第70話 闇夜の襲撃
深夜だ。
久しぶりの一家団欒を経て、お風呂に入った後、庭に夕涼みに出た。
空に浮かぶ、上弦の月を見ながら、ほぅっとため息をつく。
ランプ程度の灯りしかないこの世界では、不夜城のごとくきらめく街並みもない。
だから満天の空に散らばる星に、またもこうして感動している自分がいる。
正直、迷っていた。
これからのことをどうすべきか。
先ほど。食後の話も終わり、散会になろうという時。父さんが僕に待ったをかけた。
『明日か明後日に時間もらえるか。明日辺りにタヒラが戻るそうなんだが、その際にイリスにも証言をしてほしい。戦の進展についてと……確か、コタローと言ったか。その者の処遇についても。学校には連絡をしておくから、家にいてほしい』
正直、今の今まで小太郎のことを忘れていた。
どうやら向こうでダウンした僕を色々と気遣ってくれたようだが、共に国都へ戻るということは許されず、タヒラ姉さん監視の下で今まで前線にいたらしい。
それが今度のタヒラ姉さんの帰還に合わせて連行し、今後の処遇を決めようという。
連行とか処遇とかって言葉が気に食わないけど、一応、彼の身分は他国のスパイなのだ。
はいそうですか、と迎え入れるわけにはいかないのは確かだ。
けどあの彼の言動。嘘を言っているとは思えない。騙しているような感じもしない。
すべて勘だ。
だがそれは軍神の勘であり、軍師の勘でもある。
だから僕は彼をまったく疑っていない。
時代は違うとはいえ、同じ国に生まれた者同士であり、この理不尽な世界に送り込まれた間柄でもあるし。
何より、彼がいることで今後の戦いというものが一変すると思っている。
正直、まだ戦いに抵抗はある。
けど、カタリアに言われたように、何もせずに引きこもるのは嫌だった。
このまま刻々と死へのカウントダウンを縮めるだけでいるのは、何よりも嫌だった。
だから戦う。
けどこれまでのように、敵を倒す戦いじゃない。
なるだけ犠牲を少なくして、直接戦うのではなく相手を降伏させていく。
無血による天下統一。
そんなもの、これまでの歴史上でも、ゲームですら起きたことのない奇跡。
けど、それを目指さなければ、もっと多くの血が流れてしまう。
だから僕は戦う。
戦わなくていいために戦う。
といっても、どうすればその無血統一ができるのかは分からない。
それを目指すにあたって、必要なのが小太郎なのだ。それは間違いない。
彼の身の軽さと情報網の構築。これによって、流されなくてよい血が流れなくなるのは重要なんだ。
だから小太郎を処断したり、追放したりなんてさせるわけにはいかない。
明日か明後日。僕の新しい段階の戦いが始まる。そう思った。
「よし、寝るか」
頭も整理できたし、心構えも出来た。
たまにはこういった時間も大切なのかもしれない。
そう思って、部屋に戻ろうと振り返った瞬間。
――死を、感じた。
軍神の勘。咄嗟に身を沈める。その頭上を、何かが薙いだ気がした。振り返りざまに足を振る。衝撃。ガードされた。
それでも空中にいた相手を吹き飛ばして距離を生むことに成功する。
影は灯りのない庭の門の方へと飛んで、着地した。
危なかった。
咄嗟の反撃がなければ、間違いなく喉をやられていた。
少し腰を落として対峙する。どう動いても対応できるように。
逃げ出しはしない。距離があっても、背中を向けた瞬間に後ろから刺されるのは、こういう展開でよくあるものだからだ。
というのは冗談としても、灯りのある家の方に向かっても、相手からはこちらの姿は丸見えなわけで危険が大きいと判断した。
玄関のランプと月明りが生み出す闇の中にうごめく影。
人影のような気がしたがはっきりとしない。黒い装束をまとっているので、この明り程度でははっきり識別できないのだ。
ふと集中を乱せば見失ってしまいそうなほど、気配の薄い相手。
それでもありあまる殺気が、襲撃者がそこにいることを物語っている。
「やれやれ、また忍者か? 風魔が来たから、甲賀とか伊賀がいても驚かないぞ。百地か、服部か、あるいは軒猿、黒脛木あたりかな?」
軽口を叩くように影に対する。
そうしないと自分も周囲を包む圧倒的な闇に飲み込まれそうな気がしたからだ。
だが相手に返答はない。
当然だ。自ら正体を明かす暗殺者など見たこともない。
そしてそれは1つ確信に至る。
この身軽さ、刃物を使い首を狙う執拗さ。
あの岩山で襲ってきた奴だ。
くそ、どうする。
今は何も武器がない。当然だ。自分の家だぞ。
というかあの時も襲われた意味が分からないけど、やっぱり今も襲われる意味が分からない。
イリス・グーシィンも学校の連中に恨みを買っていたみたいだけど、学校の外で命を狙われるほどの者なのか?
カタリアの実家のインジュイン家からの刺客、と思ったけど、まさかここまでやるとは思わないし、だったら僕より狙う人間はいるはずだ。
様々な想定が頭の中に流れては廃棄されていく。
とめどなく流れる思考。それは僕の武器でもあるわけだが、この場ではそれは致命的な弱点だった。
「しまっ――」
巡る思考に気を取られ、気づいた時には遅かった。
背後に人の気配。
そして喉元に当てられた、薄い紙のようなもの。
よくこういう時に“ひんやりとした”って表現が使われているが、そんな表現なんて使ってる暇はこっちにはないんだよ。てか腹の部分じゃなくて刃の部分を皮一枚のところで当てられているのだから、ひんやりするほどの面積もない。
いや、自分の背筋が随分ひんやりとしたけど。
なんてことを考えるのも、やっぱり驚愕と恐怖のためか。
これならまだ小松姫とやりあってた方が気が楽だ。
というかこの状況。もう詰んでる。
暗殺者はあと少し腕に力を籠めれば目的を達成できるのに対し、僕が打てる手は皆無というのだからどうしようもない。
左手は背中に回されてホールドされているから逃げようとしても無駄。体の位置的に暗殺者は背後にいるのだから頭突きとか右ひじを使うとか、足で股間を狙うとかできそうだけど、動いた時点で喉に刃が食い込むことになるだろう。
もはやどうしようもない状態。
まさか、これから頑張ろうって時にいきなりゲームオーバーとは。
体から力が抜ける。
惜しいな。これからいろいろ出来そうだったんだけど。
これも罰か。人を殺してしまったことの。
そう思って、すべてを受け入れるために目を閉じ、数秒か数瞬後に起きる出来事に歯を噛んで耐え――
「――――」
何かが、聞こえた。
耳を澄まさなければならないほどのささやき声。
右耳に当たる温風から、背後の暗殺者によるものだと分かる。
けど分からない。なぜ暗殺者がそんなことを? 末期の祈りでもしろってか?
再び来た。吐息と、言葉。
意識を耳に集中させ、単語を拾う。
「フウマコタローヲシンジルナ」
「っ!」
言葉に一瞬、体が緊張する。
風魔小太郎? 信じるなって。いや、そもそもその名前を知っている? 誰だ?
「一体お前は――」
声を発した。
もうナイフが喉元にあることなど関係ない。この相手には問いただしたいことがたくさんある。
だが――
「……いない?」
いつの間にか拘束されていた体は自由になり、身震いでもすれば喉を斬り裂くはずだった刃も消え、襲撃者自身の存在が夢であったかのように、周囲には人っ子一人いない。
「なん、で……?」
意味が分からない。
なんで襲撃者が僕の命を狙うのか。誰の命令なのか。
それに加えて何故、風魔小太郎のことを知っているのか。何故、彼を信じるなと助言めいたことを言うのか。何故、僕に何もせず去っていったのか。殺そうと思えば、簡単だっただろうに。いや、そもそも殺さないつもりなら、最初の一撃は、あの殺す気満々の一撃はなんだったんだ?
そして極めつけ。聞こえた声は間違いなく女性のもの。背中に当てられた部分もそれを裏付ける。
本当に分からない。
軍師スキルをもってしても、知らないことは知りようがないということか。
「おい、誰かいるのか?」
声がした。
家の方向。この声は、父さんだ。
玄関の扉が開いた。
一瞬にして警戒心がよぎる。
例の暗殺者が、なぜ僕を見逃したか。それはそもそも僕なんかを相手にするわけではなく、グーシィン家で一番の実力者であり失ったら困る人物を狙うとするなら――
「父さん!」
「ん、どうした。イリス――おおふっ!?」
出てきた父さんにしがみつくようにして体を寄せる。
そのまま、待つ。
相手が来るのを。
…………。
……………………。
………………………………?
来ない。
来ない?
なんで?
まったく意味が分からない。
来ない理由がない。じゃあ別の誰か? でもヨルス兄さんは出仕しているとはいえ、言っちゃ悪いけど、まだ父さんの下働きだし。トルシュ兄さんも、優秀らしいとはいえ僕と同じただの学生だ。
あとは……ヨルス兄さんの妻のミリエラさん? いや、ないだろう。
他はもう、執事やらメイドさんやらの、グーシィン家に仕えているとはいえ暗殺するターゲットにはなりえないだろう人々。
だから一番の狙いは父さんだと思ったんだけど……。
分からない。分からないが、とりあえずこの場は安心なんだろう。
先ほどまでの殺気もないと、軍神スキルの勘は言ってるし。
なにより――
「うぉぉぉ、イリス! そんな抱きしめて、そんなにお父さんが恋しかったか! 嬉しい! お父さんは嬉しいぞ! よし、今日はもう、一緒に寝るか!?」
「寝ぼけたこというな、バカ親父!」
……うん、こんな奴、狙う価値もないってことだな。そうだよな? 心配した自分が馬鹿みたいだった。
切野蓮の残り寿命228日。
※軍神と軍師スキルの発動により、12日のマイナス。