは分からない。ただ視界は青に染まっている。


 ふっ。どこが強くなったですか。どこがあなたの負けですか。

 謙遜してみせたが、少しは自身があった。なのにあなたは悠々と退き、自分は追撃もできぬまま、立っていられないままになっている。


 いや、これが呂奉先だ。

 目指し続けていた武のいただきだ。


 だからこそ、これからも目指す指標になる。まだまだ研鑽が必要だと思う。


 けど今は少し休もう。

 一応は、奉先殿と分けたということだから。一時、休んでも罰は当たるまい。


 ただ。


 空が青い。


 そうとだけ思った。

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